ビルマで暮して四十年、山田秀蔵はいみじくも言った。
ビルマを理解したいなら、まず宗教を理解せよ。
ラングーンの天を衝いて聳え立つ、黄金の仏塔――シュエダゴン・パゴダが象徴するそのままに。
ビルマは仏教国である。
人々の日常生活は仏教文化と非常に根深く繋がっていて、切り離すことは誰にも出来ない。
(シュエダゴン・パゴダ)
たとえば入道式である。
ビルマの男子は七つか八つの峠に至ると、例外なく僧籍に入るを常とした。この際の典礼がすなわち入道式であり、ビルマ人がその生涯で是非とも通過せねばならない三つの関門――三大式の最初の一に位置付けられた儀式であった。
しかし坊さんになるといってもタイのやうにそのまゝ寺に入って何ヶ月もしくは何ヶ年、坊主の修行をするのではない。入道式が済めば我家に帰って家族と起居を共にする。僧侶になるのは一種の形式に過ぎないが、それにしても人生行路の一時期を画する大切な儀式であって、服装や知人の招待やをできるだけ派手にして、惜気なく多額の費用をかけるのである。(『ビルマ読本』97~98頁)
なお、補足しておくと三大式の残る二つは、結婚式と葬式だ。
国号をミャンマーと改めた現在でさえ、男子はその生涯で二度の出家をするべしと強く推奨されている。紅顔初々しい少年僧の托鉢姿も珍しくなく、その光景を一瞥すれば、仏教国としての面目が些かたりとも薄れていないと、自ずと理解されるであろう。
実際、2014年の国勢調査を参照すれば、国民の87.9%が自己を仏教徒と規定しており、その勢力は圧倒的としかいいようがない。
(入道式の様子)
閑話休題。
視点を山田秀蔵の活躍時代――二十世紀前半にまで差し戻したい。
このころ、ビルマはイギリスの植民地に他ならなかった。
西隣、国境を接するインドもまた同様の境遇に置かれている。
置かれている、どころではない。ビルマを領有したイギリス人は長いこと、この地をインドの一州と看做し、それに相応しく扱い続けた。
当然、民族の混交が起こらねばならない。
高きから低きへ、密なる側から
しかし困ったことにはこのインド人というのは大半が、ヒンドゥー教かイスラム教の敬虔な信徒なのである。
異教徒が群れをなしてやって来るのだ。
その数たるや、ビルマに於ける総人口の7%にも達したという。
雪崩れ込んだといっていい。
軋轢を生ぜねば奇蹟であろう。
現に生じた。
個々人もしくは家族単位の小競り合いならそれこそ日常茶飯事として、態々数えるのも億劫なほど頻発していたものであったが、1938年7月に於ける騒擾は、ついに社会そのものが、轟音と共に一大爆裂を来したが如き観がある。
起爆剤となったのは、イスラム教徒の筆による一冊のパンフレットこそだった。
ビルマ人の仏教に対する絶対の信仰と、僧侶に対する無条件の尊敬とは、いやしくも仏教に対する誹謗を許さない。うっかり誹謗でもしやうものなら、それこそ飛んでもない大事件が持上がることになる。(中略)回教徒の一小学教師が、回教と仏教の比較研究といったやうなパンフレットを刊行した。それには手ひどく仏陀及び仏教を侮蔑し冒涜する文字が綴られてゐた。(174~175頁)
このあたりの下りから、先年世間を騒がせた風刺画事件を連想するのは私だけではないだろう。マクロンをして「フランスには冒涜する権利がある」と言わしめた、アレのことを述べている。
挑発する側、される側を入れ替えて。
よくまあ一ツ調子の演目が、飽きもせず繰り返されるものである。
僧侶の憤激は一通りでなく、約三千人がラングーンのシュエダゴン・パゴダの堂塔に集結して、種々の会議を行った結果、スルテイ市場に向って一大示威運動を起した。この市場にはハシム・カシム・パーテルといふ回教徒の有力商社があり、パーテル商会主は問題のパンフレット出版に金を出したといふ理由から、僧侶及び市民から成る大群集は、パーテル商会を指して猛然と殺到したのである。(175頁)
(とある
僧侶たちに端から闘争の意図があったにせよ、なかったにせよ。人間集団が――それも信仰心という、極めて微妙な、ともすればニトログリセリンより慎重な扱いを要求される部分によって固く結ばれた集団が――こうまで勢いづいてしまった以上、
いくところまでいく。
津波に似ていた。溜め込んだエネルギーを総て吐き出しきるまでは、ぶち当たり、薙ぎ倒しして進み続けるより津波自身術がないのだ。
急を聞いて駈けつけた警官隊は、これを食止めやうとして群衆との間に大衝突が起り、遂には軍隊まで出動して凄惨な戦場そのまゝの光景を現出した。騒擾はラングーンで二週間、マンダレーで一週間続いて漸く鎮静に帰したが、この間相互の死傷者約三千人、物的被害一千万ルピーに上った。
影響は更にインド人のヒンドゥー教徒にも飛び、彼等もまた相当の死傷者を出した。地方における回教徒の商店は片端からビルマ人に襲撃され、一部はマンダレーに集合し、大部分はラングーンの安全地帯に避けて漸く難を免れた。(175~176頁)
仏教とて、寂滅為楽を望むばかりが能でない。
かつて本邦にも一向宗などというものが
(マンダレーの大通り)
この一件でビルマを離れたインド人は数千人。
身の危険を感じつつ、しかし旅費なく途方に暮れる者とて多く、放っておくとまたぞろ血の惨禍を現出せしめかねないゆえに、政府は特に彼らのため、無料の船便を誂えてやったほどである。
そうまでして、やっと事態を収拾したのだ。
まこと、歴史は血で綴られる。
こればかりは東西南北わけ隔てなく、万古不易の哲理であろう。
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