1927年1月1日。
たった七日の昭和元年が幕を閉じ、昭和二年が始まった。
が、越後粟島の住民はすべてを知らない。
(笹川流れから粟島を望む)
定期航路の敷かれている岩船港から、沖へおよそ35㎞。またの名を
明治、否、江戸時代がほとんどそのまま続いているといってよく、情報伝達速度というのもそれに従いまことに緩やか至極であって。
結果、去る十二月二十五日に先帝陛下が崩御なされた現実も。
新帝践祚も、それに合わせて「昭和」と改号が成されたことも。
もろもろ一切、知ることはなく、従って喪に服すなど思いもよらず――島民たちはさても暢気に、太平楽に、「大正十六年」の元旦祝いをやっていた。
「つんぼ桟敷に置かれる」という表現を、これほど体した例も少ない。
いざ真実に浴した際には、さぞや色をなくしただろう。
(粟島沿岸部の景色)
昭和四年に地元の理学士、新潟高等学校にて教鞭をふるう徳重英助が調べたところ、当時の人口はおよそ八百。
暖流対馬海流が岸部を洗い、気候温和な事情から、よく竹を産する土地でもあって。若竹六千束、篠竹千五百束を内地へ輸出し、一万六千円を得ていたという。
更にまた、魚介類四万円、乾鮑二千円、生鮑二千円、乾海苔五千円、海藻類二千円、その他諸々込々で、総計七万円弱というのが粟島富源の概観だった。
わけても美味なのが鮑であって、これを活かした郷土料理も存在している。
いわゆる「わっぱ煮」のことである。
わっぱといっても、なにも童子を煮るのではない。カニバリズムとは全然まったくこれっぽっちも関係がない。
この場に於いてわっぱとは、杉の薄板を曲げて作った食器のことを指している。「鮑取りに出た島人が、持参の味噌を採り立ての鮑とともに、わっぱといふ木製の器に入れ、海岸の岩間から湧く清水でとかし、漂流する木片を焚いて、汀の小石を焼き、それをわっぱの中に入れてつくる、あたゝかい味噌汁」がすなわちわっぱ煮の原型であり、「その素朴な味はいは独特の風情をもって人をそゝ」ったと云うことだった。
もっとも由来に関しては大抵の土俗と同様に、他にいろいろ諸説あり、ただ一つを正統と決することは容易ではない。
上についても、あくまで徳重英助説として扱っておくのが無難であろう。
どうせ何気ない生活の中から、自然発生的に誕生した代物だ。
(粟島の島民たち)
書き忘れたが、徳重教授は調査のために現に粟島に上陸している。
麦打ちの音も涼やかな、七月末のことだった。
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