イングランドの大哲学者、トマス・ホッブズは非常なタバコ好きでもあった。
彼の仕事机の上には、常に十二本のパイプが並べられていたという。ペンを取るより先に、これらパイプにタバコの葉を詰めるのが、いわば彼の日課であった。
つまり物を書いている最中、タバコが燃え尽きたからといっていちいち著述を中断し、灰を叩き落して新たに葉を詰めていては、あまりにテンポが悪すぎる。折角浮かんだ天啓的着想も、その煩雑な作業を行っている間にどんどん霞んでしまうだろう。
ゆえにそうした面倒事は、一番最初にまとめて済ます。一つパイプを吸い尽くしたなら、別のパイプに換えればよい。鉄砲の「段々撃ち」にもどこかしら通ずるような発想だった。
それにしても、毎日パイプ十二本は凄い。仕事中は片時もパイプを唇から離さなかった光景がいとも容易く想像できる。これだけニコチンを体に入れて、しかも九十一歳の長命を保ったのだから運命というのはわからない。
勇気を支えているのは決まって腕力や技量であり、それは権力なのである。(光文社古典新訳文庫『リヴァイアサン 1』164頁)
この世の幸福は満ち足りた心の安らぎにあるのではない(中略)なぜか。第一に、いにしえの道徳学者がその著作に書いているような、究極の目的とか至高善といったものは、存在しないからだ。第二に、欲求が尽きると、感覚と想像力が停止した場合と同様に、もはや生きてゆくことができないからだ。幸福とは、欲求がある対象から他の対象へと絶えず移り進んでゆくことであり、何かを達成するということは、別の何かに至る過程に過ぎない。(170頁)
対等だと思っていた相手から、報いることができそうもないほど多大の恩恵を施されると、相手に対する気持ちは往々にしてうわべだけの好意に変わる。いやそれどころか、実際には秘めた憎悪に変わることもある。恩恵を受けた側は、絶望した債務者と同様の立場に追い込まれる。(174頁)
こうした金言の数々が紫煙と共に吐き出されたかと思うと、また違った感慨が湧く。
他人を守るために国家の武力に抵抗するなどという自由は――その他人が罪人であろうと無辜であろうと――だれにもない。なぜなら、そのような自由が認められるなら、主権者は私たちを守る手段を失い、したがって統治の根幹そのものも破壊されてしまうからである。(光文社古典新訳文庫『リヴァイアサン 2』99頁)
この一節にめぐり逢えただけでも、本書を購入した甲斐があった。
ヒロイン可愛さのあまり国家権力にだって反抗して憚らない、よくあるジャパニメーションの主人公的行動が、思わず吐き気を催すほどに不快で不快で仕方なかった私にとって、これは正しく救いの音として機能したのだ。
人が見落としている事柄がある。それは、人の属するいずれの政体にも、必ず何らかの不都合がつきまとうということである。また、最悪の統治形態のもとで人民一般がこうむる(かもしれない)最大の不都合といえども、内戦や無政府状態にくらべれば取るに足らぬということである。(41頁)
他にタバコ好きの哲学者としては、ロックやベーコンが挙げられる。特にロックはタバコをして、
「頭の為には是非とも欠くべからざる必需品」
とまで称讃しているところを見ると、相当な愛煙家だったようだ。
シェイクスピアもまたよくタバコを嗜む男であった。彼の作品には滅多に喫煙シーンが描かれないからてっきり嫌煙家と思い込みそうになるのだが、実はかなり吸ったらしい。
彼自身の劇場であるグローブ座でも喫煙が許可されていたというから、少なくとも悪感情はなかったろう。
ホッブス、ロック、ベーコン、シェイクスピア――いずれも英国が世界に誇る偉人である。
では英国籍の偉人すべてが愛煙家であったかというと、決してそんなことはなく、嫌煙家でありながら歴史に名を刻んだ者とて確かに居た。
中でも特に有名なのは、19世紀に活躍し、「神、そらに知ろしめす。すべて世は事もなし」を生み出した詩人、ロバート・ブラウニングその人だろう。
(Wikipediaより、ロバート・ブラウニング)
ある晩、彼が美術クラブに出席した際の出来事だ。運悪くその日の集まりには愛煙家ばかりが顔を連ねて、どの部屋の扉を開けても紫煙が立ち込めていない場所がない。
安息の地を求めてしばし彷徨ったロバートだったが、とうとうこの煙の猛威からは逃れようがないと分かると彼はいっそ逆上し、
「ジェームズ一世は悪漢だ、暴君だ、愚物だ、うそつきだ、卑怯者だ、けれども自分は彼のことが大好きだ。むしろ崇拝さえする。何故かといえば、あの不愉快極まるタバコなんてものを喫むことを発明した、あの大馬鹿のラーレーの首を叩っ切ったからだ」
そんなことを怒鳴り散らして、一座を大いに興醒めさせたという。
他に特筆すべきは、やはりロスチャイルド家の逸話だろうか。
下田将美曰く、
富豪のロスチャイルドも高い葉巻を常用にしたのは有名で一つ一つが純金の紙で包んであって、箱はすばらしい杉を用ひてあった。一行李に一萬四千本づつ入るのを彼はいつでも三行李づつ註文したさうである。(『煙草礼賛』104頁)
「大人買い」の究極系と言ってよかろう。
日本でもバブルの時代、刺身の金箔張りという意味不明なモノが流行った。
刺身に金箔を塗ったところで味がよくなる筈もなく、葉巻を金で包んだところで香りが高まる道理なし。率直に言って無駄以外の何事でもないのだが、こういう無駄を愉しんでこその人生という気もどこかする。
最後にビスマルクに触れておきたい。かの鉄血宰相殿もまた大層な愛煙家だったが、彼が述懐する生涯最高の煙草の味は、ケーニヒグレーツの戦いの後ついに吸い損ねた一本の葉巻であるという。
なにやら謎かけのような印象を受けるが、事のあらましはこんな具合だ。
ドイツの盟主の座を賭けて、プロイセンとオーストリアが鎬を削った普墺戦争。その終結を決定付けた――むろん、プロイセンの勝利という形で――戦いが、ケーニヒグレーツの会戦に他ならなかった。
1866年7月3日のこの瞬間、ビスマルク本人も戦野に臨み、戦いの顛末を見届けたという。
(Wikipediaより、ケーニヒグレーツの戦い)
さて、戦闘行為が終了すると、勝利の栄冠を得た彼は、のびのびとした健やかな気分で砲弾によって耕され、そこかしこに人間の部品が散乱している戦場跡へ巡廻に出る。
するととある道端に、自軍の竜騎兵が横たわっているのを見出した。
おそらく砲撃によってであろう、彼の両脚はぐしゃぐしゃに潰れ、とめどもなく血が溢れ出し、もはや救かるべくもない。
意識も半ば朦朧と化しているらしく、目の前に居るのが誰かもわからず、うわごとのように力なく、「気付けをくれ」と繰り返すのみ。
ビスマルクは立ち止まり、ポケットに手を突っ込んだ。指先に触れたのは、金貨とクシャクシャになった一本の葉巻。
金貨など、この場合何の役にも立たない。ビスマルクは一言も口を利かぬまま、手早く葉巻に着火して、その兵士の口に差してやった。
「その哀れな兵士の頬に浮んだ感謝に満ちた微笑、俺はまだ生まれてから、此自分で喫まなかった一本のシガー位、いい煙草を経験したことがない(『煙草礼賛』69頁)」
なんともはや、鉄血宰相らしい口吻である。
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