穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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大正みやげもの綺譚 ―岡本一平、山陽を往く―


 土産物にはその土地々々の特色が出る。


 そりゃあそうだ、出ていなければいったいどうして、観光客の購買欲を掻き立てられる。財布の紐を緩ませるには、彼らの日々の生活範囲の域を外れた、そこならでは・・・・の尖った「なにか」が必要なのだ。


 昔の早稲田の名物に、「ホラせんべい」なる奇妙な名前の菓子がある。何かにつけて大風呂敷を広げたがる学祖大隈重信にあやかったに違いない。「天満の天神さん」の愛称で地元民の信望を繋ぐ大阪天満宮、菅公を祀るここの社務所が発行する社報には、大正時代、「面白き神罰の実例」たらいう興味記事が載っていた。


 洒落と風刺と恫喝とをこき混ぜて、軽妙至極な笑話へと昇華せしめたものであり、神徳の宣伝・信仰心の収集に効果を発揮したという。

 

 

Ôsaka-ten'man-gû Shintô Shrine - Haiden Sanctuary

Wikipediaより、大阪天満宮・拝殿)

 


 更に西へと視線を移して。――


 岡山県に着目したい。やはり大正の末ごろに、漫画家・岡本一平がぶらりとこの地を訪れて、秀逸な紀行を残してくれているからだ。


 なにか愉快なネタはないかと漠然とした期待感に衝き動かされ、商品陳列所を見物に行く岡本一平。真っ先に目についたのは、やはり備前焼とか畳表とかいったような大物だった。

 

 

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岡山市西大寺通り)

 


 まず、定番といっていい。


 今でこそお株を九州に奪われた感が強いが、実に中国地方こそ当時に於ける藺草産業のメッカであって、殊に畳表の生産額では、一位を広島、二位を岡山、三位を山口と、まったく山陽一帯の独占に帰した状態だった。


 自然地理学の権威にして「四国山地」の命名者たる下村彦一その人も、

 


 南備後の沖積地または平坦面地には、藺草を栽培してゐるところが甚だ多く、中にも沼隈、御調の両郡や尾道市附近は畳表の主産地で、その名は備後表として全国的に知られてゐる。畳表は、藺草または三角藺たる七島藺と麻糸とを経緯として製作するものではあるが、当地方のものは七島藺からなる琉球表とは自から区別せられる。
 この製造は天文年間、沼隈郡におこったもので、その後次第に発展したが、製造には大なる設備や資本を必要としないため、農家の副業特に婦女子の仕事として適当し、今日では広く中国地方一帯に普及してゐる。

 


 との観察を、昭和五年の『日本地理風俗体系 中国地方』に寄せている。


 岡本の前に置かれたそれ・・も、どこぞの農家の婦人の夜なべの、苦心の結晶だったのだろうか。

 

 

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(岡山の藺田)

 


 まあ、それはいい。


 そうした有名どころの間に挟まり、しかし負けじと存在感を主張する、新進気鋭の若手ども。新たな名物になり上がってくれようずとの挑戦心が籠められた、むしろそちらの側にこそ、この漫画家は惹き付けられた。


 就中、「木堂せんべい」なる菓子が、彼の視線をがっちり捉えた。


 木堂――言うまでもなく、岡山出身の偉大な政治家・犬養毅の号である。

 


…これは扇形のせんべいに木堂の右肩上がりの例の字で「楽善」などと焼付けてあるのです。一体犬養といふおやぢは食へないおやぢで強ひて食はうとすれば反対に食はれてしまふおやぢです。成程木堂はせんべいにして食ふ方が安全です。田中政友会総裁の茶受けの相手には持って来いでしょう。(昭和四年発行『一平全集 第九巻』312頁)

 

 

Inukai Tsuyoshi

Wikipediaより、犬養毅

 

 

 早稲田のホラせんべいといい、この時期の政治家はとかく名物に使われがちだ。ほとんどアイドルさながらではあるまいか。


 あらまほしき偶像を世間の上に投影し、以って大衆の心を得、彼らの支持をとりつける――なるほど遣り口の面に於いては、一定の類似性も見出せようが。


 為政者には時として、どんな役者よりも凄まじい演技能力が必要なのだ。


 歌がある。


 何代目かの岡山県知事、佐上信一。彼がつくった歌がある。


 もののついでに紹介しよう。

 

 

岡山の 人よ誇れよ 後楽園
仙鶴遊ぶ 庭の辺に 
常盤の松も 色栄えて
かしこき記念の 延養亭

 

 

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(延養亭)

 


 佐上は優秀な内務官僚であり、岡山県以外にも、長崎・京都・北海道等、各地の知事を歴任した。

 

 

 

 

 


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満州豚と日露戦争 ―明治大帝の見込んだ品種―


 そのいきものが下総御料牧場にやってきたのは、日露の戦火も未だ熄まぬ、明治三十八年度のことだった。


 満州豚、都合六頭。


 現今では「幻の豚」と称される希少種中の希少種であり、実食の機会を掴む為にはある程度の手間とカネ、そしてもちろん幸運が要る。


 大連に出張していた某大官が、帰朝の際の手土産として特に積み込んだものという。

 

 

Dalian Port,China 大連港 - panoramio

Wikipediaより、大連港)

 


 ――ほんのお慰みに。


 と、報告がてら明治大帝に献上したが、陛下はほとんど右から左の素早さで、六頭ぜんぶを下総御料牧場へと移してしまった。


 その素早さを、当時の牧場長である新山荘輔その人は、以下の如くに解釈している。

 


 私達、牧場のものは、西洋種の見事に太った豚を見慣れて居る。其の眼から観ると、御廻しの豚はいかにも見すぼらしく、野獣のやうで、甚だ恐れ入ったことではあるが、実はその姿を見ただけで、これから一生懸命に力を入れて、大いに繁殖させて見ようなどといふ気は起らなかった。
「つまらぬものだが、折角、献上したものであるから、下総へでもやって見よ」との御思召に違ひないなどと、勝手な理屈をつけて、あまり手もかけずに、とにかく飼って居いた。すると其の内に、六頭の中二頭が病気で死んでしまった。(昭和二年『明治大帝』400頁)

 


 大連から見て下総は、およそ五度の南に位置する。


 海洋性の気候区分に分類される前者に対して、内陸性の特徴を示す後者の地域。急な環境の激変は、生体に著しい負荷を与える。季節の変わり目に体調を崩しやすいのと同じ原理だ。繊細な管理が必要な時期にその注意を怠れば、当然こう・・もなるだろう。


 むしろよく被害を二頭で止めたと、満州豚の生命力を称讃したい。


 やはり原種に近いぶん、適応力が高いのだろうか?


 が、しかし、この事態を受けてなお、新山以下職員の態度は変わらなかった。「別段惜しいとも思」わないまま、半ば忘れたようになっていた。

 

 

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(新山荘輔)

 


 ところが翌年。常例に従い御差遣の侍従を迎えるに及んで、彼らはそれまでの認識を、一変せねばならなくなった。型通りの歓迎の儀を受けた後、陛下の遣いは口を開いておもむろにこう述べたのだ。


「今日は、昨年御下げになった豚の様子を見て参れとの御思召を蒙って態々参った」


(えっ)


 冷汗背中にどっと溢れた。


 なんと聖上おかみは、あのいきものをお忘れでない。


 お忘れでないどころではなく、殊の外気にかけていらっしゃる御様子ではあるまいか。


 さてこそあの素早さは、興味がなかったからでなく、むしろその逆。有用性を認めたからこそ、一刻も早く繁殖の途を講ぜよと、そういう叡慮であったのだと今こそ知れた。


(まずい)


 そうなると、世話を怠りみすみす二頭を死なせてしまったおのれの立場はどうなるのだろう。


「少なからず恐縮」しつつも、しかしいまさら死骸を揺り起こすわけにもいかず。どうしたって取り返しがつかぬのならばと、新山は却って度胸を据えた。満州豚を前にした、あの日、あの時、あの瞬間の第一印象そのままに、「西洋豚に比べて貧弱なこと、繁殖の価値なきこと、二頭が死亡したことなどを申し上げた」のだ。

 

 

Monument-niiyama-sousuke,narita-city,japan

Wikipediaより、三里塚記念公園に立つ新山荘輔像)

 


 ある種、開き直りに近い。


 使者は殊更に表情を消して帰っていった。


 すると程なく、宮城から再度の使者が。

 


「前に視察した状況、それから貴下の意見も残らず申し上げたところ、陛下の仰せになるには、
『二頭も死んだり、発育もよくない所を見ると下総の牧場は、満州豚の飼育に適しないのかも知れぬ。どこか他所へやって飼はして見てはどうか』
 とのこと。貴下の御考はいかが」(401頁)

 


(なんと、陛下は、それほどまでに。――)


 あれだけ自分が冷評したにも拘らず、なおも満州豚に望みを断っておられぬのか、と。


 その期待の大きさに、改めて瞠目する思いであった。惚れたというなら、よほどの深惚れに違いない。


 そこへ想到した時点でもう、厭です、無理です、出来ませんなどと、そんな弱音は口が裂けてもこぼせなかった。このあたりの感覚は、当時の日本国民ならば誰もが即座に諒解しよう。既に理屈は思慮の外。石に齧りついてでも仕遂げなければと覚悟を決めた。

 

 

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明治神宮・夫婦楠)

 


 そこから先は、研究、研究の毎日である。


 やがて光明が見えてきた。「嘗て私がシベリア鉄道通過の際、満洲豚が到る処に放牧されてあったことを想うて、爾来、一室の中に入れて置くことをせず、全く満洲式に放牧して見た。所がそれがよかったものか、二箇年ばかりの間に、初め四頭のものが段々と繁殖して、百頭に余るやうになった」。(402頁)


 たった四頭だったのが、ほんの二年かそこらの中に二十倍強――。


 この繁殖力も満州豚の特徴であって、昭和三十五年にはいっぺんに二十六頭を出産した途轍もない大物もおり、新聞紙上を彩ったという。


 陛下の満足も一入ひとしおだった。


 それからまた暫く措いて、


満州豚と在来の豚と、どちらが美味か、比較してみよ」


 とのかたじけない御言葉が。


 早速試食会を開いてみると、

 


 満州豚は成程肉量こそ少ないが、在来の西洋豚に比べて、脂が少なく、一寸鶏肉のやうな味がして、遥にうまい。そこで此の由を侍従職を経て申し上げたところ、

「それなら肉をこちらへよこせ」

 と重ねての御沙汰、早速、つぶして差出したが、これは、側近の人々や要路の大官に、それぞれ御分け遊ばされた由に洩れ承ってゐる。

 又或時には「皮をなめして出せ」との御諚もあったが、この革皮で御鞄をお造り遊ばされ、常に御居間に置かせられたと申すことである。

 満洲豚にかくまで御心をかけさせ給うたのは、畢竟、満洲豚の飼育が、若し我が国に適するならば、産業上、殊に農家の副業として最も適当の御思召によることゝと拝察される。然るに私共の浅慮から、この深き大御心のほども弁へず、洵に恐縮に堪へぬことであった。(402~403頁)

 

 

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(下総御料牧場の春)

 


 満州豚は昭和十七年、大東亜戦争の最中に於いても改めて大陸から取り寄せられた。


 来る食糧危機を見越しての、東条英機の指示と云う。


 なにかと戦に縁の深い生物である。

 

 

 

 

 

 

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臨時村会は風呂の中 ―別所温泉武勇伝―


 下町風俗資料館ではこのような展示も行われていた。

 

 

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 五右衛門風呂にはじまって、

 

 

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 銭湯入口の再現と、入浴にまつわる諸々である。


 日本人の風呂好きは、数百年の伝統を持つ。


 なんといっても熱気濛々の湯船の中で村議会を開いてのけた豪傑連まで居たほどだ。筋金入りとしか言いようがない。


 信州上田は別所温泉に語り継がれる巷説である。


 漫画家の安本亮一が伝える。

 


 その昔こゝの村長南条吉左衛門さんは大の風呂好きで家にゐない時は大がい温泉の湯ぶねにひたってゐた。それで何か村に問題が起ると村会議員の面々、村長を訪ねたあげ句が風呂の中で時々、臨時村会が開催された。面々、みなみな裸体で、片手で前をおさへ、片手で髯をひねくりながら、「さりながら本員は……」などとやってゐる図はけだし前代未聞の珍景だったらう。(昭和三年『現代漫画大観7 日本巡り』203頁)

 

 

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別所温泉、昭和初期)

 


 南条吉左衛門が同所の戸長に就任したのは実に明治七年のこと。


 二十二歳の若さであった。


 血の灼熱する時期である。ついつい稚気を抑えかねるのも無理はなかろう。ほんの十年以前まで江戸時代が続いていた頃なだけあり、公務員のこういう態度をとりたてて問題視する向きもなかった。


 救急車がコンビニに立ち寄っただけで発狂同然の抗議が舞い込む現代日本社会とは、まさに隔世の感がある。文明化とは人間が小うるさくなることなのか。そうであって欲しくはないが、さて、どうだろう。

 

 

 

 

 

 

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上野公園探勝記 ―下町風俗資料館を中心に―


 つい先日のことである。


 上野恩賜公園の、下町風俗資料館を訪れた。


 どんな施設か問われれば、返答こたえるに格好の例がある。私が平素愛読している数多の古書。ヤケ・シミ激しいこれらの本が、未だ刊行されて間もない時分――頬ずりしたくなるほどに綺麗な紙面をしていた頃の東都の生活景色を再現・保存したものだ、と。

 

 

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 場所はいい。


 不忍池のほとりに位置する。


 まず景勝の地と呼んで差し支えはないだろう。

 

 

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 蓮は順調に立ち枯れて、これはこれで味わいのある、寂びた情緒を漂わせていた。

 

 

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 風に吹かれてカラカラと、乾いた音が鳴っている。

 

 

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 三百円払って中に入った。

 

 

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 井戸に据え付けられた手押しポンプ


 これとそっくりな物体を、少年時代に実家さとの近くの畑の中に見たものだ。


 今では流石に消えている。以前の帰省で確かめた。赤字に白で「たばこ」と書かれたホーロー看板もまた然り。

 

 

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(在りし日の情景)

 

 

 いつまでも変わらぬと思いきや。甲斐の田舎も、少しずつ変化しているらしい。

 

 

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 商家や駄菓子屋のたたずまいに溜め息をつきつつ奥へと進む。

 

 

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 見切れているが、上の柱時計はなお現役で、正確に時を打っていた。

 

 

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 先の駄菓子屋を裏から望む。


 背中を丸めた婆さんが、いまにも座布団上に湧いて出そうだ。

 


 何処の国でも婆さんは同じやうな婆さんである。婆さんはユニヴァーサルに国境を超越した存在だと思ふ。婆さんに人種はないのである。吉村冬彦著『蒸発皿』49頁)

 

 

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 昔の玩具の展示もあった。

 

 

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 左の二枚の紙メンコを目の当たりにして、私の脳裏に唐突に、小学生の頃の記憶が溢れ出た。思い出したのだ、牛乳瓶の紙の蓋、やはり円形をしたあの物体を、必死こいて蒐集していた自分自身を。


 私だけではない、当時はクラスメイトの大半が同じ趣味を持っていた。集めたところでメンコのように遊びに使えるわけでもないのに、何故あんなにも熱中したのか。我ながら意味不明の心理だが、まあ、人間のやることなど大抵そんなものだろう。

 

 

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 秋広牛乳の配達箱を横に控えた扉の先は、

 

 

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「昭和三〇年代の暮らし」が。


 テレビにラジオ、黒電話といった具合の、当時に於ける「文明の利器」が確認できる。

 

 

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 私が買った古本の、嘗ての所有者一同も、斯様な景色の只中に身を横たえていたのだろうか?


 名状し難く衝き上げてくる何かを感じた。これから先はより一層、書に埋没できそうだ。

 

 

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 せっかく上野まで来たのだからと足を延ばして、東照宮に寄っていく。

 

 

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 雲一つない秋晴れの空。


 静まり返った境内に黄金の伽藍が重きを為して、相も変わらず荘厳である。

 

 

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「大師が弘法の専有なる如く、太閤が秀吉の専有なる如く、権現は家康、即ち東照大権現の専有となれり。今日江戸の遺民、なほ権現様を説く者少なからず。江戸三百年は将軍が支配せりと云ふよりも、寧ろ権現が支配せりと云ふべき也


 大町桂月の洞察は、まったく正しい。

 

 

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 正しいと骨の髄から実感させる、 させて・・・くれる・・・迫力が、ここには確かに漲っている。

 

 

 

 

 


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めくるめく、めくるべく ―続・大南洋の世界観―


 一人前の男になるため、フィジーではどうしても、殺人経験を必要とする。


 妻を娶り、子をもうけ、円満な家庭を築くため、彼らは殺戮の機会を夢見、そのために日々努力した。


 要するに、敵の返り血がそのまま結婚の資格になるわけだ。ドラゴンクエストⅤ』にも、娘と結婚したければこれこれこういう処から秘された宝を見つけ出して持ってこいとのたまう富豪がいただろう。多少殺伐としているだけで、原理に於いてはアレとほぼほぼ同一である。


 危地に踏み入り、闘争をくぐり抜けてこそ、貴重な「何か」が手に入るのだ。

 

 

The Point (Fiji)

Wikipediaより、フィジーのビーチ)

 


 武運つたなく、あるいは性情の惰弱さに甘ったれ、生涯にかけて誰の命も摘んだことのない者は、現世の不遇はもちろんのこと、冥府に於いても卑しめられる。


 生前のありとあらゆる行状が詳らかにされ糾される、閻魔の庁の如き施設がフィジー島の霊界にもある。ムリムリアという名前だそうだ。


 で、ここに引き出された魂のうち、「生前に敵を殺さなかった者は怠惰として棍棒で打たれ、入墨せぬ女は女の幽霊に追はれて貝で引掻かれる」決まりであった。(昭和十八年、太平洋協会編『ソロモン諸島とその附近』430頁)


 アラスカ・インディアン然り、未開人の死後の世界は屡々突飛な様相を呈すが、ここまで奇矯なのも珍しかろう。

 

 

Enma

Wikipediaより、安土桃山時代に描かれた閻魔)

 

 

 ご多分に洩れず、フィジー島にも食人の習慣は存在している。


 存在しているどころではなく、メッカとすら言い得よう。発祥を探れば紀元前まで遡り得る、おそろしく年季の入ったシキタリだった。


 そのためにのみ使われる特別な皿やフォークがあって、しかも父から子へと代々、家宝として受け継がれたというのであるから戦慄抜きには語れまい。


 餌食となるのはやはり大抵、戦の際の捕虜というから、その目的も南洋各所で見られるそれと大差なかろう。


 より強く、より大きく、より永く――前回の記事でも述べたことだが、生命体としての機能向上、力への意志を根底とした行為なだけに、彼らの所業はまだ理解の範疇にある。


 それともこう思うのは、私の感性がだいぶ麻痺してきた所為か?


 まあ、どちらでもいい。


 本当にわけがわからないのは、以下の如き事例を言うのだ。

 


 オーストラリアの土人が隣の種族に属する部隊に攻撃されたとする。彼等の中の一人が目の前で殺される。攻撃した人達の身柄を識別するのに疑を挿む余地はあり得ない。それにも拘らず彼等は恰も加害者を知らないかの如く振舞ひ、加害者を発見するために、占ひに頼る。占ひによって、殺人した種族として第三の種族が決定される。彼等はこの種族を攻撃し、其の中の一人を殺し、真の殺人者には手をつけずに置く。(昭和十六年、シャルル・ブロンデル著『未開人の世界・精神病者の世界』31頁)

 

 

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(オーストラリアの原住民)

 


 自分の両目の機能より、その場に居合わせもしなかった呪術師の舌を信じるのだから堪らない。この人たちの思考回路はどんな調子に組み上げられていたのであろう。


 事あるごとに誘拐され、呪術の贄にされるアルビノ、怪しげな護符の力を信じ、猛獣の群れの真っ只中に身を躍らせる若い衆――。


 二十一世紀の今日でさえ、アフリカあたりでよくある出来事。近代文明の威光を以っても、この種の椿事を根絶しきれぬ、その理由わけが、なんとなく察せられる感じがすまいか。


 まったくなんということだ。地球は広いとしみじみ思う。私の今年の「読書の秋」はこのようにして、眩暈を伴い更けてゆく。

 

 

 

 

 


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力の継承 ―大南洋の世界観―


 街路の落ち葉もずいぶん増えた。


 晩秋の気配はすぐそこだ。太陽はいよいよつるべ落としに、呼気が白く染まる日もほど近かろうと思わせる。


 夏の盛りに買い積んだ、南洋関連書籍の山を崩すにはもってこいの時期だろう。

 

 

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 満を持して取り組んでいる。その御蔭でここ数日来、


 ――なんということだ、こんなことがあっていいのか。


 と、いったい幾度ひとり言ちたかわからない。全く以って、本当に同じ地球上の沙汰事なのか疑いたくなる描写ばかりだ。


 ひとつビルマを例に取ろう。


 彼の地が熱狂的な仏教徒の国であるということは、山田秀蔵絡みの記事で以前に触れた。

 

「家を建てるより仏塔パゴダを建てよ」などという謳い文句が二十世紀初頭に於いてもごくさりげなく通用し、信仰のためには貧富ともに醵金を惜しまぬところから、ビルマ人の塔倒れ」なる俗語さえ邦人間で編まれたと。

 

 

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ビルマの寺院、立ち並ぶ仏塔)

 

 

 言うまでもなく、「京の着倒れ、大阪の食い倒れ、江戸の飲み倒れ」に擬えられたものだろう。


 が、さりとてビルマは広いのだ。

 

 中央から遠く離れた辺土の地では、御仏の光も通用しない、文明以前の野蛮状態が渦巻いている。


 北東の高峻な山岳地帯に棲息する某部族には、戦が済むと競って敵の血を啜らんとする、ある種の血液嗜好としか言いようのない奇習異俗が存在していた。


 その場でいただくばかりではなく、傷口から溢れる血潮を竹筒に汲み、自宅の軒端あたりから吊るしておいて凝固させ、長期に亘って貯えるという工夫さえも行われていた。で、知己友人の訪問があると、これを取り出し自信満々に饗膳に載せ、歓迎の意を示すのである。


 むろん、美味いわけがない。


 しかしいいのだ。味は二の次、三の次。彼らはこのようにすることで、打倒した強敵の力――あるいは勇気――を継承できると信奉していた。

 

 

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 血と魂を直結して考えた未開人は少なくない。否、少なくないどころの騒ぎではなく、古今東西ありとあらゆる民族が一度は経ている通過儀礼ではなかろうか。


 なにせ一定量の血を抜かれれば、どんな屈強な人間だろうと必ず死ぬのだ。となれば思考回路の未発達な時分のはなし、熱く紅いこの滴こそ生命いのちの本質、魂の溶液と短絡的に決めつけるのも無理はなかろう。


ジョジョの奇妙な冒険にも開幕一番あるではないか、「血は生命なり」と。


 自己を拡大したい、生物としてより高みを目指したいという欲求はよほどの深み、それこそ人の基底部分に根ざしていると思われる。


 その願望を充足させるためならば、多少の吐き気がなんであろう。要は経験値とレベルアップの概念だ。彼らは血液の拝領を通して、現実にそれが可能であると信じていたのだ。


 ならやる、やるに決まってる、しない道理が見当たらぬ。

 

 

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 むしろ取り込むモノを血に限っているあたり、ビルマの山岳民族はまだしも理性が効いている。


 赤道直下の生々しさは、到底こんな域でない。


 つまりはこういう景況だ。

 


 人肉食用を行ふに至った動機は、ニューカレドニアでは翼足類、鼠類のほかに獣肉類が無かった為めだと云はれる。勿論飢餓時には之れが強く行はれた。然し野豚が多いニューヘブリート群島にも人肉食用が盛んであるのみならず、アフリカにも之れが行はわれる所から見ると、之れは単に獣肉欠乏の為め計りで無いらしい。(中略)根本的の問題は、アニミズムからの考へで、犠牲者の霊質を取り入れて自分の身を強めんとするのである。此考に相当する談話は住民が往々語って居る。例へば一酋長が戦死者の足を部下に与へた時の言葉に「之れは我等の敵の一片だ。此肉は我等の戦士に強さを与へるものである」。又一酋長の言によれば「私は人肉を食ってから強くなった」。
 一八五〇年にネネマの一酋長は敵の心臓其他を霊に犠牲として捧げて自ら強からんことを祈った後に、水槽に入れて煮て之れを食したといふ。西オーストラリアでも大戦士の脂肪は勇気を与ふるものとして食せられるし、マオリ族も敵の心臓を勇気を増加せしむるものとして食した。中央セレベスにも之れに似た事実がある。(昭和十九年、太平洋協会編『ニューカレドニア・その周囲』113~114頁)


 パク・パク人は個人的の敵を喰ふ事に感興を持ち、且特別の興味を覚える。それだから戦争の時には平素にくんだ者を特別に待伏せして、其敵を後ろから突き殺す。特に恐れられ且悪まれた敵を殺すためには形式的の狩猟を催す程である。誰からでも特殊に怨まれて居る者が喰はれるとなると、隣村の者が金を出すから招待して欲しいと依頼することがあり、其金額は五十~八十ドルに及ぶ事すらある。(昭和十八年、清野謙次著『スマトラ研究』109頁)

 


 深みの聖者エルドリッチの所業さえ、大南洋では日常風景に溶け消える、ごくありきたりな作業のひとつに過ぎないらしい。

 

 

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(エルドリッチの故郷、冷たい谷のイルシール)

 


 いや、かの鬼畜外道は自分の子さえ喰っていた、というよりいっそ喰うために設け育てていたような節さえあるから、南洋に於いても異端だろうか? ああ、私は何を書いている。


 フロムの世界観と張り合える現実が存在するとは、いやはやなんとも恐るべし、だ。

 

 

 

 

 

 

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天皇陛下の御節倹 ―廃物利用の道はあり―


 稚子にせよ、女官にせよ。


 明治大帝の印象を、近侍した多くが「倹素」と答える。


 無用の費えを厭わせ給い、自制の上にも自制を重ね、浮華に流るる軽々しさを毫もお見せになられなかったと。

 

 

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明治天皇御真影

 


 夏の暑さがどれほど過酷であろうとも、


 冬の寒波が如何に熾烈であろうとも、


 それを理由に玉体を大東京から動かすということはなく、むしろ転地を勧める重臣どもを相手どり、

 

 

「お前たちは、わしに避寒をせい、避暑をせいと勧めるが、一寸した出張にも金がかゝって困る困ると言ふではないか。わしが避暑避寒をするとなると、どの位金がかゝるか分からぬ。無駄の費をせずとも、我慢すれば東京に結構居られるよ」

 


 日頃の愚痴を逆手にとっての、それは見事な切り返しを見舞うことさえあったとか。

 


「わしの地方巡幸も大分金がかゝるやうだから、これからは侍従長東本願寺内大臣西本願寺法主にしようと思う。そして二人を地方巡幸の時につれて歩くんだ。さぞお賽銭が上がることだらうなァ」

 


 こんな戯言を披露して、周囲をわっと賑わわせるひょうきんさも備えておられた。


 至尊のみにゆるされる、気宇壮大なジョークであろう。

 

 

Founder's Hall gate of Higashi-Honganji Temple, with water reflection, Kyoto, Japan

Wikipediaより、東本願寺

 


「使えるものは使えるだけ使え」


 みだりに捨てるな、一見廃物だったとしても、角度を変えて眺めてみれば新たな利用の道がある、と。


 まるで草深い田舎の農夫が言うような、そういう訓戒を直に受けた者もいる。


 日野西資博のことである。


 明治十九年、齢十七の砌に出仕し、以来崩御に至るまで二十七年付き従った彼は言う。大帝陛下の近辺はおよそこんな具合であったと。

 


 御机の上の御硯箱は鹿児島産で、竹を二つ割りにして中を黒塗にせられた御麁末なものであるが、御在世中何十年となく御使用遊ばされた。
 御墨の如きは、磨り減らし遊ばされて、手に墨汁のつくまで御用ひになり、御筆も穂先の磨り切れたのを厭はせ給ふ御様子もなく、永く永く御使ひになった。
 各省から奏上する重要書類其の他を御入れになる御座所に在る御箱は、御ワイシャツや御襦袢を入れた白ボールの空箱を御内儀から御持ちになって、御代用遊ばされた。
 御座所の如きも一見何等の御飾りとてなく、御床間に美術画をおかけになる事があるが、それも美術奨励のための御買上品で、御装飾の為ではなかった。(昭和二年『明治大帝』510頁)

 


 この極まった物持ちは、どこか徳川家康を彷彿とする。

 

 

Square of Meiji Palace

Wikipediaより、明治宮殿)

 


 そのころの宮中に「奏上袋」というのがあった。


 各省から提出される書類中、特に陛下直々の御親裁を必要とする重要書類を封入したものであり、透視を防ぐ配慮から、二重構造に誂えてあったものを指す。


 封切られ、役目を終えた奏上袋を、しかし陛下は屑籠へと放らなかった。


 ナイフを更に各辺に入れ、これを解体、無駄なく無理なく展開するを常とした。


 で、露わになったその裏面にすらすらと、筆の穂先を滑らせる。


 和歌をしたためておいでであった。


 明治大帝が御一代に詠まれたる御製たるや膨大で、都合九万三千三十二首にも及ぶとされる。


 その結構な割合が、こうして用済みとなった紙片の上に書きつけられたものだった。


 紙一枚だにおろそかにせぬ、いよいよ家康公に似る。

 

 

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明治天皇御宸筆。

 詠水石契久歌

 さゝれ石のいはほと

 ならんすゑまでも五十

 秋のかはのみつはに

 吾良慈

 と読めばいいのか)

 

 

 歌といえば。――

 

 土井晩翠の歌がある。あの「荒城の月」の作詞者が、明治節を言祝ぐために特に綴った長歌が。

 

 表題からは外れるが、折角なので最後に付記しておくことにする。

 

 

『奉頌』

 

「王宮なほかつ道踏み得べし」
西なる大帝ローマの昔
金冠紫袍きんかんしほうの聖者の言葉。
二千の春秋はなれて遠く
東にあれます 明治天皇
「民罪あらば天津神
われを咎めよ」の大御言おおみこと

あゝ鳶とんで天にいたり
淵には魚の躍る見る、
豈弟がいていの君かくしてぞ
明治の御代を統べたまふ。
かくして東海波のこなた
世界の地図におぼろげの
影のみかすかとどめたる
ピグミイの邦 旭日にめざめ
光芒ひとしく四方よもを射て
燦然として列強の
中、一流の名を得たり。

允文允武 百代の
鑑 今よりふり返り
仰ぎまつるも尊しや、
霜におごらん白菊の
盛りもよしや明治節
西の都に渇仰の
桃山の陵、とこしへに、
月雪花のそれぞれに
流るる風の香は絶えず。

帝領やがて一億の
民数へんも遠からじ、
大和島根の岸よする
あら波あらび狂ふとも
偉霊とこしへるところ
人あに長く迷はんや。
言葉によらず霊により
いましし昔憐みの
高き御心あとくみて
つくせ未来のわかき子ら。
民政つねに尊皇の
大義に叶ひ、平等の
理想四民の幸を
自由の聲を高め行き
愛と平和の光にて
内と外とを照すとき、
明治天皇 在天の
みたまは ほゝゑみましまさん。

 

 

 

 

 

 

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