19世紀も残すところ五ヶ月を切った、1900年8月3日。
中国大陸東北地方、黒龍江にて耳を塞ぎたくなる惨事が起きた。
虐殺である。義和団事件の混乱を幸い、この機に乗じて満蒙一帯の支配を盤石ならしめんと画策した帝政ロシアの手によるものだ。
いってしまえば耕運作業の一環で、将来の豊穣を期せんがために、一帯に住む清国人はまさしく雑草を引き抜くような手軽さのもと戮殺された。死体は無造作にアムール川に投げ捨てられて、それが流れを下って行くのを遠方から眺めると、一見筏の群れのようでもあったという。
黒龍江事件として悪名高いこの一件はほどなくして大日本帝国にも伝えられ、官民上下のべつなく、全国民を震撼させた。
(人の世に有り得べき沙汰事か)
後に『荒城の月』の作詞者として日本文化史上にその名を刻む、詩人土井晩翠もまた、衝撃を受けた一人であった。
衝撃どころの騒ぎではない。戦慄のあまり逆にすーっと血が下がり、蒼褪めた白貌を呈するに至った晩翠は、その激情の命ずるがまま、たちどころに一編の詩をしたためた。
兵火のあらび幾度ぞ。
教徒の怒血に燃えて
倒れし犠牲いくばくぞ。
さはれ史上の幾千の
時の記録に見るべきや。
神を崇むる大帝の
六軍の師故なくて、
羊に似たる外邦の
五千の民を屠れるは。
見よ幻を天の中
銀髯輝く一巨人、
無限の光胸に在り、
鮮血のあと足にあり。
「われ東西の文明の
光を一にあはしてき。
露人の罪にわが終
身よかくまでに汚れぬ」と
「誰そや汝は」彼答ふ、
「十九世紀の霊を見よ。」
第二高等学校教授時代の晩翠が詠んだこの歌には、しかしながら事実認識に於いて誤りがある。
犠牲者の数だ。
晩翠は「五千の民」としているが、実際に黒龍江事件で虐殺された清国人の数は二万五千に達している。
五千人と聞いてさえ、ここまでの戦慄を起こした土井晩翠だ。実数を知らされていればどうなっていたか、ちょっと見当がつけられない。
それにしても不思議なのは中国人の心理である。ロシアから手酷く痛めつけられたのは、べつに黒龍江事件が最初でもなければ最後でもない。にも拘らず、遼東半島を平気で譲渡し、遠くロシア本土から鉄道が通されるのを黙って見ていて、その鉄道を伝って盛んにヒトやモノが送り込まれ、中華の大地に「北狄」たるロシア人の街やら要塞やら軍港やらが築かれてゆく情景さえも唯々として受け入れたのは、いったいどういう精神性のあらわれだろう。
日本に対しては些細な事件も針小棒大式に誇張して、謝罪しろ誠意を見せろ金よこせと噛みつくのが常であるのに、このあたりの恨み言を中国がロシアにぶつけた例を、寡聞にして私は知らない。
この不可解さを解きほぐすには、白樺派作家として人道主義的作風で知られた、長與善郎氏の評論に依るのが最適と思う。
支那の排日や抗日は、どうも侮日の方が先らしい(中略)同じ敗けるのならば縁の遠い欧州人に負けたい。隣の小僧に敗ける事だけは業腹だといふ心理は牢として抜けない。見てくれの上では、どう見ても自分達より高等な人種とは見えず、文化の上では自分達が先生であったことはあっても、生徒であったことはないといふ意識だけ胸にあり、その他から教はり学んで進むことをしなかったことが即ち自分達の惨めな今日ある所以であったとは却々反省しない。
この心理が彼等にあるだけでも両国が真に提携してやって行くことは容易ではない。(昭和十四年、『人世観想』129頁)
(Wikipediaより、長與善郎)
氏はまた、別に大陸人気質を評して、
何百年来衰運の降り坂にかかった歴史的勢ひを今更急に挽回して、建て直れるといふものではどうせないので、姑息になるのも無理ない所はあるが、三千年も昔の何千番煎じだか分らないインチキ策謀を以て未だに今の世の中が渡れる積りでゐる。それが馬鹿だ。自分より文化の低い蛮族を、戦争で敗けては人数と文化とで同化して、いつも終局の勝を制してきたといふ歴史だけを恃んで、自分より文化の上の者まで同化して負かせるものと思ってゐる。それが馬鹿だ。前門の虎を防いで、後門の狼にもっと酷どい目に何遍となく遭はされて、未だにその愚を覚ったとも見えない。しかし何よりもこの民族が骨の髄からまじめ、本気といふ気持を失ひきって了ってゐる。誤魔化しと嘘でその場さへ通ればいいと考へてゐる。それが一番済度し難い馬鹿だ。(同上、126頁)
人道主義的作風の長與善郎からここまで馬鹿馬鹿と連呼され、めたくそにこき下ろされるというのは、逆に至難の業であろう。
色々な意味で、凄い国だ。
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