そのいきものが下総御料牧場にやってきたのは、日露の戦火も未だ熄まぬ、明治三十八年度のことだった。
満州豚、都合六頭。
現今では「幻の豚」と称される希少種中の希少種であり、実食の機会を掴む為にはある程度の手間とカネ、そしてもちろん幸運が要る。
大連に出張していた某大官が、帰朝の際の手土産として特に積み込んだものという。
(Wikipediaより、大連港)
――ほんのお慰みに。
と、報告がてら明治大帝に献上したが、陛下はほとんど右から左の素早さで、六頭ぜんぶを下総御料牧場へと移してしまった。
その素早さを、当時の牧場長である新山荘輔その人は、以下の如くに解釈している。
私達、牧場のものは、西洋種の見事に太った豚を見慣れて居る。其の眼から観ると、御廻しの豚はいかにも見すぼらしく、野獣のやうで、甚だ恐れ入ったことではあるが、実はその姿を見ただけで、これから一生懸命に力を入れて、大いに繁殖させて見ようなどといふ気は起らなかった。
「つまらぬものだが、折角、献上したものであるから、下総へでもやって見よ」との御思召に違ひないなどと、勝手な理屈をつけて、あまり手もかけずに、とにかく飼って居いた。すると其の内に、六頭の中二頭が病気で死んでしまった。(昭和二年『明治大帝』400頁)
大連から見て下総は、およそ五度の南に位置する。
海洋性の気候区分に分類される前者に対して、内陸性の特徴を示す後者の地域。急な環境の激変は、生体に著しい負荷を与える。季節の変わり目に体調を崩しやすいのと同じ原理だ。繊細な管理が必要な時期にその注意を怠れば、当然
むしろよく被害を二頭で止めたと、満州豚の生命力を称讃したい。
やはり
が、しかし、この事態を受けてなお、新山以下職員の態度は変わらなかった。「別段惜しいとも思」わないまま、半ば忘れたようになっていた。
(新山荘輔)
ところが翌年。常例に従い御差遣の侍従を迎えるに及んで、彼らはそれまでの認識を、一変せねばならなくなった。型通りの歓迎の儀を受けた後、陛下の遣いは口を開いておもむろにこう述べたのだ。
「今日は、昨年御下げになった豚の様子を見て参れとの御思召を蒙って態々参った」
(えっ)
冷汗背中にどっと溢れた。
なんと
お忘れでないどころではなく、殊の外気にかけていらっしゃる御様子ではあるまいか。
さてこそあの素早さは、興味がなかったからでなく、むしろその逆。有用性を認めたからこそ、一刻も早く繁殖の途を講ぜよと、そういう叡慮であったのだと今こそ知れた。
(まずい)
そうなると、世話を怠りみすみす二頭を死なせてしまったおのれの立場はどうなるのだろう。
「少なからず恐縮」しつつも、しかしいまさら死骸を揺り起こすわけにもいかず。どうしたって取り返しがつかぬのならばと、新山は却って度胸を据えた。満州豚を前にした、あの日、あの時、あの瞬間の第一印象そのままに、「西洋豚に比べて貧弱なこと、繁殖の価値なきこと、二頭が死亡したことなどを申し上げた」のだ。
ある種、開き直りに近い。
使者は殊更に表情を消して帰っていった。
すると程なく、宮城から再度の使者が。
「前に視察した状況、それから貴下の意見も残らず申し上げたところ、陛下の仰せになるには、
『二頭も死んだり、発育もよくない所を見ると下総の牧場は、満州豚の飼育に適しないのかも知れぬ。どこか他所へやって飼はして見てはどうか』
とのこと。貴下の御考はいかが」(401頁)
(なんと、陛下は、それほどまでに。――)
あれだけ自分が冷評したにも拘らず、なおも満州豚に望みを断っておられぬのか、と。
その期待の大きさに、改めて瞠目する思いであった。惚れたというなら、よほどの深惚れに違いない。
そこへ想到した時点でもう、厭です、無理です、出来ませんなどと、そんな弱音は口が裂けてもこぼせなかった。このあたりの感覚は、当時の日本国民ならば誰もが即座に諒解しよう。既に理屈は思慮の外。石に齧りついてでも仕遂げなければと覚悟を決めた。
(明治神宮・夫婦楠)
そこから先は、研究、研究の毎日である。
やがて光明が見えてきた。「嘗て私がシベリア鉄道通過の際、満洲豚が到る処に放牧されてあったことを想うて、爾来、一室の中に入れて置くことをせず、全く満洲式に放牧して見た。所がそれがよかったものか、二箇年ばかりの間に、初め四頭のものが段々と繁殖して、百頭に余るやうになった」。(402頁)
たった四頭だったのが、ほんの二年かそこらの中に二十倍強――。
この繁殖力も満州豚の特徴であって、昭和三十五年にはいっぺんに二十六頭を出産した途轍もない大物もおり、新聞紙上を彩ったという。
陛下の満足も
それからまた暫く措いて、
「満州豚と在来の豚と、どちらが美味か、比較してみよ」
とのかたじけない御言葉が。
早速試食会を開いてみると、
満州豚は成程肉量こそ少ないが、在来の西洋豚に比べて、脂が少なく、一寸鶏肉のやうな味がして、遥に
「それなら肉をこちらへよこせ」
と重ねての御沙汰、早速、つぶして差出したが、これは、側近の人々や要路の大官に、それぞれ御分け遊ばされた由に洩れ承ってゐる。
又或時には「皮をなめして出せ」との御諚もあったが、この革皮で御鞄をお造り遊ばされ、常に御居間に置かせられたと申すことである。
満洲豚にかくまで御心をかけさせ給うたのは、畢竟、満洲豚の飼育が、若し我が国に適するならば、産業上、殊に農家の副業として最も適当の御思召によることゝと拝察される。然るに私共の浅慮から、この深き大御心のほども弁へず、洵に恐縮に堪へぬことであった。(402~403頁)
(下総御料牧場の春)
満州豚は昭和十七年、大東亜戦争の最中に於いても改めて大陸から取り寄せられた。
来る食糧危機を見越しての、東条英機の指示と云う。
なにかと戦に縁の深い生物である。
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