日本に鉄道ブームが起きたのは、明治の中ごろに於いてであった。
撮ったり乗ったりする方ではない。敷設事業が、流行りに流行りまくったのだ。
その嚆矢は、日本鉄道会社が務めた。東京と青森を鉄道で繋ぐ――世にもきらびやかな大目標をぶちあげて、明治十四年、この組織は創立せられた。
発起人は岩倉具視、出資は主に華族たちの財布から。しぜん半官半民的性格が非常に強い「会社」であって、政府がその事業を翼賛するため図ってやった便宜というのも広範に及ぶ。
具体例を挙げるなら、次のような契約だ。
株式募集の上は、株金払込の翌月より起草して、一ヶ年八分の利子を下付し、事業開始の後、其の収入純益が資本金に対し一ヶ年八分に満たざる時は、東京より仙台迄は十ヶ年、仙台より青森迄は十五ヶ年間、其の不足を補給すべし。
ものすごく乱暴に言ってしまえば、一定期間中の赤字なら、たとえ出しても政府が肩代わりしてくれるとのことである。
この他にも官有地を無償で払い下げてもらったりと、とにかく至れり尽くせりの優遇ぶりで、日本鉄道会社は工事を開始。
明治十六年七月には上野・熊谷間が、
同十七年五月には熊谷・高崎間がそれぞれ竣工。特に前路線の営業成績は頗る良好を呈したもので、純益年一割以上に達し、政府の補給を要さないほどであったという。
(Wikipediaより、日本鉄道会社社章)
さてこうなると、世間というのは現金な
――どうも鉄道というのは儲かるらしい。
そんな風評に煽られて、一獲千金を目論む数多くの夢追い人がこぞって鉄道企業に投資したがる。
――近代化の好機だ。
と、政府は膝を打ったろう。願ったりな展開だった。
日を追うごとに民間の鉄道熱はボルテージを増してゆき、最高潮に達したのが、明治二十年前後であった。このころ、鉄道事業はもはや一種の流行物の観がある。
十七年には阪堺鉄道が、
十九年には伊予鉄道が、
二十年には水戸、両毛の二鉄道、
二十一年には山陽、大阪、讃岐、甲武、九州の五鉄道、
二十二年には筑豊興業、北海道炭鉱、総武の三鉄道がそれぞれ興り、
孰れも予定の工事を遂行したというのだから、その猛烈ぶりが察せられよう。
日本の国土に急速に張り巡らされた鉄道網。本田静六林学博士が大正二年に調べたデータを参照すると、その総延長は概算で、7800マイルにも達していたとのことである。
(Wikipediaより、本田静六)
メートル法に換算すれば、実に12552kmという距離だ。
暗殺の危険を覚悟してまで新橋・横浜間を大隈侯が接続してから、未だ半世紀も経ておらぬというに、なんという躍進ぶりであったろう。
ただ、喜んでばかりもいられない。
これほどの規模ともなると、注ぎ込まれた資材の量も莫大となる。
松の木なんぞは三年もすればもう腐る。腐って折れて、レールを支える大事な役目を果たせなくなる。いちばん長持ちすると言われた栗の木でさえ十年持たない。たった九年で駄目になる。
長さ210cm、高さ20cm、幅14cmが当時の枕木の規格であった。これを80㎝間隔でずらりと並べる。一マイルあたり2000本を必要とする計算になる。大正二年の鉄道網を成り立たせるのに1560万本の枕木が用いられた理屈だ。蓋し途轍もない量である。
更にそれを維持するために、毎年取り替えなければならない枕木の数が、先の本田静六によればざっと300万本ときた。日本の山は丸裸になるんじゃないかと、ちょっと心配になってくる。実際問題、最良の材質である栗の木などは、一時期かなり天然物が少なくなった。
その上を疾走する列車それ自体にも、木材はふんだんに使われている。当時の客車は床も柱も戸も窓も、悉皆木で出来ていた。それも少々の揺れではビクともしない、湿度や気温で狂いの生じぬ、堅く丈夫で上等な木――
そう考えると、当時の列車は全く以って高級品だ。あの力強く、美しい木目の欅を惜しげもなく削り出して作られていたわけだから。
もっとも高まり続ける需要の前に国内欅はやがて圧倒されてゆき、栗と同じく、山野に自生する本数を著しく減らす破目に陥るのだが。代わって用いられたのが、インドあたりから輸入されるチークであった。
こちらはこちらで、マホガニーと並び称されるほどの高級木材である。欅と同様、硬く強靭で狂いも少ない。一台の客車を造るのに、これらの高級木材が、尺〆五十本づつ費やされたとのことである。
乗れるものなら、ぜひとも一度乗ってみたいものだった。
バスならば経験があるのだが。私が小学生の時分にはまだ、床が板張りのバスというのが辛うじてながら現役で、坂の多い山梨の道路をえっちらおっちら走っていた。
今ほど座り心地のよくなかったあの椅子が、何故だか無性に懐かしい。
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