かつて下村海南は、日本列島を形容するに「狭い息苦しい
早い話が若者はどんどん国外に向けて進出せよ、シベリアの凍土から南米の密林に至るまで、地球全土に日本人の事蹟を刻み、皇威を行き渡らせるのだ、それこそ君ら世代の使命であると、青年の意気を煽りまくった。
ありとあらゆる社会問題の根源を、急激なまでの人口増加――海南自身の筆を借りれば「人間の粗製濫造」にありと判断して疑わなかったこの男らしい物言いだろう。外に向って放出せねば、遠からずしてパンクすると本気で危惧していたことが、著書のはしばしから窺える。
(Wikipediaより、下村海南)
幸か不幸か、この男の弁舌の才は本物だった。おだてられ、うまいこと乗せられて血を熱くした若人どもは数知れず。大志を胸に疑いもなく飛翔してゆく、若鳥たちの、その中に。――窪田阡米という、たいへん読みにくい名前を持った者がいた。
「せんまい」か、「しげよね」か、それともまるで別な何かか。正味な話、この字の正しい読みは何かと訊かれても、お手上げ以外にとても答えようがない。
まず海南にしてからが、
窪田阡米?
珍しい名である、顔は忘れても忘れられない名である。
その珍しい忘れられない名前の名刺が、大正五六年頃でもあったか、台湾台北なる民政長官官邸なる吾輩が卓上に通ぜられた。
たしかに明治の末っ方、一つ橋の高等商業学校で僕の財政学の講義を聴いた、顔に見覚えないが、名前に見覚えのある学生の一人である。(中略)阡米は僕の前に現はれて、
「私は一つ橋在学中先生の絶えず日本民族発展につき述べられた講義が、最も深く胸を打ちました。先生今や任を台湾の重職につかれてる、私も三菱合資の一人として、ボルネオ島タワオの拓殖に一身を捧げることになりました。ここに謹んで御挨拶を申上げ、今後の御指導を仰ぎます」
といふ意味の詞を述べた。(昭和九年『通風筒』12~13頁)
タワオ――タワウは今でこそ人口十二万の都市として一定の繁栄を迎えているが、ここに人が棲みだしたのは十九世紀の末も末、1890年代に突入してから漸くであり、それにしたって最初のうちは二百人程度の農家や漁師が細々と生活を営んでいたに過ぎなかった。
大正五年を西暦に直すと、すなわち1916年。
窪田阡米が乗り込んだとき、タワウはなおも未開地の面影を色濃く残し、電気・水道・ガス・道路――インフラらしいインフラもロクに見えない有り様で、開拓の苦労は尋常一様でなかったという。
それでも石に齧りつく気合で以って苦闘すること十六年、窪田はついに自己の事業を
彼の農園は二千四百エーカーもの広きに及び、五百人からの苦力を駆使してゴム・ヤシ・アサに代表される商品作物を盛んに産んだ。
が、この成功は、窪田自身の寿命を引き換えにして漸く得られた観がある。
(ゴム乳液の凝固作業)
窪田阡米は、恩師に遥か先駆けて黄泉路の人になってしまった。その命日は昭和七年四月一日、享年わずか四十六歳。あまりにも早く襲い来った死であった。
この当時、エイプリルフールの風習が日本人にどの程度浸透していたか知らないが、なんと皮肉な符合であろう。
ところがこれで終わりではない。驚くべきことに、窪田は死後も海南の「模範的な生徒」で在り続けたのだ。かねてより海南が主張していた、「真の海外発展のためには異郷に骨を
彼の遺骨は分骨されて、その血と汗がたっぷり滲みた、彼自身の農園中に埋められたのだ。椰子の葉そよぐその場所に、やがて有志が碑を建てた。花崗岩、それも国産品を態々取り寄せまでしての、堂々たる石碑であった。
その碑文の末尾には、
後奚云為
功徳後垂
萬人惟思
との四言詩が彫りつけられていたらしい。
(北ボルネオの風景、ラジャン川の流れ)
最後まで自己の教えに忠実だった窪田に対し、下村海南は当然ながら、大感動を発している。
郷土愛も好い、父祖祀らるゝ地に併せ葬らるゝもよい、しかし郷土といふも時と共に移り流れる。かりに徳川幕政以降としても、右から左へと国替せられ転々移封せらるゝ各藩の人々はいづこを郷土といふべきであらう。兎角は人間其の一生を通じて尤も意義ある活動をつづけた処が葬らるべき地として考へられる。(中略)南洋タワオの窪田阡米君の碑百年の後其影を失ふか地下に埋るゝか、頽廃に委せられるか、それとも修理保存せられ、盛儀を以て祭祀がつづけられるか、それは分らぬが。百年千年の後、限りある地球に限りなく増す人口は、いかに南洋の天地の色彩をいろどってゆくであらうかは想像される。(15頁)
タワウには三菱合資のみならず、久原財閥も積極的に触手を伸ばした過去があり、これら日本人の活躍ぶりを抜きにして、同市の発達を説明するのは到底不可能といっていい。
(Wikipediaより、タワウ市街地)
このあたりの消息を、昭和八年十月十七日付けの『大阪朝日新聞』から引っ張れば、「ここは断然日本人の街」であり「支那人の排日などここでは受付けない、よくある日本人同士の惨めな張合などここでは見られな」かったのだ。
タワウには今でも「Jalan Kuhara」なる道があり、同市最長のストリートとしてにぎわっている。「Jalan」はマレー語で「道」を意味し、「Kuhara」はむろん、久原財閥のクハラである。
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