穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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明治神宮参詣記 ―すめらみくによ永遠に―


 明治神宮鮎川義介の愛した社だ。


 総面積七十万平方メートルにも及ぶ、広い広いこの境内を、焦らず、ゆっくり、朝の清澄な大気によって肺を満たしながらゆく。彼の一日はそのようにして幕開ける。昭和三十六年以降、ほとんど毎日繰り返されたことだった。

 


 東、西、南それぞれにある手舎場に、毎月初日取替えて掲示される明治天皇昭憲皇太后両陛下の御製、御歌を読むと、神々しさに祓い浄められて、聖人にでもなれたような気になる。ぐるっと巡ると一時間半位はかかるが、厳寒でも汗ばむ。帰ってシャワーにかかると心身爽快この上もない。(『百味箪笥』14頁)

 

 

 健康にも修養にも、よほど優れた習慣だったに違いない。


 私自身体験したからよくわかる。

 

 

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 つい先日、前回の記事の余勢を駆って参拝したのだ。五円玉を賽銭箱に投じつつ、もったいなくも御行跡の数々を話の種にさせていただき申したと、そのことについて深い感謝の念を捧げた。


 以下、わずかながら点景披露。

 

 

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 ずらりと並んだ葡萄酒の樽


 ブルゴーニュをはじめとし、いずれも一流どころから奉献された品である。


 すぐ隣の説明書きには、明治天皇は断髪、洋装をはじめ、衣食住の様々な分野において西欧文化を積極的に取り入れられました。食文化においても率先して洋食をお召し上がりになり、西洋酒としては特に葡萄酒をお好みになられました」と記されていた。


 八年間近侍した壬生基義――「七卿落ち」で有名な、壬生基修の長男――の回顧によると、大抵陛下は酒に対して「計り知ることが出来ぬほどお強く」、やがて酔いがまわってくると「天地を飲んでしまふやうな、御高笑いを遊ばされた」そうである。


 だからであろうか、御下賜品にも屡々酒があてられたのは。


 伊藤博文もその栄誉に浴した一人であった。例の三国干渉の後、遼東還付条約を取り纏めた労をねぎらう目的で、葡萄酒が贈られているという。

 

 

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 至る処に菊の御紋。

 

 

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 菊花展も開かれている。

 

 

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 尊き色たる紫色の幕の下、多種多彩な菊の花弁がさても網膜に鮮やかだった。

 

 

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 みるからに堅牢な門である。


 そりゃそうだろう、奥にあるのは宝物殿だ。

 

 

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 例のくたびれきった『孫子』七冊も、未だここに保管されているのだろうか? 胸の高鳴りを禁じ得なかった。

 

 

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魚はみな
底に沈みて
もみぢ葉の
うかぶもさむし
庭の池水
(御製)

 


 まだそこまで――魚が底で冬眠するほど――冷え込んでいるわけではないが。


 それでもしっとりとしたこの雰囲気は、なかなか歌に合うものだ。

 

 

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 蒼天に翩翻とひるがえる日章旗ほど、仰いで嬉しきものはない。


 老廃物の混ざりまくった血液が、たちまちのうちに濾過されるような清々しさに包まれた。千年後、二千年後もこの極東の天地には、この旗がはためいていて欲しいと願う。願わずにはいられないのだ。

 

 

 

 

 

 

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大帝陛下の御痛心 ―朝鮮米は砂だらけ―


 明治二十七年十月二十五日、石黒忠悳ただのりに勅が下った。

 

 朝鮮半島へと渡り、戦地各所を巡視して来よとの命である。


 翌日、直ちに広島大本営を出立したと記録にあるから、派遣自体は前々から決まっていたことなのだろう。


 日清戦争の幕が切って落とされてから、既に三ヶ月が経過している。


 黄海海戦の勝利によって制海権は掌握済みだ。安泰そのものな航路をたどって、石黒忠悳は現地入りした。

 

 

Ogata Gekko - Sino-Japanese War- The Japanese Navy Victorious Off Takushan - Google Art Project

Wikipediaより、黄海海戦を描いた浮世絵)

 


 半島内は半島内で、第一軍の獅子奮迅の活躍により、清軍の影はまったく駆逐済みである。


 大本営の重鎮たる石黒を、


 今次戦争の野戦衛生長官を、


 大日本帝国に軍医制度を整えた、草創期の功労者を送り込むには、確かに適したタイミングであったろう。都合一ヶ月を費やして、石黒忠悳はとっくりと視た。彼個人にも日本国にも、収穫の多い旅程であった。

 

 

Ishiguro Tadanori

Wikipediaより、石黒忠悳)

 


 あたりまえの話だが、同じ景色に直面しても、抱く感想は記者や軍人、医者でそれぞれ差異がある。


 片一方に偏した情報を基として突っ走るほど危険な行為も珍しい。見え見えの陥穽わなに引っ掛かり、世間の失笑の的となるのは得てしてそういう場合であった。判断には多角的視点が不可欠である。情報収集の重要性は、他ならぬ明治大帝陛下の愛読せられた孫子にも、特に念入りに記されていることである。

 


…私は、崩御後、明治神宮に参拝し、御遺愛品の中に、美濃紙綴の「孫子」が七冊許り積まれてあるのを拝観して、感激に堪へなかったことがある。黄色の表紙は御手澤おてつやで黒ずんで、本文の美濃紙からはケバが沢山出て、まるで綿のやうに見えた。此の本の御様子から拝察しても、実に何十回となく繰返し御熟読、御翫味になったことが、十分に窺はれる。(昭和二年『明治大帝』85~86頁)

 

 

2018 Meiji Shrine

Wikipediaより、明治神宮社殿遠望)

 


 そういう意味で、石黒の視点は貴重であろう。


 案の定、と言うべきか。


 大本営に帰還して報告を終えた石黒に対し、まず真っ先に陛下が発した質問は、


「めしは朝鮮米か、日本米か、それとも支那米か」


 いまや鴨緑江を押し渡り、満洲にまで展開した陸軍の食糧事情に他ならなかった。


 石黒は、むろん調査している。


平壌に居ります兵は朝鮮米を食べております。義州に居る兵は朝鮮米と、日本米とを混ぜて食べております」


 あるいは何処其処に居る兵は日本米のみを――と。


 時折手帖に視線を落とし、地名と記憶を一致させつつ、ハキハキ答える。


 ここまでは彼の想定通り。が、


「朝鮮米には砂が沢山混って居ると云うことを聞いておるが、その朝鮮米を食べて居る兵は、歯を痛めるとか、腸胃を壊すとかいうことはないか」


(あっ、それは)


 続けざまのこの質問に、石黒忠悳の表情筋は危うく制御を失いかけた。


 なるほど確かに朝鮮米には屡々砂が混入している。


 半島には刈り取った稲を乾かすに稲架を用いる習慣がなく、あったとしてもほんの一部の狭い地域に限られて、大抵の場合は地面にそのまま投げだす程度の粗雑な措置しか施さぬのがまず一つ。


 かてて加えて、脱穀作業もまた同様で、「筵を用いず直接地上に於て刈稲を石又は臼等に打ち付け脱穀せる後僅に天然の風力に依って土砂塵埃を除去し直に之を包装せる」だけであるのがもう一つ。(大正十一年、『中外商業新報』掲載「糧食需給上の安全弁として朝鮮米の真価如何」)

 

 

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(朝鮮の村落)

 


 要するに精米までのあらゆる過程が原始的な野晒し式であるゆえに、朝鮮米は夾雑物が甚だ多く、品質低劣であったのだ。


 まあ、それはいい。


 石黒が不思議だったのは、明治大帝がいったい、いつ、どのようにして、そんな知識を身に着けたかということだ。

 


 其の頃は朝鮮と日本との交通が、今日ほど開けて居らぬから、朝鮮の米が我が国に入って来ることは、まだ甚だ少かった。随って朝鮮の米に砂が混って居るといふやうなことは、米穀商とか私共のやうに職務上食物に関係して居る者の外は、知って居る者の殆どない時代である。それに 陛下は何処で御聞きになったのか、何書なんで御覧になったものか、朝鮮米には砂が混ってゐるといふ御下問である。驚かざるを得ないではないか。(『明治大帝』43頁)

 

 

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(冬の鴨緑江。氷の切り出しが行われている)

 


 戦場暮らしの兵士にとって、食事の出来は極めて重要な案件である。下手をせずとも、士気の高下に直結し得る。これについては、以前の記事でも少しく触れた。


 明治大帝はそのあたりの要諦を、ぬかりなく把握しておられたようだ。『孫子』以下、豊富な読書の賜物だろうか。「英邁」の聞こえも納得である。


 この場に於ける石黒も、同じ感慨に打たれただろう。いや、彼の場合は「再認識」と呼んだ方が適切か。


 だからといって、情動まかせ、心まかせに打ち震えてもいられない。報告は冷静に行われねば。浮き立つような気持ちを抑えて、彼は答えた。

 


「朝鮮で飯を炊きますには、内地の如き米磨桶は用ひませず、くり・・鉢で、米を磨ぎます。そのくり・・鉢の底には、轆轤で渦巻が彫付けてありますから、それに米を入れ、水を入れて磨ぎますと、砂は重い為に、皆渦巻の中に入って了ひますので、米の砂は自然覗かれる事になりますから砂は少しも混りませぬ。それ故に飯に砂は御座いませず、随って之が為に歯を痛めるとか、腸胃をこはすといふ憂はございませぬ。どうぞ御安心遊ばすやう願ひ上げます」(『明治大帝』43~44頁)

 

 

 前述の「糧食需給上の安全弁として朝鮮米の真価如何」にも、朝鮮人は飯を炊く際に一々混石を取り除くのであるが之を容易に除去し得る器物をさえ有するから混石を寧ろ普通の事となし」云々との記載が見える。石黒の報告は、ほぼ正確であったろう。


 それで陛下も、ひとまず得心なされたらしい。龍顔が微かに上下した。その厳かな情景を、石黒はずっと忘れなかった。

 

 

 

 

 

 

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夢路紀行抄 ―八本脚―


 三日前、蜘蛛を始末した。


 壁に張りつき、止まっているのを発見次第、ティッシュを引き抜き、ぱっと突き出し、果たして狙い過たず、圧殺してのけたのだ。


 反射に等しい作業であった。


 残骸を検め、確かに殺ったと安心し、ゴミ袋に叩き込みにゆくすがら、ふと疑念の影が脳裏にきざす。


 ――はて、抹殺がタブーであったのは、朝の蜘蛛と夜の蜘蛛、いったいどちらであったろう?

 

 

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(鹿児島名物、くも合戦

 


 ひょっとして、禁忌を犯したやもしれぬ。何を弱気な、この令和の世の中にとすかさず己を叱りつけたが、ひとたび芽生えた後ろめたさは容易に拭えぬものらしい。


 昨晩、それが夢に出た。


 網戸の向こうにへばりつく、毒々しい八本脚――。


 記憶はそこからはじまっている。タランチュラ、と咄嗟に思った。でかい、ただひたすらにでかい。私の掌、成人男性として誰恥じることなきそれを、更に上回っている。


(冗談だろ)


 猫すら容易に捕食しそうな、こんなとんでもない化け物が、日本で生まれるわけがない。大方どこぞの好事家が海の先より取り寄せて、管理を怠り、脱走させてしまったものだ。


 顔も名前も知らない奴が踏んだドジ、そのツケを、俺が支払わされている。近所迷惑も甚だしいぞふざけるな、生態系を撹乱させる地獄野郎めと思いつく限りの罵詈雑言を心の底で並べつつ、殺虫剤を取りに行く。


 何が相手を刺激するかわからぬ以上、抜き足、差し足で息を殺して、慎重に進まねばならなかった。


 目当てのモノを入手して、再び取って返したとき、既に標的の影はない。

 

 

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「――」


 絶句した。


 心臓が喉仏のあたりまでせり上がって来たかと思った。


 中に侵入はいった? まさか、違う、そんな筈はないだろう。破れ・・動き・・も見当たらぬ、網戸は先刻そのままだ、きっと勝手に離れて去っていったのだろうさ。――


 予測というより、ほとんど祈りに近かった。そして大概、祈りとは、踏み躙られるために存在している。


 果たせるかな、私の瞳は捉えてしまった。本棚と壁の僅かな隙間に、丁度、まさに、隠れんとする毛むくじゃらの節足を――。


 そのあとはもう、狂乱である。


 隙間めがけてひたすらスプレーを噴射するうち、気付けば夢は覚めていた。

 

 

Airsol1

Wikipediaより、殺虫剤)

 


 北枕は不吉、二人箸は下品、めしは二度に分けて盛れ、新しい物を夜におろすな――。


 三つ子の魂百までとはことのことか。幼少期に刷り込まれた禁忌に対する畏怖というのは、まことに根強い。暗示には耐性があると思っていたが、ちょっと自信が揺らいでしまいそうである。

 

 

 

 

 

 

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大工と牢獄 ―江戸時代の奇妙な掟―


 これもまた、みそぎ・はらえの亜種であろうか。


 新たに獄舎を建てるたび、囚人がひとり、牢から消えた。


 江戸時代、将軍家のお膝もとたる関東圏で行われていた風習である。

 

 

Edo P

Wikipediaより、江戸図屏風に見る初期の江戸)

 


 消えた・・・といっても、べつに彼を生き埋めにして火災除けの人柱とし、その上に獄舎を建てたとか、そういう薄暗い類のお話ではない。


 むしろその逆、慶事といっていいだろう。


 彼は解き放たれたのだ。


 罪を赦され、娑婆に還った。よって牢から姿が消えた。ただそれだけの事である。


 恩赦と呼んでいいのだろうか。たかが獄舎の新築程度で大袈裟なと思われるやもしれないが、こうでもしないと大工どもが働かないので仕方ない。


 江戸時代の牢獄が如何に苛酷な、ほとんど地獄と変らぬ場所であったかは、敢えて今更詳述するに及ぶまい。劣悪を極めた衛生環境、牢名主を筆頭とする畸形的権力構造は、囚人を更生させるのではなく、じわじわといたぶり、衰弱死させるための施設と指弾されようと抗弁の余地はないだろう。


 そういう苦悶の坩堝を建てるのは、如何に相手が悪事を犯した不心得者であろうとも、恨みの標的まとにならざるを得ない、因業深い仕事である。斯くの如き発想に基き、大工はこれを厭がった。

 

 

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(『江戸府内 絵本風俗往来』より、職人の作事場急ぎ)

 


「お上」としてはどうにか彼らの心をなだめ、作業に従事させねばならない。


 だからこういう展開になる。

 


 延宝六年(西紀一六七八)前橋で、牢獄が破れたので、その建替を命じたところ、大工共は、大工の作法として、牢屋建直候節咎人一人御免被成候掟にて候とて、牢屋工事を請負ふと同時に、罪人一人の赦免を願ひ出たので、止むを得ず澤村庄右衛門といふ咎人一人を赦免したとのことである。(昭和十二年、山崎佐著『法曹瑣談』230頁)

 


 獄舎ひとつを建てるたび、罪人ひとりを赦免する。


 以って後味の悪さを雪ぎ、大工どもに安心感をくれてやる。


 そういう仕組みが、四代将軍の治世に於いて既に運用されていた。


 民意の汲み取り、なんと鮮やかな手並みであろう。


 てやんでえバーローちくしょうめェ、臆病風に吹かれたか、いいからさっさと尻を上げろやコンニャク玉ども、怨霊こわさに公儀の御用を袖にして、タダで済むとは思うなよ――と。


 感情まかせで高圧的に臨まぬあたり、人文の進歩が実感される。

 

 

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フリーゲーム『東方ライブアライブ』より)

 


 なお、蛇足を承知で触れておくと――。


 江戸から現代、数世紀の時を経ようと一貫して変わらない、牢屋社会の通則がある。


「性犯罪者は見下される」、「ヒエラルキーの最底辺に組み込まれる」が即ちそれ・・だ。

 


 武士道を重んじた幕府時代にては、不義、敗倫を最も憎み、且つ卑しみたる思想が、一般庶民にまで伝はって、同じ犯罪者の中にても、姦罪者をば殊の外侮蔑したものである。例へば姦通罪にて入牢せる者は、他の犯罪者から、いたくさげすまれたるが如きこれである。牢内にて巾を利かす者は、何といっても強盗殺人の如き大罪人で、さういふ者は却って他の囚人より尊敬せられて、威張って居る。(昭和七年、海老名靖著『性的犯罪考』230頁)


 或る強盗殺人の牢名主の懺悔した話に、俺は強盗殺人で、背負ひ切れぬほど罪を重ねて居るが、人の女房を盗んだことと、女を辱めたことだけはない。これがせめてもの、俺が閻魔の庁に引き出されても恥ずかしいことはないと、言ったやらといふことが、或る本にあるが、全くそれの如く、姦通や強姦などは、肩身が狭かったのである。(283~284頁)

 

 

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 人の女に手を出すなかれ。重ねて四つを逃れても、ロクな未来が待ってない。


 くわばら、くわばら。

 

 

 

 

 

 

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答志島の鳥 ―雉についての四方山話―


 は麓の鳥である。


 人里近くの藪や林に身を潜め、田畠を窺い、隙あらば農家の手掛けた耕作物をいけしゃあしゃあと啄みに来る。


 皇居の森や赤坂御所、陸軍戸山学校、それに近衛騎兵聯隊駐屯地――空襲で焼け野原になるまでは、大東京のど真ん中でもこのあたりの地域に於いて雉をふんだんに見かけたそうだ。

 

 

Phasianus versicolor Couple

Wikipediaより、草をついばむ雉のつがい)

 


 就中、皇居の雉に至っては、「春になるとよく三宅坂に面した土手の芝生の上に出て遊んでいるのを見受け」たそうで、もはや一種の風物詩と化していたげな観がある。(昭和七年、大場弥平著『狩猟』4頁)


 犬、猿と並んで桃太郎が鬼退治に同行している点からも、人との距離感、そのほど近さが察せよう。


 接触の機会が多ければ、想像を拡げる余地も増す。


 事実、このいきものを題材にした口碑・巷説の類というのは数多い。


 鳥羽市の対岸、伊勢湾最大の島嶼たる答志島もまた、その種の噺の舞台となった土地だった。

 

 

Tōshijima

Wikipediaより、答志島遠景)

 


 本来麓で活動するはずの雉どもが、ここでは人も通わぬ山奥に引っ込んでしまっていたそうだ。


 猟師の犬と鉄砲に狩られまくったのが原因である。


 毎日毎日、雷鳴の如き轟音と共に同種がばたばた死んだなら、容量の小ささに定評のある鳥頭とて、多少は学習するらしい。危険地帯を判別し、命惜しさに人影を避け、挙句の果てには深山の奥に閉じ籠ったまま姿を隠すようになる。


 一種の難民といっていい。


 実際問題、難民が雪崩れ込んだ地帯に於いて屡々起こる現象が、答志島の噺の主軸であるのだ。


 その現象とは? 回りくどい表現はやめ、直截にいこう。


 混血である。


 ――ここの山にはそのむかし、雉と山鳥の雑種が棲んでいたという。

 

 大きさは雉の半分程度、毛色は両種の特徴が、ほぼ五分五分で入り混じったモノ。「山の高さがあまり高くないので麓を追はれた雉は山鳥の居る上の方に常住するやうになったのと、も一つは孤島で田畑が極めて稀少である為めに、彼等に必要な水と餌を求むる個所が比較的局限せられている。このやうな種々な関係から雑居状態が起りそれが進展して愛の結晶が出来たのではないか」と、狩猟家にして陸軍少将、大場弥平は推察している。(6頁)

 

 

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満洲に於ける雉の豊猟)

 


 雉と山鳥、生物学上の分類は、前者がキジ科キジ属で、後者がキジ科ヤマドリ属。


 属レベルで異なる相手同士だと正常な交配は至難というが、分母が増せば「例外」もまた発生し易くなるだろう。可能性はありそうだ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、やはり数は力である。

 

 

 

 

 

 

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薩人詩歌私的撰集 ―飲んでしばらく寝るがよい―


 鹿児島弁は複雑怪奇。薩摩に一歩入るなり、周囲を飛び交う言葉の意味がなんだかさっぱりわからなくなる。これは何も本州人のみならず、同じ九州圏内に属する者とて等しく味わう衝撃らしい。


 京都帝国大学で文学博士の学位を授かり、地理にまつわる数多の著書を執筆もした、いわばこの道ひとかど・・・・の権威、藤田元春は嘗て語った。「北九州は長崎、佐賀、福岡、熊本それぞれ方言をもつけれども、大体からいへば一系統であって、大分県の宇佐及び日田盆地に及び、殆ど共通した正しい言語を用ひる。しかし九州山系を超えると全く一変して鹿児島、宮崎を通じて薩摩方言にかはる。地形と方言のこれ程明瞭なことは他に例が少ないと。


 斯様に特殊な鹿児島弁を素材に含む詩歌の類が、だいぶ溜まった。

 

 例によって例の如く、一挙に紹介したいと思う。


 しばしの間、お付き合いいただければありがたい。

 

 

Kyoto Imperial University-old1

Wikipediaより、京都帝国大学

 

 

やっさ飛べ飛べ、白歯のうちに
白歯そむれば、飛ばならぬ

おけさ働けでねん来年の春にゃ
殿じょ持たせる、よかニセを

歌の数々一万五千
恋のまじらぬ歌もなか

 


 とはいえ、いきなり暗号めいた代物をぶつけるのもどうであろう。


 最初はなるたけ癖の小さい、解説不要で意味の通ずる都々逸三首を撰んでみた。

 

 

ゆうて喧嘩の種まくよりも
いわじ時節をまつがよい

腹が立つときゃ茶碗で酒を
飲んでしばらく寝るがよい

 

 

 議を言うな、理屈を捏ねるな、薄みっともない。それでも男か、慎みを持て。――「恥」に関する精神風土をよく顕した二首である。

 

 

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鹿児島市天文館通りの風景)

 

 

おはんばっかにゃなんぎはさせぬ
なんぎすんなら、ともなんぎ

苦労しゃんすな、わずかなしゃばで
好いたことならするがよい

 


 いよいよらしく・・・なって来た。


 ここから更に濃度を上げる。

 

 

いね売いにゃ
さむれもよけっ
通っつろ

いね売いと
半んぱけんかで
値切っちょる

 


 稲売りを題材にした歌らしい。


「さむれ」とは「侍」のことを指すのだろうか。だとすれば大層な意気である。


 水はけの良すぎるシラス台地が大半を占める薩摩では、長年米作りが不振であった。


 なればこそ、不利な条件をかいくぐり、辛うじて収穫された稲穂には、冴え冴えとした日本刀の輝きをも上回る、抜群の威光が宿ったのか。よくわからない。まあ、百姓の鼻息の荒さは江戸時代、どこもかしこも同様だったが。

 

 

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しょうちゅうは
千べ飲めうが
までわかせ
下戸の建てたる
蔵はない

 


 酒席で好んで歌われたとか。


「までわかせ」が不明だが、大体の雰囲気は察せよう。

 


 凡そ薩摩程多く酒を飲む国はなし、彼地にては家々毎夜「おだいやめ」と称へ晩酌を為す、家族も皆主人の相手として一二盃を傾く、随て婦人小児にても相応に酒を飲むもの多し

 


 と、『薩摩見聞記』に記された通り、薩人の酒好きは有名である。


 胃の腑の底が爛れきってぶち抜けるまで呑みまくると専らの噂だ。

 

 

しわよせは
年中ゅ亭主ん
焼酎ン代
 
峠ン茶屋
おかべと焼酎で
うたわせッ

涼ン台
焼酎臭せ婆イ
腰す上げッ

ちょっしもた
カカがやイでた
焼酎なんこ
 


 酒にまつわる方言歌の多さをみても、まんざら評判倒れでないらしいのが窺える。

 

 

 

 

 

 

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アイスランドの温泉利用 ―森なき土地の人々は―


 エネルギーの空費ほど人情に反した、許され難き行為というのもないだろう。


 自然のより効率的な利用方法。限りある資源から能うる限り最大の利益を引き出してこそ「万物の霊長」、知性体の面目躍如といっていい。


 そのための努力の痕跡は、世界各国いたるところに残されている。


 たとえば地熱だ。


 昭和初頭の鹿児島県では、温泉の熱を用いての製塩事業が行われていた。


 ほとんど同時期、ユーラシア大陸を挟んだ向こう、アイスランドにあってはこれを、主に洗濯に活用していた。

 

 

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「炎と氷の島」などという異名が示すそのままに、アイスランド火山活動の極めて旺盛な土地である。定期的に噴き出す熔岩、有毒なガス。夏でもせいぜい10℃余りがいいとこの平均気温と相俟って、彼の地にあっては森林らしい森林をろくに見かけることがない。


 旅行者の言を借りるなら、「樹木は精々一丈ぐらゐの灌木だけで、森といっても馬が通れば頭のかくれぬ藪ばかり、他は概ね草原か、熔岩流のそのまゝ裸出したところで、その草地にも羊が放牧されてゐるので、芝生の刈跡見たやうで」あったということである。(『世界地理風俗体系 北極地方』276頁)


 まず以って、「荒涼」の二文字が頭に浮かぶ。


 げに恐るべき荒涼だった。


 森林がないということは、すなわち薪――暖をとるための燃料の、一大不足に直結している。石炭も乏しい。輸入品で賄おうにも、当時はまだまだ交通網が未発達もいいとこで、内地の隅々に至るまでこれを安定して供給するなど、はっきり夢物語に属す。


 頼みの綱は泥炭、湿地帯を探せばふんだんに見つかるこの軟らかな堆積物に他ならなかった。

 

 

Fireplace with Peat

Wikipediaより、泥炭と暖炉)

 


 生命線であるだけに、「泥炭地は、大抵町村の共有で、その一部には大きな所蔵庫を設け、部落のものはそれぞれ一定の金を出して、これを掘っては乾かして後、倉庫に貯蔵して置く」との措置がとられた。(同上)


「一定の金」を出せないほどに困窮している人々は、インドの一部地方の住民みたく、羊の糞を乾かして燃料とした。

 

 

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(泥炭の集積地)

 


 こういう環境に置かれた者が、地の底よりほとんど無尽蔵に迸出する熱――温泉に目をつけるのは、必然の道理といってよかろう。前述の通り、活発な火山活動の恩恵で、温泉はアイスランドじゅう何処にでも湧く。『世界地理風俗体系 北極地方』が世に著された昭和六年時点では、大小合わせて七百が存在していたそうである。

 


レイキャビクの市内にはこの温泉を利用してゐる市営の洗濯所までがある。汚れた着物はここで洗って建物の中に乾かして置く。誠に便利な設備である。けれどももっと贅沢になると家庭へまでこの温泉を引いてそこで着物や食器の洗濯に使ってゐる。(275頁)

 

 

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(温泉を用いた洗濯所)

 


「寒さは工夫を通してより賢い人間をつくる」


 さる高名な極地探検家の箴言である。


 その実例を目の当たりにするようで、これはなかなか快い。

 

 

 

 

 


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