既に幾度か取り沙汰した『修養全集 11 処世常識宝典』は、流石に昭和というあの時代に編まれた修養本なだけあって、倹約を奨励する記述が至る所で目に入る。
それは単に理論をもてあそぶのみでなく、
薪などは薪と薪との間を適当に空かせて、火力が鍋や釜の底に一面に当る様にすれば、五本で沸騰するものが三本で同様の結果を得ます。大阪では女中の手腕が二本薪、三本薪、五本薪といはれて給料までが区別されてゐるさうです。然るに一般には猿くべと申して徒に薪を多く投込む癖がある。(13頁)
このように実例を交えて語られることも珍しくない。
――その「実例」のうちの一つに。
三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎の逸話がさりげなく紛れ込んでいた。
故三菱会社社長岩崎弥太郎は、会社の用紙を無駄に使った一社員を叱りつけて、「一枚の紙といふかも知れないが、さうした使ひ方をするのは怪しからん、塵積って山となるの譬へもある。人間は太っ腹であると同時に小事と
気に入らなければ誰彼構わず喧嘩を吹っかけ、相手の息が停止するまで悪口を発射し続ける、手の着けられない乱暴者の弥太郎が、齢を重ねたとはいえこんな分別がましいことを口にするとはほとんど信じ難い思いがする。
が、それにもまして私の脳裏にはためいたのは、東照大権現神君徳川家康公の晩年の逸話に他ならなかった。
家康公もまた、ふとしたことから風にさらわれた懐紙を追いかけ、庭まで下りてこれを回収したそうである。しかもその一部始終を目撃し、思わず失笑した小姓に対して、
「その方らは笑うかもしれないが、わしはこれで天下を取ったのだ」
と言い返したとか。
徳川家康と岩崎弥太郎。一見何の関連性もなさそうだが、この二人の精神の底にはよく似た波長が流れていたようである。
せっかく家康について触れたのだ。
私が個人的に日本史上最大の英雄と信奉している彼について、もう少しばかり語りたい。
――おれは家康を尊敬している。
そう言うと、多くの人が怪訝そうな顔をする。『真田丸』の放映以後はよりその傾向が顕著になったようだ。
由来、信長や秀吉に引き比べ、家康は世間の人気を向けられ難いというのがまず一般的な理解だが、私はこれに軽々に頷くことは出来ない。
というのも、昭和五年に刊行された下村海南の随筆集、『飴ん棒』の語るところを信ずるならば、小石川の旧水戸藩邸跡に建設された東京砲兵工廠では四月十七日が訪れると、職工たちは
「権現様の日が来た」
と口々に言い、一斉に仕事を休むシキタリだったそうなのである。
彼らは皆、家康の命日に当たるこの日に仕事をした場合、決まって誰かしら大怪我を追うとごく自然に信じていた。
陸軍もこれには手を焼いて、なだめ、すかし、時には脅し、八方手を尽して迷信の打破に努めたが、ついに如何とも為し能わず、不承不承休日と認めたといういわくつき。関東でこの種の所謂「祟り」を為すのは平将門の専売特許と思いきや、家康公も一枚噛んでおられたとは、全く以って意外の至りだ。
――ここまで書いて気が付いた。私は家康公が江戸の民草から敬意を以って仰がれていたという実例を示したかったのだが、これは果たしてそういう方向性の話だろうか?
まあ、日本に於いて神とは祟るものである。
細かいことは気にせずに、話を進めることにしよう。
しばらくの間、「権現様の日」の権威は誰にも脅かされることなく平和な時が続いたが、ある年どうしてもこの四月十七日に職工どもを動員せねばならない事態が生じてしまった。
忝くも久邇宮殿下が、ここ東京砲兵工廠で戦車の無線操縦を御覧に入れることになったのである。このときばかりは職工連も、「権現様の日」を冒すことを余儀なくされた。――主に陸軍軍人たちが、下手なことを言おうものなら首に縄をつけてでも職場へ引き摺って行きかねない気勢を示したために。
ところがいざ実演の日が訪れて、「舞台裏」で最終チェックを行ってみると、こはいかに。昨日まであれほど調子のよかった戦車がにわかに一転、ピクリとも動いてくれぬではないか。
蒼白になる永山少佐以下陸軍人に対し、「それみたことか」と意地の悪い視線を投げつけるのは休日に駆り出された職工一同。「権現様の日」だ、戦車が祟りに遭ったのだ。……
御覧に入れる時間は刻々切迫する、一同気が気でない。その内永山少佐が発振機のバルブを取替へるとナーンのことだ、タンクはガタンゴトンと勢ひよく動き出す。やっと愁眉を開いた一同「権現様も科学の力には負けたネ」……(『飴ん棒』10頁)
なんともはや、上手くオチがついたではないか。久能山に眠る家康も、この光景には思わず苦笑しただろう。
東京砲兵工廠跡地は、現在後楽園や東京ドームなどのレジャー施設が立ち並び、連日無数の人でにぎわっている。
むろん、四月十七日に職員が一斉に仕事を休むこともない。
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