穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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滑雪瑣談 ―石川欣一の流行分析―


 日本スキーの黎明期。人々は竹のストックでバランスを取り、木製の板を履いていた。


 材質としてはケヤキが主流。最も優秀なのはトネリコなれど、ケヤキに比べてだいぶ値が張り、広くは普及しなかったという。


 そうした素材を、まずはノコギリで挽き切って大体の形を整えて、次いで入念に鉋がけして面をとり、適当な厚さと幅とに仕上げる。下の写真は更にのち、蒸気の作用で曲げをつくっているところ。

 

 

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 大正末から昭和にかけてのスキーブームの真っ只中では、これが飛ぶように売れたのだ。


 老いも若きも紳士も淑女も、みな炬燵の誘惑を振り切ってまで肌刺す寒気の戸外へ飛び出し、雪の斜面を滑りまくった。


 皇族とても例外ではない。

 

 昭和三年、厳冬期の二月を敢えて選んで秩父宮雍仁親王殿下が北海道を行啓なされ、札幌鉄道局長に向かい、

 


「北海道は将来世界的ウインタースポーツの土地とするやうに、鉄道省等も、スイスのやうに、スポーツマンのため鉄道ホテルを建設し、内外人を北海道に集めてはどうか」

 


 そのようなご指摘をお与えになった一件は、以前の記事で既に触れた。


 が、実はこのとき、秩父宮殿下ご自身、札幌市を中心としてスキーの練習に熱中遊ばされたということは、未だ書いていないと思う。

 

 

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(札幌近郊のスキーヤー

 


 練習を通して札幌の地によほどの愛着を抱きなされた秩父宮は、このあたりにどこか適当な場所を見繕ってのヒュッテ山小屋建設をご希望なされた

 

 道庁以下、関係者一同、この仰せに喜悦した。札幌こそが日本スキーの中心たること、これで最早疑いがない。それだけの宣伝効果はあると見込んだ。

 


「冬の北海道は全く人間の住むところでないものゝ如く思はれてゐた内地人に非常な刺戟を与へ、また北海道における冬の味はひを十分宣伝されたことである」

 


 という道庁役員の言葉の中に、その消息が窺える。


 遅滞なくすべてが駆動して、同年十二月十日、札幌の南、標高910m、万計沼のほとりに於いてヒュッテはめでたく竣工をみた。


 翌年一月、今度は高松宮宜仁親王殿下が北海道を訪問なされ、出来たてほやほやのこの山小屋に休まれている。


「空沼小屋」の名を受けたのは、まさにこの時のことだった。


 昭和五年以降は広く一般にも開放されて、令和三年現在にまで続いている。

 

 

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(空沼小屋、昭和五年撮影)

 


 それにしてもスキーという、このスポーツのいったい何が、日本の大衆の心を得たのか。


 流行の淵源を探らんとする試みは、方々に於いて展開された。わけても傑作と呼ぶに足るのは、石川欣一のそれだろう。


 そう、ジラフをキリンと名付けた男、石川千代松が長男たる彼である。

 

 以下、彼の随筆『ひとむかし』から当該部分を抜粋すると、

 


 諸君は子供が遊んでゐるのを見たことがあるだらう。子供は、やっとのことで歩ける時分から、何か棒切れを持ちたがり、振り廻したがる。これは別に他人に危害を加へやうとか、犬を追ひ払はうとか、そんな意志があってやるのではない。何となく持ちたいから持つのだ。つまり本能で、人間は何かしら長いものを持ちたい本能を持ってゐるのだ。(中略)大人だってその本能においては子供と大して違ってはゐまい。しょっちゅう箸とか、ペンとか、簿記棒とか、ステッキとか、小さな棒ばかり持たされてゐるんだから、たまには本能的に、自分の身体よりも長い棒を持って見たくなる。
 さればとてスマートな青年紳士、あるひはシックな令嬢が、銀座通りを物干し竿を振り廻して歩けますかってんだ。歩くのは平気だが先づ狂人あつかひされる。そこでスキーが登場する。七尺は充分あり、而もこいつは相当重くて持ちで・・・がある。おまけに天下晴れて、大っぴらに持って廻れる。人は本能の満足を持つことが出来る。こんなにうれしいことはない。

 


 正直なるほどと頷かされた。

 

 

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(北海道の山岳スキー)

 


 幼少期にはチラシなり新聞紙なりを細長く丸めてチャンバラ遊びに精を出し、長じてもなお模造刀に魅せられて、買って飾ってときどき抜いては悦に入ってる私としては、ちょっと抗弁の余地がない。


 案外こんな揶揄いまじりの言にこそ、筆者当人さえ意図しないまま、真理は宿るのではないか。

 

 

 

 

 

 

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今に通ずる古人の言葉 ―「正史ならぬ物語は総て面白きが宜し」―

 

 楚人冠がこんなことを書いていた。

 


 物の味といふものは、側に旨がって食ふ奴があると、次第にそれに引き込まれて、段々旨くなって来るもので、そんな風に次第に養成カルチベートされて来た味は、初から飛びつく程旨かったものゝ味よりもあじはひが深くなる。(『十三年集・温故抄』151頁)

 

 

 料理漫画を片手に持しつつめしを喰うとやたらと美味く感ぜられる現象とも、これは原理を同じくすまいか。


 この用途に具すために、孤独のグルメ鉄鍋のジャン『食いしん坊』等々を常に手元にひきつけている私である。

 

 

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(『孤独のグルメ』より)

 


 むろん、礼儀作法の上からいったら落第もまた甚だしいのは承知の上だ。


 しかしながらこれをやるのとやらないのとでは、食欲に天地の差が生じ、唾液の湧きも鈍くなり、消化にまで影響を及ぼすような気さえする。


 なあに気にすることはない、「礼儀とは人に快感を与ふること也、少なくとも不快の感を与へざること也」大町桂月も言っている。要は人前でやりさえせねばよいのだと、不快にさせる相手のいない独りきりの自室に於いて何を躊躇うことやあると、TPOの三文字で後ろめたさを糊塗しつつ、私は今日も漫画片手にめしを喰う。

 

 

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土山しげる極道めし』より)

 


 古人の言葉で、現代のサブカルチャーに相通ずるものというのは存外多い。


 バウル・リヒテルの「青ざめた夢」なぞはもろ・・にそうだし、やはり杉村楚人冠の文章で、

 


 地球を一周するといふにも色々ある。
 赤道直下二万四千八百九十九マイルをまはるのも地球一周なら、この間世界早まはりのレコードを作ったウィリー・ポーストの、北極圏近いところを選んで、一万五千五百マイルですましたのも、やはり地球一周である。今に賢いのが出て来て、北極か南極かの上に立って、くるくると自分の身体をひとつまはして、へい一周とやるか。(『山中説法』12頁)

 


 この下りなぞ、ドラえもん以外のなにものでもないではないか。


 ひみつ道具「アクションクイズ」の第三問目、「一分以内に西から東へ地球一周せよ」の模範解答。


 偶然の一致か、それとも藤子・F・不二雄、楚人冠を知っていたか。


 彼の年代から推し量るに、まんざら有り得ないことでもなく思われるが、どうだろう。

 

 

Geographic Southpole crop

Wikipediaより、南極点の標識)

 


 矢野龍渓にも傾聴すべき言がある。

 


 画にあれ、物語にあれ、総て人は単調を喜ばざるが故にや、男子にまじふるに女子を以てし、偉男子に配するに美人を以てす、故に其の初は男子たる人物も後世には妙齢の美人と化し了るあり、又醜怪なるべき者が美人と化し了るもあり。

 


 規模こそ比較にならねども、偉人――たとえば織田信長アーサー王聖徳太子――を女体化したり、やたらと強い女剣士が男どもをばったばったと薙ぎ倒すという風潮は、龍渓の昔時から既に存在していたらしい。

 

 

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 そういった作品群に対して、彼は如何なる態度をとったか。

 


 斯くてこそ、事物の配合、掩映の妙も生ずるなれ、正史ならぬ物語は総て面白きが宜し、女子にて妙なる場合には女子に改むるこそよけれ。(『出たらめの記』105頁)

 


 正直私は度肝を抜かれた。


 なんという寛容さであったろう。


 それが歴史の真実と、読者をして誤認させるようなことさえなければ、いくらやっても構わない。信長を美少女にすることで結果物語が面白くなるなら、躊躇は無用、どんどんやれときたものだ。


 これが本当に嘉永三年生まれの男の口吻かと、ほとんど我が目を疑いかけた。


 しかし真理だ。


 大声で真理と認めたい。

 

 

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(『東方Project』より豊聡耳神子、元ネタは聖徳太子

 


 以前の怪談論といい、矢野龍渓の感性はつくづく私の共鳴を呼ぶ。


 なかなかどうして、日本に人は絶えないものだ。

 

 

 

 

 

 

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越後粟島、環海の悲喜 ―「大正十六年」を迎えた人々―

 

 1927年1月1日。


 たった七日の昭和元年が幕を閉じ、昭和二年が始まった。


 が、越後粟島の住民はすべてを知らない。

 

 

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笹川流れから粟島を望む)

 


 定期航路の敷かれている岩船港から、沖へおよそ35㎞。またの名を粟生あお島、櫛島とも呼びならわされるこの環海の孤島には、医者もおらねば駐在所もない。


 明治、否、江戸時代がほとんどそのまま続いているといってよく、情報伝達速度というのもそれに従いまことに緩やか至極であって。


 結果、去る十二月二十五日に先帝陛下が崩御なされた現実も。


 新帝践祚も、それに合わせて「昭和」と改号が成されたことも。


 もろもろ一切、知ることはなく、従って喪に服すなど思いもよらず――島民たちはさても暢気に、太平楽に、「大正十六年」の元旦祝いをやっていた。


「つんぼ桟敷に置かれる」という表現を、これほど体した例も少ない。


 いざ真実に浴した際には、さぞや色をなくしただろう。

 

 

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(粟島沿岸部の景色)

 


 昭和四年に地元の理学士、新潟高等学校にて教鞭をふるう徳重英助が調べたところ、当時の人口はおよそ八百。


 暖流対馬海流が岸部を洗い、気候温和な事情から、よく竹を産する土地でもあって。若竹六千束、篠竹千五百束を内地へ輸出し、一万六千円を得ていたという。


 更にまた、魚介類四万円、乾鮑二千円、生鮑二千円、乾海苔五千円、海藻類二千円、その他諸々込々で、総計七万円弱というのが粟島富源の概観だった。


 わけても美味なのが鮑であって、これを活かした郷土料理も存在している。


 いわゆる「わっぱ煮」のことである。


 わっぱといっても、なにも童子を煮るのではない。カニバリズムとは全然まったくこれっぽっちも関係がない。


 この場に於いてわっぱとは、杉の薄板を曲げて作った食器のことを指している。「鮑取りに出た島人が、持参の味噌を採り立ての鮑とともに、わっぱといふ木製の器に入れ、海岸の岩間から湧く清水でとかし、漂流する木片を焚いて、汀の小石を焼き、それをわっぱの中に入れてつくる、あたゝかい味噌汁」がすなわちわっぱ煮の原型であり、「その素朴な味はいは独特の風情をもって人をそゝ」ったと云うことだった。

 

 

我が家の曲げわっぱ達 (3539131858)

Wikipediaより、曲げわっぱ

 


 もっとも由来に関しては大抵の土俗と同様に、他にいろいろ諸説あり、ただ一つを正統と決することは容易ではない。


 上についても、あくまで徳重英助説として扱っておくのが無難であろう。


 どうせ何気ない生活の中から、自然発生的に誕生した代物だ。

 

 

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(粟島の島民たち)

 


 書き忘れたが、徳重教授は調査のために現に粟島に上陸している。


 麦打ちの音も涼やかな、七月末のことだった。

 

 

 

 

 


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日本南北鳥撃ち小話 ―蝗と鴉の争覇戦―


 山鳥を撃つ。


 すぐさま紙に包んでしまう。


 適当な深さの穴にうずめる。


 その上で火を焚き、蒸し焼きにする。


 頃合いを見計らって取り出して、毛をむしり肉を裂き塩をまぶしてかっ喰らう。


山鳥を味わう最良の法はこれよ」


 薩摩の山野に跳梁する狩人どもの口癖だった。

 

 

Copper pheasant on the ground - 2

Wikipediaより、ヤマドリ)

 


 なんともはや彼のくにびとに相応しい、野趣に富んだ木強ぶりであったろう。


 中学生のころ、図書室に置いてあった『クリムゾンの迷宮』でこれとよく似た調理法を目にしたような気もするが、なにぶん遠い昔のはなし、うろおぼえもいいとこで、ちょっと確信を抱けない。


 当時は未だ、気に入った箇所、忘れたくない知識等をメモに抜き書く癖もなかった。


 今にして思うと、随分もったいないことをしたような気もする。

 

 

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(「歩く野菜ニワトリ」をさばく薩人)

 

 

 鳥撃ちに関しては、こんな話もストックしてある。鹿児島から大きく離れて、日本列島のほぼ対極、北海道帝国大学敷地内にて展開された情景だ。


 ここの教授に栃内吉彦なる人がいて、小麦に関する研究を深くしていた。


 札幌農学校を前身にもつ同校だ、設備は整っていただろう。試験圃場の一角を用いて「貴重な研究材料の小麦種間雑種」の育成に取り組む。


 倦まず弛まぬ世話の甲斐あり、漸く穂が熟しはじめた。


 ところがそれを見計らっていたかのように、たちまち空の彼方から、厄介者が殺到して来る。


 そう、である。


 幾たび棒で追っ払ってもまるで懲りた気配なく、シャアシャアと文字通り舞い戻っては大事な研究材料をむさぼり喰らうこのいきものに、栃内教授はよほど業を煮やしたらしい。「大いに腹を立て、友人から七ミリ銃を借りて来て、大々的に雀退治を行った」とのことだった。(昭和二十一年『随筆北海道』95頁)

 

 

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(北大農学部付農場)

 


 たちまち数十が大地に落ちた。


 そこは栃内先生、根っからの研究者気質である。せっかくの獲物、無駄にはしない。ちゃんと研究室に持ち込んで、焼き鳥にして喰らうと共に――割と舌に快かった――、そのハラワタは解剖に具し、知見を引き出すことにした。

 


…フォルマリン漬にした数十の胃袋を一つ一つ開いて、その内容を検した結果にすっかり驚かされてしまった。要するに雀の胃袋の内容の大部分は蟲類であって、穀類はほんの僅かに過ぎず、問題の小麦に至っては、寥々として稀に見出されるに止った。そこで今まで漫然と、雀は穀類の害鳥であると考へてゐたのは大きな誤りで、農業の大局から見れば明かに益虫であることを実験的に知ったのである。

 


「赤い皇帝」毛沢東も、本書を一読していたならば、例の大躍進政策で雀狩りをしまくって、結果途方もない虫害を招き、数千万の国民をみすみす餓死に追い込むという、空前の愚行を犯さずにも済んだだろうに。

 

 

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(北海道、収穫の秋)

 


 栃内教授の話は更に、カラスをさえ対象として広がってゆく。

 


 烏の如きに至っては、権兵衛の蒔いた種をほぢくるのみならず、姿形や鳴ごゑから、することなすこと一々の仕ぐさに至るまで、実に愛らしげがなくて癪にさはる悪鳥だが、それでも嘗て札幌附近に飛蝗の大発生があって、農作物に恐る可き被害を見た際に、どこからともなく集って来た烏の大群が、あの貪慾さうな大きな嘴で、夥しい蝗を捕食するのを目撃し、この悪鳥もたまにはいゝことをしてくれるわい、と思ったといふことである。(中略)飛蝗となると、柄が大きく丈夫に出来てゐるから、燕や雀や四十雀のやうな、かぼそい小鳥の嘴では処置なく、烏くらゐな獰猛な奴でないと、退治の能率は上がるまい。(95~96頁)

 


 アバドを喰らうレイヴンの群れ――まるでアーマードコアの謳い文句だ。さもなきゃ女神転生か。


 皆殺しルートのあるゲームは、それだけでもう名作認定したくなる。ああ、ソウルクレイドルは素晴らしかった。主人公という脅威を前に一丸となった世界を更に、真っ向微塵と打ち砕く。あれこそ自由だ、無限の自由の醍醐味だ。


 ああいうゲームが、もっと巷に溢れぬものか。

 

 

 

 

 

 

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薩州豆腐怪奇譚 ―矢野龍渓の神秘趣味―

 

 朝起きて、顔を洗い、身支度を済ませて戸外に出ると、前の通りのあちこちに豆腐の山が出来ていた。


 何を言っているのか分からないと思うが、これが事実の全部だから仕方ない。江戸時代、薩摩藩の一隅で観測された現象だ。「東北地方地獄変」「江戸時代の化石燃料」でお馴染みの、橘南渓その人が西遊記に記録している。

 

 

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 ――狐狸がたぶらかしよるんじゃろ。


 どうせ正体は馬糞か何かだ。迂闊に口に入れてみよ、ほどなく真の姿を暴露して、悶え苦しむこちらの姿を密かに眺めて嗤い転げる。そういう心算つもりに相違ない。


 ――誰がその手に乗るものか。


 むかしばなしで訓育された人々は、当然に用心深かった。


 しばらくの間は触れる者とてなかったが、しかし陽が沖天に差し昇り、更に傾き茜色を帯びはじめても、まぼろしが一向に消えてくれない。


 人々はだんだん焦れだした。


 この異常を、いつまでも放置してはいけない気持ちになってきた。


 ――こなくそ、ままよ。


 もとより「泣こかい飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ」と、果敢な行動を尊ぶ土地だ。一の太刀がはずれたら体を敵の刀にぶちつけて死ね示現流の教えにもある。

 

 

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薬丸自顕流の剣士たち)

 


 すなわちチェストの気合いを以って。そこかしこで二才にせどもが、豆腐と思しき物体を口の中に詰め込んだ。


(これは。……)


 何の変哲もない。


 素朴で優しい、ただの豆腐の味だった。


 喉の奥で別の物質に変化するようなこともない。そうと知れるや人々は、今更ながらにいそいそと、これを家に持って帰って口腹の足しにしてしまった。


 味噌汁にぶち込む以外にも、

 

 

あな掘いにゃ
豆腐しおけン
冷ヤ焼酎

なま豆腐
一丁で馬喰は
一升飲っ

 


 これらの方言歌が示す通り、焼酎の肴としても好適だから、まず間違いなくその方向でも消費つかわれたろう。


 翌朝には、街はすっかり元の姿を取り戻していた。

 

 

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 ――それにしても、ひっくるめれば百丁にも及ぶであろうこの夥しい量の豆腐は、いったい何処から来たものか。


 近郷の豆腐屋などを訊ねても、特に売り上げの大幅に増えた店もなく。出どころは完全に謎とされた。


 天から降ったか、地から湧いたか。奇妙としかいいようがない。


 理解を絶した、何が何だか分からなさ。――霧の中をあてどもなく彷徨うようなこの不定形の恐怖こそ、怪談の醍醐味であったろう。


 明治の傑士、矢野龍渓はいみじくも言った。

 


 凡そ普通の人事には、定まれる規則あり、如何に想像を逞くするも、遂に其の揆を一にするに終る、故に小説の如きも、其の舞台を人事に限るものは、その変化もまた限りあり、独り怪談に至ては、人事の拘束を受けず、人類の想像をして自由の働きを為さしむること、無限なるべき道理なり。(中略)然るに其の怪談すら、また千篇一律なるは、人類想像力の極めて狭小なるを歎息せしむるの外なし、余も怪談好きにて、和漢古今の物語を、随分に多く読みたる積りなれども、今に至るまで、之れこそ途方途轍もなき一大奇想なりと思ふものに出逢うたるを覚えず。
 怪談の中にても、幽霊亡魂に属するものは、其の趣味極めて低し、何となれば其の事たる本と人事の範囲内に於て、之が仕組をなすに過ぎざればなり、故に怪談中にては、之を最下とし、此の以外に於て、妖怪の働き如何を見るを要す。(大正四年『出たらめの記』227頁)

 


 まこと、卓見と呼ぶに足る。

 

 

Yano Ryukei

 (Wikipediaより、矢野龍渓

 


 そうだ、そうとも、そうだとも、怪談とは、怪異とは、ただひたすらに面妖で、人の条理で紐解くなど思いもよらず、どこどこまでも圧倒的に、理不尽に、運命を翻弄してくれたならそれでよい。

 私が宇宙的恐怖コズミックホラーを好む理由も、だいたいこのあたりの事情に根ざす。矢野龍渓はついにラヴクラフトを知ることなく死んだようだが、もしも彼と、彼の描き出した世界観に触れていたなら、あるいは掌を拍ち合わせて賞讃したのではないか。


 そんな風の想像も、一種小気味よいものだ。

 

 

 

 

 

 
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鮎川義介の長寿法 ―建国の 礎となれ とこしへに―


 誰もが永遠に憧れる。

 

 

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(『東方虹龍洞』より)

 


 不老不死は人類最高の夢の一つだ。「それにしても一日でも長く生きたい、そして最後の瞬間まで筆を執りたい」下村海南の慨嘆はまったく正しい。生きれるものなら二百年でも三百年でも生きてみたい。かてて加えて最後まで五体の駆動は滑らかで、他人の手を借りずとも、自分の始末は自分でつけれるようでありたい。


 それが叶うのであれば、肉体の機械化、魂の電子化、何を厭うことやある。アーサー・C・クラークは、生命とは組織されたエネルギーだと道破した。パターンのみが重要で、それを織り成す物質がなんであろうとそんなことは些末だと。私もこれに同意する。


 炭素への執着を超克してでも――永遠の命は欲するに足るものなのだ。


 なればこそ、古今東西実に多くの養生法が開発されて試された。上手く要領を得たのもあれば、てんで的外れな方角へと突っ走り、笑うに笑えぬ悲劇に堕ちた例もある。


 日産コンツェルン創業者、鮎川義介その人も、斯道を探りし一人であった。

 

 

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鮎川義介と尾崎咢堂)

 


 膨大な体験に徴してか。老化に関して、鮎川は独自の見識を打ち立てている。


 すなわち「老い」というのはすべからく、上から下へ――頭からやって来るということ。よってそれを防ぐには、単純明快、とにかく他人ひとが挑戦するを憚るような難儀な仕事に挑戦し、頭脳を回転させ続け、「錆び」に対してつけいる隙間を与えねばよいと思ったわけだ。

 

 彼はこれを実行に移した。


 その甲斐あってかどうかは知らぬが、鮎川の頭脳が時として、異常なまでの「冴え」を見せたのは確かであった。


 こんな話がある。


 満州重工業開発会社総裁として、茫漠たる大陸の曠野に辣腕をふるい、国家建設にいそしんでいた昭和十年代のこと。常人ならばもうそれだけで手一杯になりそうな激務の中でも、鮎川は背後のことを忘れなかった。


 僅かな時間を見つけては日本内地に残してきた日産系の施設を訪問、稼働状況を視察して、「こっちは儲かる、あっちは駄目だ」と見通しを立てたりしていたという。


 日産自動車吉原工場もまた、その洗礼を浴びせられた一つであった。

 

 

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鮎川義介作、「ヒマラヤのコンドル」)

 


 鮎川の歩みは常に早い。久原房之助から「鮎川の走り小便」と揶揄されたほどすべての動作がキビキビしていて、容易に一ヶ所に留まらない。


 その鮎川の両脚が、吉原工場の一角にてはた・・と止まった。造り置かれた鋳物を指差し、


「これは戸畑の鋳物ではないか」


 いって、目尻を懐かし気に緩ませた。


 鮎川が戸畑という以上、意味するところは一つしかない。


 そう、戸畑鋳物株式会社


 アメリカにて修業を積んだ鮎川が、帰国後はじめて立ち上げた「自分の会社」。創業から暫くは苦労も多く、身の細るような思いもしたが、しかし却ってそれだけに、思い入れもまた強化されてひとしお・・・・だったに違いない。


 直ちにその場から人が走って、件の鋳物の造り手を探す。


 あっという間に見つかった。


 問い質すと、豈図らんや、確かに以前戸畑鋳物で働いていた職人である。


 十数年前、やむにやまれぬ事情から戸畑を辞めて、以降というもの土佐へ行ったり何処ぞへ行ったり列島各地を転々と、ただ腕前を切り売りしながらどうにかこうにか喰い繋いできたという。


 にも拘らず、ちら・・と瞥見しただけで鋳物に籠る戸畑の色を見抜いてのけた鮎川義介の眼力は、驚嘆するよりほかにない。いったいどんな脳味噌を頭蓋骨に容れていたなら、こんな真似ができるのか。


 当然浮かぶべきこの疑念にも、鮎川はちゃんと答えを残してくれていた。「自分の頭の中は蜂の巣のようになって居る、従ってどんな多くの事柄が一時に出て来ようが、それを区別して整理して受入れているから、その処理も何等の混雑もなくできる」……。(『鮎川義介先生追悼録』262頁)

 

 

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鮎川義介正力松太郎

 


 かくも周到な鮎川も、昭和四十二年二月十三日、八十六歳を砌とし、窓外の雪を眺めながらついに息をひきとった。


 法号仁光院殿徳誉義斎大居士


 十七日の葬儀には、三千人の参列者が詰めかけた。


 ただ、鮎川がそれに満足したかは謎である。


 なにしろ生前、病床の中から幾度も幾度も、折に触れては繰り返し、


「俺が死んでも葬式はするな」


 と厳命していた人物だ。その意図について、令息鮎川金次郎氏は以下の如く推察している。

 


「死んでしまって、もう総てがおしまいだ」と思いたくない。自分は永遠に生きているという感じを持ち続けたかったんだと思う(313頁)

 

 

Grave of Yoshisuke Ayukawa

 (Wikipediaより、多磨霊園にある鮎川家の墓)

 


 何処々々までも、太い生き方を貫き通した漢であった。


 その霊前に捧げられた弔歌を引いて、ひとまず本稿を閉じるとしよう。

 

 

宿痾久養杏雲門
雨雪瀌々天漸昏
可耐明星隕大地
玉川肅瑟弔英魂

宿痾久しく養う杏雲の門
雨雪瀌々として天ようやく昏からんとす
たゆべけんや明星大地におつ
玉川肅瑟として英魂を弔う

衆議院議員・朝倉毎人)
 

春の宵
君が面影
偲びけり

建国の
礎となれ
とこしへに

君が名は
末代までも
かほるらむ

(作家・梅本誠一)

 

 

 

 

 

 
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夢路紀行抄 ―飛翔体―

 

 夢を見た。


 夜天を焦がす夢である。


 眠りに落ちて暫しの後。ふと気がつくと、見晴らしのいい場所にいた。


 どうやらビルの屋上らしい。


 それもかなりの高層ビルだ。


 地球の丸みを実感できるほどではないが。


 地面を行き交う自動車が、豆粒に見えるほどではあった。

 

 

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 周囲に比肩し得る建物はなく、顔を上げればのっぺりとした暗い夜空が広がっている。


 月はどこにも出ていなかった。


 そのことに、淡い失望を感じている暇もなく。


 突然、まったく唐突に。――視界の果てに広がる山並み、そのたおやかな稜線が、ぱっと紅く色づいた。


 すわ払暁かと錯覚するほど、その色彩は強烈だった。


 が、違う。そうではないとすぐ知れた。


 ロケットである。


 どうも山の向こう側に発射基地があるらしい。途轍もなく大型の、私が立っているこのビルにも匹敵しかねないロケットが、衝撃波の白い衣を纏いつつ、夜空を駈け上がってゆく。


 猛然と燃焼するブースターこそ、この一帯に束の間の夜明けを現出せしめたタネだった。

 

 

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 噴煙が天蓋にひろびろとした弧を描く。――今にして思うと、ちょっと弓なりであり過ぎた。あの角度では、大気圏突破など不可能なのでは?


 まあいい。夢だ。そのあたりへの突っ込みは野暮であるに違いない。


 第一、現場の私はそんな重箱の隅を突っつくような、些末な事柄に気を取られていられるような精神状態では有り得なかった。


 何故そうなったのか、理屈はまったく不明だが。――ロケットの姿を認めた瞬間、私の背骨を謎の快楽が突き抜けたのだ。


 あの感覚を、いったいどう形容すればよいのやら。


 頭蓋骨が花開くように開かれて、露わになった脳味噌を、直接温手で揉みほぐされでもするかのような、そういう安らぎを伴った快楽。ただでさえ人間は気持ちいいのに弱いというに、あれはちょっと反則ではなかろうか。

 

 

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(『Fallout: New Vegas』より、ユリシーズ・テンプル)

 
 もはや思慮は消え果てた。魅入られるとは、あるいははああした感触か。


 炎に飛び込む蛾のように、ただ本然の衝動にのみ支配され、一心不乱にロケットを追う。


 屋上を横切り、フェンスに手をかけ、よじ登り、遥かな虚空に一歩踏み出そうとして――そこではたと、我に返った。


 発生と同等の脈絡のなさで例の歓喜は消え失せて、空いた隙間に、今度は恐怖が流れ込む。おれは今、いったい何をしようとしていた?


 眼下の眺めと不安定な足元に、心臓がいっぺんに縮み上がって――そのあたりで目が覚めた。


 動悸を抑え、横を向けば、こはいかに。扇風機がつけっぱなしになっている。

 

 

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 タイマーをセットしたはずが、つもり・・・なだけで、うっかり忘れていたらしい。


(なんたることか)


 またもや胆が冷やされた。不健康な真似である。体調が崩れなければよいのだが。時期が時期であるだけに、ひどく不安な気分になった。

 

 

 

 

 


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