その日、1616年9月1日。
アダムスはリチャード・コックスを伴って登城した。
家康の名の下に許可されていた英国の様々な特権を、新たな「天下様」である秀忠の治下に於いても保証してもらわんがためである。
言うなれば、契約の更新だった。
無事秀忠に拝謁することは叶ったが、手応えの方がどうもおかしい。
かつて家康が示したような上機嫌な応対ぶりが、その息子たる秀忠からはとんと感ぜられないのである。始終、無機質な事務的対応しか得られなかった。
(これはいかぬ)
両人はもうこの時点で、前途にたちこめる暗雲の存在に気付いたという。
翌日以降、英国商館の名義で要路の大官に屡々贈物が届けられた。
アダムスなどは朝夕欠かさず登城して頻りに特許状の下附を促したものの、衆議はひたすらに遅滞して、一向はかばかしい反応というものが返ってこない。
漸く回答を得られたのは、9月も下旬にさしかかった、23日のことだった。然るにその書状には、
自伊祇利須到日本国渡海商舶、於平戸可売買、他所不許之、
イギリス船は平戸に於いてのみ売買のことを致すべし、他所に於いてはこれを許さず――。
従来の特権を剥奪する文意であった。
むろん、治外法権など夢のまた夢。
イギリスは一夜にして、他の南蛮国と同程度の水準にまで待遇を引き下げられたのである。
(Wikipediaより、2008年の平戸港)
(なんということだ)
日本の土を踏んで以来、これほどの衝撃を受けたことはアダムスに於いて嘗てない。
霹靂に打ち据えられた方が、まだしもマシであったろう。
(世が変わった)
そう観念する以外ない。
家康公が永眠し、二代秀忠とその周辺の家臣団――土井利勝や酒井忠世といったような――が天下の仕置を担うようになった瞬間から、幕府の対外政策は既に一変していたのだ。
アダムスの威権、如何に華やかなりしと雖も、その源泉はあくまで家康一人にのみ尽きていて、秀忠との結びつきは至って薄い。
彼にはもう、大勢を挽回する力は残っていない。早い話が、魔法が解けた。
話がやや脇道に逸れるが、この構図はなんとなく、オットー・フォン・ビスマルクの晩年のそれを彷彿とさせる。
おそらくはドイツ史上最も偉大な政治家であった、眼光の鋭すぎるこの人物は、しかし批判を被ることもまた甚大で、議会・新聞・国民のほぼ総てから蛇蝎の如く嫌われていた。
「古今東西を通じて、政治家たるの覚悟は満天下の冷罵と闘うことの一事である」
という格言は、そうした背景に依るものだ。
にも拘らず彼が25年間にも亘って首相の地位を占め続け、ドイツ統一のため大働きに働けたのは、ひとえに皇帝ヴィルヘルム一世からの信任厚かりし故に他ならない。
あるとき議会で発言の停止を議長から求められたにも拘らず、
「余は、国王陛下以外の何人の命をも奉ぜず」
と舌鋒鋭く切り返し、シャアシャアと発言を続けてのけたあたり、ビスマルク自身、このあたりのカラクリをよく理解していたのだろう。
よって、皇帝に先立たれた以後の彼の凋落は必然だった。
悲愴だが、権力機構の内部ではこういうことがよく起こる。
(Wikipediaより、「ヴィルヘルム一世とビスマルクのカリカチュア」)
家康没後のウィリアム・アダムスの一身上に起こったことも、そうした普遍的現象の例の一つに数えてよいのではなかろうか。
これは自然の勢に等しく、人力で覆すことなど夢にも及ばぬ。
――どうやら、おれの時代は終わったようだ。
諦観し、表舞台より去るほか無いのだ。
しかしアダムスは諦めきれなかった。伝手という伝手に片っ端から
今回の急な冷遇を、キリシタンに対する恐怖と猜疑が原因であるとアダムスが看做した証拠であろう。その観測は、確かに真実の一端を穿ってはいた。
が、時すでに遅し。
アダムスの奔走は無益に終わった。
幕府の決定は牢固として揺るがず、江戸・駿府・浦賀・京都・大坂・堺にそれぞれ開かれ、漸く機能しだしたばかりの支店及び代理店は、悉く閉鎖の憂き目に遭った。
蜜月関係は断たれたのである。以後、幕府はひたすらに外への門戸を閉す方向へと傾斜してゆき、三代家光の治下に於いて完成を見る。
一般に鎖国の名で知られる、この光景を目にしていちばん驚くのは案外徳川家康その人ではなかろうか。
少なくとも権現様の思惑は、海外交通を繁くして、日本列島を世界的な交易路に組み込まんとするところにあったのは紛れもないのだ。一般にイメージされているような、ただひたすらに事なかれを願うばかりの守旧主義者では断じてない。
(日光東照宮陽明門)
ウィリアム・アダムスは失意のまま、1620年5月16日に死ぬ。
享年五十五歳。
場所は、平戸であったらしい。
それからおよそ十八ヶ月の1621年12月9日、彼の形見である大小を、江戸に於いて息子ジョゼフが受け取っている。
渡したのはリチャード・コックス。
アダムスの遺言に従ってのことだった。
このジョゼフは父の遺領二百五十石をも継承し、そのまま母お雪・妹スザンナ共々江戸に住み、寛永九年(1632年)ごろまで父の遺臣を引き連れて海外貿易に従事していた形跡があるが、その後のことはわかっていない。
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