穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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明治やきとり小綺譚


 心に兆すところあり、浅草寺を訪れる。

 

 

 


 日差しはまだまだ夏である。

 

 

 


 この熱気の中、かくも鮮やかな朱色に取り巻かれていると、余計に体温上昇し、汗がだらだら溢れるようだ。

 

 

 


 明治のむかし、この境内に飛び来る鳩を殺して焼いてかぶりつき、口腹の慾を満たしていたのはすなわち早稲田の学生だった。

 

 

 


 振り子運動で下駄を射出し、油断している鳥類どもへ手痛い一撃を喰らわせる。そういう技の使い手が五指に余るほど居たのだと、某OBの随筆にて読んだのだ。


 むろん、皆、牛鍋など夢にもつつくことの出来ない貧乏書生ばかりであった。

 

 

(昭和の浅草、木賃宿

 


 不足しがちなタンパク質を補うために、いわば生存の必要に迫られての已むを得ざる狩りであったと、彼らはきっと自己弁護するに違いない。

 

 

 

 


 本堂向かって右手には、神社も併設されていた。

 

 

 


 神仏習合の見本のようだ。

 

 

 


 鳥居の中には、こんなものまで。

 

 

 


 日本人のDNAには米に対する愛着が、拭いがたく刻まれているに違いない。


 竹帚を素材とした案山子も嬉しい。実にいい味出している。


 サクナ様もニッコリだろう。

 

 

 


 もののついでに雑司が谷にも寄っていく。

 

 

 


 鬼子母神が目当てであった。

 

 

 


 明治の帝都で焼き鳥といえば、どうにも此処が外せない。いの一番に連想される。

 

 

 


 此処には嘗て『蝶屋』とかいう料理屋が暖簾を出して提灯に火を入れており、メニューの中でも「芋田楽」と「雀の焼き鳥」の二品とが、土地の名物として持て囃されたものだった。


 以下、明治四十一年の雑誌『趣味』に掲載された、『蝶屋』主人の談話から一部抜粋しておこう。

 


「店を始めたのは、明治十一年頃でした。その前から、鷹のゑさとしての雀を、宮内省へ納めてゐたのですが、雀が捕れ過ぎて、仕方のないほどだものですから、それで焼鳥屋を始めたのです。秋になって稲が熟し、空のよく晴れた日に、郊外に網と籠とをかついで、雀を捕りに行くのですが、それは商売ながら楽しいもので、以前はその網に、あまりに沢山かかり過ぎて、二三百羽もの雀でその網を持って行かうとするのに驚いたことなどもあったものです。近頃は、東京附近の雀は、網にも笛にも慣れてしまって、昔のやうにはかからなくなってしまひました」

 

 

 


 この境内にも鳩は盛んに飛び来たり、しきりに地面を突いていた。

 

 

 

 

 


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