穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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水銀中毒、待ったなし ―マドリードの民間療法―


 アコスタが工房を訪ねると、職人どもはもう既に今日の仕事を終えており、せっせと金貨を飲んでいた。


 比喩ではない。


 日給を安酒に変えてとか、そういうワンクッション置いた、取引を交えたものでなく。


 率直に、物理的な意味合いで――金貨を砕いて粉にして、一定量をざらざらと、喉の奥へと流し込むのだ。

 

 

Gold dust (placer gold) 1 (16851203639)

Wikipediaより、砂金)

 


「やあ、精が出ますな」


 と、この品のいいイエズス会士が言ったかどうか。

 

 ここはスペイン、マドリード


 ジャコモ・デ・トレゾの作業場。


 この日の業務は幾点かのブロンズ像へ、金メッキをすることだった。


 その具体的なやり方は、日本に於いて奈良時代東大寺毘盧遮那仏をきんきらきんに彩ったのと本質的に変わらない。


 金と水銀を混交し、


 アマルガムを作製し、


 表面を磨きあげたブロンズ像へ、


 順次塗りたくってゆく。


 あとはそう、適度な熱を加えてやれば、


 水銀だけがうまいこと、成分中から蒸発し、


 金はそのままそこに残って固着するという寸法だ。


 然り然り、水銀だけを気化させて取り除くのがミソである。


 当然蒸気は毒を持つ。極めて強い毒性を――。

 

 

Pouring liquid mercury bionerd

Wikipediaより、水銀)

 


 東大寺の場合でも、こいつの所為で工人どもがバタバタ死んだ。


 神聖なもの、尊いもの、衆生を救うありがたいものを造っているにも拘らず、過程で生ずる犠牲たるやどうだろう。つくづく以って人世ひとよは矛盾に満ちている。


 不幸中の幸い、東大寺には「切れ者」が居た。


 国中公麻呂という人が、


 ――どうもこいつがわざわいの根本としか思えない。


 と、水銀蒸気と死の氾濫の関係性に想到し、効果的な対策をやっとこ捻出したという。

 

 

 


 八世紀の日本に於いて既に然り、況や十六世紀のヨーロッパに於いてをや。


 水銀蒸気の猛毒ぶりは職人たちひとりひとりの脳髄に確と刻印されいた。吸えば吸うほど生命いのちが縮む、地獄の瘴気みたいなモノであるのだと。


 その一点に限っては、秦の始皇帝よりも遥かに賢かったろう。


 とまれかくまれ生命は惜しい、しかし客がもとめる以上、仕事をおろそかにも出来ぬ。


(特効薬はないものか)


 水銀の毒を中和する、都合のいい薬剤は――。


 溺れる者は藁をもつかむ。


 切羽詰まった精神こそは、迷信の最良の培養土。案の定みるみる根を張って、奇怪な花を咲かせてのけた。それがつまり冒頭の、「金貨を飲む」習慣だ。

 

 

Sovereign George III 1817 641656

Wikipediaより、ソブリン金貨)

 


 水銀が金を慕う烈しさ、「驚くべき執着をもって金にくっつき、それを求め、かぎつけると、どこでもそれに向かって動いて行く」習性は、彼ら全員、実際に見て知っている。


 ならば金粉を飲み込めば、喉を通り、胃を通り、腸を通りするうちに、先んじて這入はいり込んでいた水銀も、自然と気配に惹きつけられてあつまって、ひとかたまりに結合し、最終的には尻の穴からすっかり脱けるのではないか? そんな風に期待した。


 期待以上に、積極的に信じ込もうと努力した。


 ――これですっかり大丈夫、安心安全ご安泰というやつだ。なんてったって金貨を飲んでいるんだからな。


 効果の有無、科学的な正当性なぞ、およそ二の次、三の次。


「打つ手がある」こと、それそのものが重要なのだ。戦地で兵士がゲンを担ぐ心理に近い。「人間は生きて行くためには、何とかして運命の軛を取り去らうと努力する心がある。或は運命に歎願し、或は運命に媚び、或は運命を欺いて、幸福を得やうとする。運命を二元的に見、神と悪魔とにする時は、神に向かっては加持祈祷を以って歎願し、悪魔に向かっては調伏しやうとする」生方敏郎『謎の人生』)。精神衛生を保つ為にはつっかえ棒が欠かせないのだ。


 人間性の弱点であり、また可憐さでもあったろう。

 

 

 

 

 


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