穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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北海道机上遊覧 ―札幌・開拓・雪景色―


 暑い。


 八月の半ば、一度は去るかと期待された夏の暑さは、しかしまだまだ健在で。あっという間に勢力を回復、捲土重来を全うし、変わらず私を苛み続ける。


 先日、神保町にてこのような本を手に入れた。

 

 

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南洋諸島巡行記』、著者の名前は佐野実


 刊行年は大正二年と、手持ちの中でも相当古い。


 帝政ドイツが南洋圏の広範を、未だ植民地として確保していた時分の記録。欧州大戦終結後、日本の委任統治下となって以降の書物なら、かねてより結構な冊数を持ってはいるが、この時期のモノは無きに等しい。


 俄然興味をそそられた。


 で、購入に踏み切った次第であるが――正直に言おう。間が悪い。


 この酷暑の中、さんざん痛めつけられた身体を引きずり、更に熱気のメッカたる赤道直下の情報を脳細胞に叩き込むということは、思った以上に気力を要する試みだった。


 とてものこと必要量を捻出できない。買うことは買ったが、これは秋まで本棚の肥やしにしておこう。少なくとも他人の手に渡る心配はなくなった。今はそれで満足すべきだ。


 目下、私の精神が望んでいるのは、もっと緯度の高い場所――そうだ、北海道の景観にでも癒されよう。

 

 

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 雪は綺麗だ。


 心が安らぐ。

 

 

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 実際実地の生活者にしてみれば数多の不便を強いられる、厄介極まりなき代物だろうが。鑑賞者の立場としては、これほど優れたモノはない。

 

 

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『Ghost of Tsushima』でも、探索していて一番楽しかったのは、雪に覆われたマップ北端――上県の地こそだった。

 

 

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 満目粛条たる銀世界、地上物の一切が覆蔽されたその有り様は、「浄化」の二文字を以ってしか形容しようのないものだ。

 

 

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 こちらはちょっと趣を変え、開拓移民の奮闘姿。


 千古斧鉞を加えざる原生林の伐採こそ、北海道を耕す者の何にもさきがけ着手すべき第一だった。


 なんといっても札幌さえも、開拓使の置かれた明治二年の段階では「昼なお暗く、野獣の横行にまかせるような状態である。

 

 

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(昭和初頭の札幌市内)

 


 それを半世紀程度で上の写真の状態までもって・・・いく・・には、自然力の駆逐が急務であった。斧どころか火を放つ、焼畑農業の如き荒っぽい手段も、時には使用を躊躇わなかった。


 まあ、伐ったところで森林鉄道をはじめとする搬出機関がろくすっぽ存在せぬ以上、やむを得ざる側面とてあったわけだが。

 

 

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(北海道の森林鉄道)

 


 このあたりの機微については、作家の吉田十四雄に於いて詳しい。以下、例の『北海道随筆』から彼の記述を引用すると、

 


 関東平野を通って見ると実に森や林が多い。農家も豊かな屋敷林に囲まれてゐる。あの平野である。この森や林を田畑にしたらと考へる人があるかも知れない。事実戦争中にはさういふ話が真剣に出て、それはとんでもないことだ、そんなことをすれば関東平野は煮焚が出来なくなるし、又風害を防ぐことも出来なくなると説明して、やっとその高官の口を封じたと私はある人から聞いた。(中略)
 北海道の農村には木々が少い。五六十年前の北海道はそれこそ木々で埋まってゐた。巨大な逞しい樹林は人々の生存を阻むものであった。北海道の土地を拓き、生きる希望を見出す道は、木々とのたゝかひ以外にはなかった。人々は仇をうつやうな気持で木々を伐って行った。その時の気持がまだ人々の心から去らないのである。(132~133頁)

 


 試される大地と呼ばれるのも納得だ。

 

 

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(開拓小屋の建設)

 


 試練を乗り越え、そして報酬を手に入れる。挑み打ち克つ人の姿は美しい。我が身の内にも活力が湧く。これでなんとか、夏を乗り切れればよいが。

 

 

 

 

 

 
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福澤諭吉と山崎闇斎 ―「孟子なりとも孔子なりとも遠慮に及ばず」―

 

 山崎闇斎知名度は、目下どの程度の位置にあるのか。


 百年前と引き比べ、著しく低下したことだけは疑いがない。その当時、彼が説いた「孔孟の道」は日本人が当然もつべき心構えの一つとされて、小学校の教科書にさえ載っており、ごくありきたりな「常識」として誰しもに受け容れられていたからだ。


 その筋書きは、だいたいこんなモノである。

 

 

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比叡山大講堂、明治四十年代撮影)

 


 山崎闇斎、京都の大儒。


 垂加神道を創始して日本人の思想界に重大な波紋を広げるに至るこの人物は、あるときその弟子たちに、こんな問いを投げかけた。


「もしも今、孔子孟子が大将・副将格となり、兵を率いてこの日ノ本へ押し寄せてきたとするならば、我々孔孟の道を学ぶ者は如何なる態度を取るべきか」


 爆弾を落としたといっていい。


 江戸時代、儒者孔子孟子を見る目というのは到底一哲学者に対して差し向けるべきそれでなく。筋金入りのキリシタンマリア観音を拝むに等しい、信仰の籠ったものだった。


 荻生徂徠などはその典型的な一人であって、芝から品川へ転居しては「聖人の国に一里近付いた」と喜んでみせ、あるいはもっと直截に、「愚老は釈迦を信仰不仕つかまつらず候。聖人を信仰仕候」と言い切ってのけたこともある。

 

 

Confucius Statue at the Yushima Seido

 (Wikipediaより、湯島聖堂孔子像)

 


 そういう徂徠にしてみれば、孔子孟子が陣頭に立っての侵略など、これはもう侵略ではなく、濁世を掃き清める目的で天兵が降臨したとしか思えぬ事態であったろう。一議もなく叩頭し、征旅の端に加えてくだされと懇願するのが目に浮かぶ。


 が、山崎闇斎の弟子たちは、まだそこまで――狂信の域に足を踏み入れてはおらず、思い切りが悪かった。


 誰ひとり正答を見出せぬまま、重苦しい沈黙ばかりがのしかかる。


 とうとう一人が音を上げて、降参の意を露わにし、しからば先生の御意見はと逆しまに問うた。


 山崎闇斎、答えて曰く、


「その時こそは身に堅甲を被り、手に利剣をとり、これと一戦して孔孟をとりこにし、もって国恩に奉ずる。これが即ち孔孟の道である」

 

 

Yamazaki Ansai

 (Wikipediaより、山崎闇斎

 


 ――いやさ、実に驚き入った話じゃねえか。


 遥かな後年、そう評したのは福澤諭吉


 この文明の導き手が「甚だ意外」としたことは、闇斎の口吻、それそのもの自体ではない。


 師に説かれるまでその発想が厘毫たりとも浮かばなかった、弟子たちの不甲斐なさをせせら笑ってのけたのである。


「闇斎の門人、前後六千余人に及ぶと伝わる。いずれも当時の日本としては相当の人物揃いのはずで、是非や利害の弁別もあるべきに、ひとり孔孟をとりこにする一事に至って決断することができぬとは、なんたるザマか。かの蒙古襲来の際の如きも、日本全国無学の時代であったが故に辛うじて無事を得たものの、もし漢学が世に蔓延って闇斎門人の如き輩が国政の要路に居たならば、どれほどの国辱を残したかもわからない


 ――その然らざりしは無学文盲の僥倖といふべし。


 と、明治日本最大の教育者である彼は、古人の無知を言祝いだ。


 嘲罵の極みといっていい。


 福澤が如何にふるく腐れた」儒教主義を目の敵にしていたか、これをこそぎ落とさぬ限り文明開化の実を挙げるなど夢のまた夢と思っていたか、手に取るように知れるであろう。

 

 

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(『Ghost of Tsushima』より)

 


 小泉信三進歩的文化人との闘いに於いて、よく闇斎を範とした。


 というのは、この連中のマルクスレーニンに対する視線というのが嘗ての腐儒と同様に、明らかに信仰の相を帯び、その言説を絶対の金科玉条と奉戴し、いやしくも批判を加えるものを「冒涜」として頭から拒絶する傾向にあったがゆえだ。

 


 福澤は「孟子なりとも孔子なりとも遠慮に及ばず」といった。マルクスレーニンに対しても同じく遠慮は無用であることを知ってもらいたい。これが常に私の日本の評論家に求めるところである。(『十日十話』)

 


 小泉らしい、穏当な呼びかけであったろう。


 が、狂信者の相手は――その宗旨がなんであれ――ひどく疲れる。


 彼ほど円熟しきった精神性の持ち主だろうと、その定理からは逃れ得ず。ときには以下に掲げるような、明らかに腹立ちまぎれの文章さえも書いている。

 


 芝居や小説によくこんな場面がある。
 浪人者のような侍が、商人の店へ来て、何かかけ合いごとの論判をする。番頭手代が、おたなのためと色々陳弁して要求をきくまいとする。しまいに癇癪を起した侍は「お前たちでは話はわからん。主人を出せ、主人を」と怒鳴る。
 主人が出て来る。さすが大店の主人にふさわしい貫録で、落ち着いて、十分相手の言い分をきき、自分のいうべきこともいい、結局容れるべきことを聴き入れる。そうして侍も納得して引き上げる。
 私は先年、さまざまの問題について日本のマルクシストと議論したことがあったが、この「主人を出せ、主人を。お前たちでは話は分からん」といいたい衝動を、たびたび感じたことを告白したい。この場合「主人」というのは無論マルクス自身、「お前たち」はマルクシストである。(中略)
 今ここにマルクス自身が現れて、そうして日本語で(私のドイツ語では時間がかかるから)議論するなら――好い通訳があるなら、それでも結構――彼れを問いつめて沈黙させること、そうして私の批判に同意させることは、十分出来ると思う。ただ、マルクス自身でない、マルクシストに同意させることは、自信がない。(『朝の机』)

 


 長嘆息が聞こえるようだ。


 思想の性質、その厄介さをみごとに捉えた名文でもある。

 

 

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小泉信三昭和36年夏、軽井沢万平ホテルにて)

 


 実際問題、あのころの学生や活動家には、いざ共産圏の対日攻勢が始まった場合、嬉々として国内でテロを起こして社会を擾乱、侵略の片棒を担ぎそうな手合いというのがしこたまひしめき合っていた。


 そういう意味でも、保守派のストレスは尋常一様でなかったろう。心痛、察するに余りある。

 

 

 

 

 


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外交官の恩師たち ―夏目漱石、小泉八雲―

 

 笠間杲雄のペンは鋭い。


 さえざえとした切り口で、現実を鮮やかにくり抜いてのける。


 なにごとかを批評するに際しても、主題へのアプローチに態と迂遠な経路を使う――予防線を十重二十重に張り巡らせる目的で――ような真似はまずしない。劈頭一番、短刀を土手っ腹にぶち込むような、そういう直截な手段を好む。


 外務省暮らしの最後を飾ったポルトガルを評すにも、

 


 ポルトガル人といふのは、嘗て世界の半を領した輝かしい過去の追憶に今日でも生きてゐて、非常に感傷的で、現実から遠い夢幻や詩の世界を求める国民である。その歌も音楽も、華やかさの底に云ひ知れぬ憂鬱なものが流れてゐる。(『東西雑記帳』147頁)

 


 斯くの如き遠慮会釈のなさだった。


 この傾向は、笠間が夏目漱石の生徒であった事実とも、無関係ではないだろう。

 

 

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ポルトガルにて、葡萄の収穫)

 


 旧制第一高校在学時代、三年生の間だけではあるものの。――笠間は確かに夏目漱石の薫陶を受け、その影響は知能ばかりに留まらず、人格面にも及ぶところ甚大だった。

 


…あの当時にはさうザラにない、今から考へるとロンドンの正銘まがふ方なきカットで、洋服がしっくり身体に合って居り、歯切れのいゝオクスフォード・アクセントを聞いたときには、敝衣破帽をスローガンにしてゐた荒っぽいクラス全員が魅せられてしまった。(中略)ユーモアが最高の皮肉であることも先生のお蔭で解るやうになった。(115頁)

 


 卒業後も折に触れては牛込の邸宅に漱石を訪ね、胸に清風を吹き込んでもらっていたそうだから、まず「門下」と呼んで差し支えはないだろう。

 

 自宅に於ける漱石は、よく和服姿で居たという。生地に絡んだ小さなゴミを、神経質に指先で弾き除ける有り様が、どういうわけか笠間の脳裡に強く印象付けられた。


 そうして親炙するうちに、自然と文章の癖が伝染うつったとしてもあながち不思議な話ではない。

 


 私の友人のSといふのが不眠症にかかり、夜は大抵読書するから拙著を一部呉れといふので、態々送ってやったら、数日後、貴著のお蔭で此頃は床に就くと直ぐ眠れるやうになったと礼状を寄越した。(130頁)

 


 このあたりの下りなど、そのまま漱石の小説に登場しても違和感のない人間風景ではないか。

 

 

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(小川千甕「夏目漱石逝く」)

 


 ――いや、しかし、それにしても。


 昭和十一年に竣工した国会議事堂、今も変わらず東京都千代田区永田町に鎮座するあの建物を評するに、「西洋の拙劣な折衷混同」との言葉を用いて「余程趣味の悪い人の立案したものだらう」「せいぜい五流国家の議院」と糾弾し、挙句の果てには「国辱」の烙印を押したのは、ちょっと無遠慮の度を失し、やり過ぎに入った感がある。


 検閲官が伏字処理をしなかったのを、むしろ奇怪に思いたい。


 やはり官僚の書きもの・・・・は目こぼしされ易かったのか? つまりは情実。また春月が絶望しそうだ。「所詮、情実は人間の本能である。あらゆる変革は、一党に代る他の一党、情実に代る他の情実を以てするのみであろう」と、ほとんど逆上気味に書き殴った、あの永遠の青年が。

 

 

Completion of Diet Building stamp of 10sen

 (Wikipediaより、議事堂竣工の記念切手)

 


 笠間はまた、夏目漱石との遭遇にさきがけ、小泉八雲――ラフカディオ・ハーンに出逢ってもいる。


 少年時代に寄宿していた旧藩時代の学塾が、たまたまハーンの家のそばだったのだ。


 ごく単純な地理的関係から、笠間はしばしば、この「背が低く猫背で、殆んど盲目に近い程の強い近眼で歩行も不自由がちな、みすぼらしい」老外国人の散歩姿を目の当たりにし、異様な思いに駆られたという。


(いったい、どういう種類の男だ)


 まるで見当がつかなかった。


 いつか化けの皮を剥いでやろうと心に決めた。


 少年らしい気負いこみであったろう。


 それだけに、いざ「不審者」の正体がラフカディオ・ハーン――生半可な日本人など及びもつかない、日本文化の研究者にして発信者――と知った際の驚きぶりは物凄く、もう少しでひっくり返らんばかりであった。

 


 私はその頃、先生のものを英語で読んで、解らぬ乍ら私かに敬慕の念を懐いてゐたもので、このうす汚い老外人が先生だと知るとにわかに親しみを覚えた。
 その頃先生は、誰でもが知ってゐる通り、欧米人の訪客は全然拒って會はれなかった。殊に宣教師などは大嫌ひだったらしい――すっかり日本化してゐたのだ。私は先生だと知ってからは、路で會ふ都度、二三回先生と言葉を交した。私の子供らしい片言まぢりの英語に、先生は微笑みながら、親切に応対してくれたことを今でもはっきり覚えて居る。(159頁)

 

 

Lafcadio Hearn portrait

 (Wikipediaより、小泉八雲

 


 さても幸運な男であった。


 いやさまったく、人の縁に恵まれたといっていい。


 あるいはそれこそ、外交官に最も大事な資質であるやもしれず。後半生の大成も、蓋し納得というものだ。

 

 

 

 

 

 
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流石々々の紳士道 ―英国人の賭博好き―


 イギリス人は賭博を愛す。


 目まぐるしく廻る運命の輪、曖昧化する天国と地獄の境界線、伸るか反るかの過激なスリル。その妙味を愉しめぬようなやつばら・・・・風情に紳士を名乗る資格はないと、本気で考えている節がある。


「あの連中の競馬好きは度を越している。なんといっても、欧州大戦の極端な物資欠乏期でさえ、競走馬に喰わせる秣畑はしっかり確保し、寸土といえど他の目的への転用を許さなかった国民だ」


 長きに亘る外務省勤めの過程に於いて、笠間杲雄はそういう景色を幾度となく見た。

 

 

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西部戦線にて、命令を待つ英国騎兵)

 


 競馬やサッカー、カードや賽の目の配合にベットするなどまだまだ序の口。たとえば空を見上げては、今月何回雨の日があるか賭けようぜともちかける。


 政府がいつ、予算案を上程するかも好んで博奕の対象に具したし、その内訳でもまた賭けた。政治に関心が強い国民性と書いたなら、まあ聞こえはよかろうが。


 ある年など、「さる競馬界の名士」とやらが増税案の税率予想に参入し、しかもいちいち的中させて巨万の富を築いてしまい。あまりの精度の高さから機密漏洩の疑惑がもたれ、査問委員会が発足、上へ下への大騒動を巻き起こすに至ってしまった。


 最終的には植民大臣の首が吹っ飛び、どうにかケリが着いたという。一応附言しておくが、これは決して、映画や芝居の筋書きではない。「英国官界では近年珍しい大事件だった」と、あくまで現実の沙汰として笠間杲雄は書いている。

 


 賭事の好きな点では、世界の人種中、英国人の右に出づるものはあるまい。英国人にとっては如何なる機会、どんな因縁でも直ちに以て賭けの対象となる。(『東西雑記帳』93頁)

 


 たまらぬ紳士道だった。

 

 

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 この精神は二十一世紀の今日までも脈々として受け継がれ、彼のくにびとはロイヤルベビーの性別、体重、髪の色に至るまで、平気の平左で金を張り、しかもそのことで何らの呵責も感じない。


 流石イギリス人だった。これは呆れか、感心か、はたまたその両方がこんがらがったシロモノか。我ながら自分の心が不明瞭だが、とにかく「流石」と言ってやりたい衝動だけは強くある。


「英国」と「競馬」に関しては、こんな珍談も伝わっている。

 


 競馬史上の最大インチキといへば、百年程前の英国で、あっと言はせたものがある。
 当時のダービーでは常勝不落と言はれた名馬で「チェルシー」といふのがあった。美事な白馬だったのだが、それをインチキ師が一シーズン後、うまく手を廻して借り切って、ペンキですっかり栗毛に塗りつぶし、別な名をつけてフランスへ送った。そしてパリ附近の競馬場を、之で以てすっかり荒して大穴をあけ、数百万の賞金と馬券の儲けとを取ったのであった。これが国際的な大詐欺として今でも競馬史上に残ってゐる。その他、之に類するレースコース・スウィンドラーが極めて多い。(99~100頁)

 


 どうであろう、否が応でも銀と金――福本漫画の大傑作を彷彿とする話でないか。

 

 

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1920年代、アスコット競馬場

 


 物語の最終盤、三百億を賭け合った競馬勝負で平井銀二はこう言った。

 


 人間によく似た者がいるように 馬にも瓜ふたつのものがいる
 その紛らわしさを利用した いわゆる擦り替えによる八百長騒ぎは
 かつて日本でもあったし
 本場英国でもあった 珍しくもない……
 表沙汰になった事例だけでも 一度や二度じゃないのですから
 首尾よく誰にも悟られず 成功した例は その数倍ある……
 擦り替えは可能……

 


 チェルシー号の大ペテンは、彼の語りの裏書とはなるまいか。


 人間、欲望大金が絡むと、どんなに突飛なこともする。


 その格好の例証ともなるだろう。

 

 

 

 

 


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赤旗 vs 三色旗 ―1936年パリの抵抗―

 

 世の中には色々なつらあて・・・・の方法があるものだ。


 昭和十一年の夏である。


 笠間杲雄は、たまたまフランスを訪れていた。そう、腕利きの外務官僚で、赤玉ポートワインの存在が日葡関係に及ぼす意外な影響について知らしめてくれたあの・・彼だ。

 
 三泊四日の短い旅路は、しかし事前の予想を大きく裏切り、極めて鮮やかな印象を彼に残すモノとなる。


(はて? …)


 パリの街に入って早々、笠間は首をかしげざるを得なかった。


 見渡す限り、あらゆる屋並みの窓という窓、玄関という玄関に、三色旗トリコロールが翻っている。青、白、赤の三色から成る、大革命期以来の国旗が。

 

 

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キャトルズ・ジュイエ革命記念日には、まだ少々早いはずだが)


 いったい何の催し物かと訝しまずにはいられない。


 幸いにして、笠間の経歴にはフランス日本大使館参事官も含まれる。


 フランス語の技倆、培った人脈、何れもまだまだ健在で。情報源に不足なく、すぐに事情を呑み込めた。

 


 窓口人民投票! プレビシット・ド・フネエトル! と教へて呉れた。私の若い頃身を寄せたボアの家なんかは五本も出してゐる。
 人民戦線のレオン・ブルムが組閣したので、右翼を弾圧して、クロア・ド・フウなんかの反動組織を解散した。フランス人は一人々々が資本家でブルジョワだから、中産階級の憤懣は、やるかたないので、此の連中が触れを廻して赤色戦線の現政権に不満を感ずるものは、ここに真のフランス人ありといふ証拠に、窓口から国旗を出すべしと宣伝したのだ。吾も吾もと時ならぬ三色旗の陳列を見たわけである。(昭和十二年発行『東西雑記帳』5頁)

 


 いっそ心憎いほど、ウィットの効いた抗議であった。


 三枚舌のアーサー・ジェームズ・バルフォアがパレスチナに乗り込んだとき、アラブ人たちは彼を迎えるにこぞって弔旗を掲揚したが、それに匹敵する措置だろう。

 

 

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鶴見祐輔撮影、パリ遠景)

 


 赤旗のもと大衆を煽動、ストライキやボイコットを繰り返し、都市機能を麻痺せしめ、ぶちまけられた混沌を眼下にインターナショナルを熱唱しては悦に入る。


 人民戦線とはつまるところそんな手合いで、その力を背景に政権を握ったレオン・ブルムが筋金入りのアカであること、疑いを差し挟む余地がない。


 ――コミンテルンの走狗めが。フランスをこのままおめおめと、モスクワに支配させまいぞ。


 そういう意志を如実に籠めた景色であった。


 笠間はまた、パリ滞在中、ブルムに関してこんな話を仕入れてもいる。

 


 ブルムはかのスタンダールの思想、作品についての権威で、いつかスタンダールの名言といはれる「女が二十三四にもなって、まだ処女だなんていふのは、凡そ意味がないことだ」といふのに共鳴した講演か文章がある。
 これが議会で質問のたねになった。
 その為めに内閣がつぶれもしなかったのは、三色旗を出した愛国者たちも、此の点ではブルムに同感したためかもしれぬ。(6頁)

 

 

Stendhal

 (Wikipediaより、スタンダール

 


 過去は……バラバラにしてやっても……石の下からミミズのようにはい出てくる……

 


 いみじくもディアボロが述べた通り。人間、下手に有名になると、何を掘り返されるか到底知れたものでない。


 くれぐれも用心することだ。

 

 

 

 

 


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至誠一貫 ―終戦の日の愛国者―


 昭和二十年八月十五日、玉音放送――。


 大日本帝国の弔鐘といっても過言ではない、その御言宣みことのりがラジオを通じて伝わったとき。小泉信三は病床に横たわっていた。


 せんだっての空襲で体表面をしたたかに焼かれ、ほとんど死の寸前まで追い詰められた所為である。幸い急場は脱したが、元通りの生活を――自分で自分の面倒を見切れるようになるまでは、まだ相当の時日を要した。


 今はとにかく身体をいたわり、安静を心がけねばならぬ時期。ラジオの前で正座など、到底可能な業でない。

 

 

Japanese civilians listening to the surrender broadcast

 (Wikipediaより、玉音放送を聞く日本国民)

 


 何日かして、田中耕太郎が見舞いがてらやってきた。


 時節柄、話はしぜんとポツダム宣言受諾に及び、「吾々は、ともに国の非運を悲しみ、陛下の御決断を有り難いことだといい、しかしまた、日本人として世界に向って語るべき言分もないのではない。何時かその日も来るであろう。その時のために、少し英文が楽に書けるように練習して置こうではないか、などと語り合った」そうである。(昭和三十三年『朝の机』)


 さらりと書いてのけてはいるが、これは本来、途轍もない内容だ。


 傍から見れば、小泉信三ほど世を怨むに値する男も珍しい。


 大東亜戦争は実に多くを彼から奪った。


 長男信吉を南太平洋の海戦に亡くし、焼夷弾に住居を焼かれ、自身も皮膚をおびただしく失った――それはもう、人相さえ変わるほど。


 戦争を呪い、軍人を罵倒し、兵器を軽蔑する資格なら、誰より豊富に持っていたろう。


 しかし彼はその資格を使わなかった。使うことなく、あくまで祖国に忠を尽くした。そこに小泉を小泉たらしめる鋼鉄はがねの如き意志がある。

 

 

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(左から、長女加代、信三、長男信吉、妻とみ、次女タエ)

 


 彼は終生、愛国心「人間の感情の最も純粋なるもの」と説き続け、国内左派勢力、いわゆる進歩的文化人を向こうにまわし、熾烈な論戦をたたかい続けた。

 


 われわれが国を思う心、われわれが祖先と自分と子孫とがそこで生まれて、そうしてそこに死ぬべきこの国土と、そこに住む同胞と、その歴史や伝統や習俗に対する愛着は、人間感情の最も純粋なるものに属し、人は極めて自然にこれを抱くのである。この愛国心が狭隘な排他的のものとなって、万一にも世界と人類の幸福に逆行することは、極力戒めなければならぬところであって、高い理性によって、これを純化する必要は、私たちのしばしも忘れてはならぬところであるが、しかし、日本の利害と栄辱とを、他国民のそれと全く同一視して、変わりがないということは、己を偽ることなしにはいい得ない。これが多くの人にとっての真実であると思う。

 


 昭和三十七年刊行、『十日十話』で詳らかにされたこの信念は、ついに最期の最期まで、些かの屈曲もなかったように思われる。


 私が小泉を尊敬するのはここ・・なのだ。そうだとも、人間には、男には。首をもがれてでも貫き通さなければならない節義というのが確実にある。


 そういうものを持って守っているやつだけが、「漢」と呼ばれる資格があるのだ。


 以上、七十六回目の終戦記念日に際して、湧き上がる衝動のまま書いてみた。

 

 

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 ああ、そういえば。人を破滅に誘う第一として、生田春月は智慧の伴わぬ誠実」を挙げていたか。


 この短い箴言は、愛国心純化する過程に於いて高い効果を示すと思う。


 よって最後に書き添えた。ただそれだけのことである。

 

 

 

 

 


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津軽海峡機雷原 ―テンヤワンヤの青森港―


 最初は本気にしなかった。


 てっきり何かの冗談とばかり思ったのである。


 通済道人お得意の諧謔趣味がまたぞろ顔を出したのだろうと、その程度にしか考えなかった。


 通済道人、本名を菅原通済


 やあやあ我こそは菅原道真――天神さまの血を受け継いだ三十六代目の子孫なりと自称して、大正・昭和の政財界に暗中飛躍を試みた、当代きっての曲者である。

 

 

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菅原通済原節子と共に)

 


 そういう男の口唇から、


 ――津軽海峡が麻痺している。


 ――ソ連の機雷が出没する影響で、青函連絡船の運航は大いに支障を来しつつあり。夜間の便に至っては、既に絶えたも同然だ。


 こんなニュースを説かれたところで、どうして鵜呑みに為し得よう。


 が、一応調べて驚いた。


 なんと真実ではないか。


 昭和二十五年末から二十六年初頭にかけて、特に日本海沿岸に、浮遊機雷の漂着例が激増している。


 ソ連製が大部を占める事実から、どうも朝鮮戦争でバラ撒かれたものらしい。何かしらの要因で係留ロープの縛りが解けて、潮のまにまに漂う内に、津軽海峡まで達したヤツも確かに存在したようだ。


 そういう危険極まる時期――昭和二十六年六月初頭に、菅原通済は北海道旅行を敢行している。


「北海道アラサガシ巡業団」などと、如何にもこの男らしい剽げたノボリを押し立てて。

 

 

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(昭和初頭、北海道・大沼の景色)

 


 港は大混雑だったらしい。

 


 青森の乗船待ちのひとときはテンヤワンヤの語につきる。昼間しか動かない連絡船めがけて一度に殺到する乗客は、少しの統制もなく、改札も待たずに雪崩れ込むからテンヤワンヤなのである。駅員は一向平気で見送ってゐたが、都合のよい頃に出て来て追い払いを命じてた。(昭和二十七年『土龍の日光浴』166頁)

 


 欠航続きの現状をかんがみ、今度を逃したら次はいつになるやら分からぬ以上、当然のなりゆきであったろう。


 だがしかし、それにしてもこいつはちょっと。――下村海南が目の当たりにしたならば、顔を覆って嘆きかねない情景だ。


 旭丸の悲劇から日本人はついに何も学ばなかったと。自身の努力がふいにされたかのように感じるのではあるまいか。

 


 長崎市営港内交通船第一旭丸といふ五十トンの船が、二百名の客を満載して波止場の桟橋に横附けした時、船体が傾斜して海水が奔流し百余名は船もろ共に沈む、十数名が溺死する、五十余名が負傷した。
 桟橋に横附した時に、左舷の乗客が我れ勝ちと一時に桟橋に飛び上がった為め、右舷へ甚だしく傾斜したからである。
 かつて東北線の列車が箒川の鉄橋を渡るとき、横ざまに墜落した事がある。それは強い吹き降りで車体が一方に吹きつけられ、さらに乗客がその吹きつけられて傾かんとする側に片寄ってしまったからであった。
 一方へ片寄ればその方へかしぐ。一方から急に立ち退けば反対の方へかしぐ。分かり切った事だが、とかく我れ勝ちと片寄る、我れ勝ちと立ち退く。(『通風筒』25~26頁)

 

 

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(潮岬にて、坂田幹太と下村海南)

 


 昭和九年二月の時点で、海南はこのような記事を世に著している。


 翻って国民に規律正しさの重要性を啓蒙し、船であれ汽車であれ、その乗り降りは整然と行わるべきを強く訓戒。このような惨事が二度と繰り返されないことを望んだものだ。


 ところがそれから十七年を経てもなお、他者を押しのけ我勝ちにと行動する日本人の姿は絶えない。青森港で、菅原通済の眼を通し、はっきり確認されている。


 嘆息するには十二分であったろう。


 あるいは本当にした・・かもしれない。下村海南の命日は昭和三十二年十二月九日。二十五年には大著終戦秘史』を草すなど、まだまだ頭脳あたま明晰はっきりしていた。

 

 

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 嗚呼、今日このごろの駅のホームを、この海南に見せてやりたい。二十一世紀の日本人はかつて彼が望んだ通り、何事につけみごとな列を成すに至った。先人に対し、胸を張っていいことだ。

 
 
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