デモステネスとは、いったい何者なのだろうか。
崩れ落ちんとする前時代の社稷を支えたいが一心で、物狂いしたように叫びまわり駈けまわり、あくまでも新体制を拒絶する――。
狂瀾を既倒に廻らさんと憑かれたように足掻いてのける、この種の保守的情熱の持ち主は、洋の東西を問わず、遥か神代の昔から、それこそ無数に居ただろう。
強いて我が国に類型を求むるとするならば、維新回天の秋、亡びゆく徳川の世をそれでも薩長の暴虐の魔手から
会津をはじめとした東北諸藩。
新撰組や見廻組などの浪人結社。
戊辰戦争の敗者となったこれら諸々の男どもは、忠義者ではあるものの、日本国の近代化という大目的から眺めれば、単にその妨害者たるの範疇を出ない。
そこはデモステネスも同様だ。
ギリシャを併呑したマケドニアがアレキサンダーの指揮の下、例の大遠征を行ったればこそギリシャ文化とオリエント文化との衝撃的な――まったく天体の衝突にも比するべくに衝撃的な――出逢いが成就し、ヘレニズムという、絢爛無比なる一大文化が爆誕したわけである。
極端な物言いを敢えてするなら、マケドニアに呑み込まれたことによってそれまで地中海の一地方に過ぎなかったギリシアは、世界のギリシャへと大飛躍を遂げたのだ。
人類史に対する貢献度合いから判断すれば、アレキサンダーこそ大英雄と呼び讃えるに相応しく、デモステネスなど旧弊に凝り固まった排外的民族主義者に過ぎない。
だが、しかし、だとしても。
時代の節目、世が大きく移り変わらんとするその秋に、こういう人間が出て来なければ歴史とはなんと味気ないものになるだろう。
ファニー・ヴァレンタイン大統領はいみじくも言った、
この人間世界の現実…
新しい時代の幕開けの時には必ず立ち向かわなくてはならない「試練」がある
『試練』には必ず
「戦い」があり「流される血」がある
『試練』は「強敵」であるほど良い…
試練は「供えもの」だ
りっぱであるほど良い
と。
至言であろう。
その「戦い」もなしにサラサラと、なにやら水が樋を滑るような抵抗のなさであっさり世が切り替えられてしまっては、何というか、人間そのものが薄っぺらく見えて来る。
果たしてデモステネスは戦いを挑んだ。
迫りくるマケドニアの脅威を攘ち払うのだとしきりに訴え、世の潮流を反マケドニアに糾合し、アテネ・テーバイ同盟の成立に大きく寄与。結成された連合軍を以ってしてカイロネイアの戦いに臨み、結果目も当てられない大敗北を喫したことは以前に述べた。
並大抵の男ならここで意気消沈し、世の表舞台から引っ込んでいい。
が、デモステネスは執拗な性格を持っていた。あれだけ手酷く叩きのめされたにも拘らず、彼の反マケドニア熱は翳るどころかますます盛んに燃え上がり、アテネに於いてなおも有力な地位を占め続けた。
デモステネスは、やはり常人ではないのだろう。そんな彼が、一人の愚者の存在によって唐突に失脚を遂げるのだから、人の世というのはわからない。
ハルパロスと名乗るその愚者は、しかしアレキサンダーの親友という繋がりゆえに彼の政権で財務官なる重職に就き、そのくせ大王が遥かなる遠征に旅立って以後は、
――どうせ生きて帰って来るものか。
と
ところがハルパロスの思い込みに相違して、紀元前323年、アレキサンダーは帰ってきた。酒と女に浸かりっきりで海綿化の進んだハルパロスの脳味噌でも、これが如何にまずい事態かは読み取れる。
案の定、アレキサンダーは自分の留守をいいことに、鬼の居ぬ間の洗濯とばかりに汚職に手を染め遊蕩に耽っていた太守どもを粛清しだした。
もたもたすれば、次に首を刎ねられるのは自分であろう。
ハルパロスは逃げた。
しかもただ逃げたのではない。6000の傭兵、5000タラントンもの銀貨を30隻の船に積載しての大脱出である。
目指す先は、アテネであった。
デモステネスを筆頭に反マケドニア勢力の未だに根強いこの地に於いて、単に匿ってくれと願い出るのではなく、共にアレキサンダーを討ち滅ぼそうと勧誘――否、激励したハルパロスの神経は、もはや測り難い域にある。
どうやら友情を感じていたのは大王のみで、ハルパロスの方はアレキサンダーのことなど別段好きでもなんでもなかったことが、この点からも見て取れる。
軽佻浮薄を人間の形にしたような、こんな男の口上に乗るほどアテネ市民は馬鹿ではない。デモステネスもまたハルパロスをアテネ港内に入れるべからずとの動議を提出、彼の手を冷厳に払いのけている。
思わぬ冷遇を受け、進退窮したハルパロスはまたも頓狂なことをやり出した。
彼はいったん別の岬に船をつけ、そこに傭兵を待機させると財の中から720タラントンのみを持ち出しアテネを再訪。謀反人ではなく一介の避難民であるとしてなんとか市内に入った彼は、しかし直後、アレキサンダー麾下の諸将たちからハルパロスを引き渡せとの要求がアテネに降ったことにより、軟禁状態に置かれてしまう。
折角の金も取り上げられて、まるで捕まるためにやって来たようなものだった。
これでハルパロスの命脈は尽きた。
まもなく彼は相応しい死を迎えるわけだが、それはまあ別にいいとして、問題になったのは彼の持っていた金である。
ハルパロスが拘禁された際、押収された金額は確かに720タラントンのはずだった。
ところがその後、保管場所と定められたパルテノン神殿に運び入れられた金の量は、わずか350タラントンでしかない。
残額は何処へ行ったのか。疑惑は疑惑を呼び、やがて大問題に発展した。
何らかの処置を講ぜねば、激昂した民衆が何をしでかすかわからない。そこでやはりデモステネスの動議によって、この問題を最高法廷に於いて糺断することが決定した。
幾日にも亘って厳しい審問が行われたその結果、最終的に九名が罪人として裁かれた。消えた金の行方は、この連中がハルパロスからこっそり賄賂として着服していたのだと。
その筆頭に、なんとデモステネスの名があったのである。
本件を最高法廷で扱えとした彼の動議はなんだったのか。まるで自分の死刑予約を入れるに等しい支離滅裂なものではないか。
イギリスの下院議員で引退後に著述業に専念し、『ギリシア史』を世に送り出したグロートが、
――この判決は法律的にあらずして、政治的なものである。
と断定したのもむべなるかな。あまりに不可解な点が多過ぎた。
しかしながら他の多くの政治的疑獄と同様に、この件の真実も永久に解き明かされぬままだろう。
ただ、厳然たる事実として、デモステネスは有罪となり、アテネから離れざるを得なくなった。
かつての愛国者が、なんたる悲哀か、孤影悄然と異郷の土に消えるのか――と思いきや、運命はまだこの男を見捨てない。
そう、アレキサンダー大王の急死である。
(Wikipediaより、アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス)
インド遠征から帰還して、留守の間にあぶりだされた不届き者を粛清しつつ、次なるアラビア遠征へ向けての構想を練っていた僅か32歳のこの覇者は、まったく急死としか言いようのない唐突さで世を去った。
この報を受け、ギリシャ人達は独立を取り戻す千載一遇の好機が来たと弾かれたように動き出す。
アテネもまたその例に漏れず、レオステネス将軍を指導者として蜂起に踏み切る。
この期に及んで、伝説的な反マケドニアの闘士たるデモステネスを蚊帳の外に置いておくなど有り得ない。斯くしてなんという慌ただしさか、たちどころにデモステネス召還の動議は民会に於いて可決され、彼は再び故郷の地を踏む。
アテネの南西、ピレウスの港に上陸したデモステネスを迎えたものは、執政官及び祭司を先頭にした大行列に他ならない。
彼はまったく、花道を歩いたといっていい。どこからどう見ても、これは凱旋の光景だった。
まるで2100年先の、エルバ島から脱出してきたナポレオンを見るようである。
その末路まで、デモステネスはナポレオンと同様だった。
帰還したナポレオンがワーテルローの戦いで敗北し、その百日天下を粉砕され、セントヘレナに送られて、今度こそ完全に命脈を断たれたように、デモステネスもまたクランノンの戦いに敗れ、カラウリア島に逃れたが、ついに追手を振り切ることが出来ず、島のポセイドン神殿で毒をあおって自決した。
享年62歳。幾度の敗北にも折れることなく、生涯を賭してマケドニアと闘い続けた男はついに死んだ。
しかしながら彼の遺した弁論の数々は時を超えて脈々と息づき、例えば若き日の大ピットを感奮させて、大英帝国の基礎を築く原動力にもなっている。
デモステネスはこれからも、無数の思想的継承者を生んでゆくに違いない。
男の人生など、つまりはまったくそれでよいのだ。
- 作者: デモステネス,Demosthenis,加来彰俊,杉山晃太郎,北野雅弘,北嶋美雪,田中美知太郎
- 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
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