穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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徳川幕府と大英帝国 ―中編―

 

 ウィリアム・アダムスの介添えにより、ジョン・セーリスの対日交渉は彼自身信じかねるほどうまく運んだ。
 そのあたりの消息を、略譜風に述べてみたい。

 

 

1613年

 

1月某日、セーリス、バンタムを出航。


6月11日平戸へ到着。平戸領主松浦法印鎮信、江戸に急報。同時にセーリスからの要求を容れ、彼らに家屋をし与える。


7月29日、ウィリアム・アダムスが平戸に到着。セーリスと対面。セーリス、平戸にリチャード・コックス以下適当な人員を留め、自身はアダムスと共に東上。


9月8日、セーリス、駿府にて家康に謁見。ジェームズ一世の国書を提出。アダムス、これを日本語に翻訳。家康、セーリスと頗る機嫌よく応対す。


9月19日、江戸に於いて将軍秀忠に謁見

 


 この後再び駿府に戻ると、家康の謀臣本田正純答書通商許可の朱印状を既に用意して待っていた。むろん、どちらの書類も名義は家康のものである。

 

 

Dutch-Japanese trading pass 1609

 (Wikipediaより、朱印状)

 


 この朱印状の内容は驚愕に値するもので、特に注目すべき部分を抜粋すると、

 


一、いきりすより日本へ、今度初而渡海之船、萬商売方之儀、無相違可仕候。渡海仕付而ハ、諸役可令免許事、(イギリス商船渡海貿易免許並びに諸役免許、すなわち関税なしの自由貿易の許可


一、日本之内、何之湊へ成共、着岸不可有相違、若難風逢、帆楫絶、何之浦々へ寄候共、異儀有之間敷事、日本国内全港の使用許可


一、於江戸望之所ニ、屋敷可遣之間、家を立、致居住、商売可仕候、帰国之義ハ何時に而も、いきりす人可任心中、付、立置候家ハ、いきりす人可為儘事、江戸に居宅商館を構えることの許可。なお、帰国したければいつでも自由にそうしていいし、建てた家の処分も自由)


一、いきりす人之内、従者於有之者、依罪軽重、いきりすの大将次第可申付事、(イギリス人の罪人は英人長官の処置に任す、すなわち治外法権の許可

 


 およそこんなところだろうか。


 断っておくが、これは幕末、アメリカとの間に結ばれた条約ではない。


 蒸気船で浦賀に乗りつけたわけでも、砲を以って恫喝したわけでもなく、万事平和的な交渉のみで、イギリスはこれほどの特権を手に入れた。

 

 

Визит Перри в 1854 году

 (Wikipediaより、黒船来航)

 


 私の知る限り、家康からこれほどの厚遇を受けた国はイギリス以外に存在しない。スペイン、ポルトガルに対しては勿論のこと、オランダに対してすら開港地は厳しく限定されていたのだ。


 それがイギリスに限ってのみ、どの港を使うも自由――。


 破格といえた。
 セーリスの使命は、完全に果たされたといっていい。


 ここまでの大成功を収めてのけた もとだね・・・・は、セーリスの尽力もさることながら、やはりウィリアム・アダムスあってのことに相違ない。


 家康がアダムスに向ける信頼は、このころ既に確固として揺るぎないものになっていた。


 後にリチャード・コックスが本国へ宛てた手紙の中にもそれが特筆大書され、

 


「彼は実に世界のこちら側に於いて、キリスト教徒がかつて受けたことなき寵遇を、日本の皇帝(家康のこと)から受けている。日本の諸王(大名を指す)が其処に立ち入るを許されざる時にも、彼は自由に参内して、皇帝と話をすることが可能であった」

 


 権勢のほどが窺える。


 このような人物を協力者として現地政権内に有していたなら、そりゃあ話が纏まるのも早かろう。今も昔も、コネの力は強大だ。


 上記の特権を存分に活かし、イギリスは日本国内に次々と商館乃至その支店を開いていった。


 大坂の陣で城を砲撃、淀君の秀麗な面上から血の気をひかせた大砲も、やはりイギリス由来の品である。

 

 

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 二つの島国は、蜜月関係で結ばれていた。

 この幸福を現出させたアダムスに、イギリス人は大いに感謝していいだろう。功労者として、福の神よろしく讃えるべきだ。


 ところが世の中とは理屈通りに動かぬもので、当時の英国人でそのような見方をした者は、極めて稀な部類に属した。多くはアダムスをして、


 ――あいつは日本に帰化した男だ。だから本国人である我々を、三番手以下にしか考えぬ。なんともけしからぬ奴ではないか。


 そのような具合に白眼視し、何かの拍子にアダムスが日本を称賛するようなことを口走れば、いよいよ猜疑の念を強くした。


 これは恩恵を蒙ること第一のはずのセーリスに於いてすら例外でなく、彼の紀行文をのぞいてみると、至る所にアダムスに対する悪口不満が発見できる。


 七つの海に雄飛するイギリス人の心中にさえ、斯くも土俗的な民族意識というものが根深く巣喰い、決して拭い去れはしなかったのだ。人間性とはままならぬもの。現実は、なかなか理想家の注文通りに運ばない。働きに見合った評価など、滅多に下されるものではないだろう。


 そこを行くとウィリアム・アダムスなどは、徳川家康という絶好の理解者を上司に戴き、のびのびと仕事が出来たあたり、まだしも幸運な方だった。


 そして、ああ、はたせるかな。日本と英国のこの親善さえ、ひとえにこの老いた覇王の腕力により支えられているものだったとは。

 


 両国の関係は、実に1616年9月を以って一変することになる。


 家康公が駿府で没し、東照大権現として神の位に昇ってから、わずか5ヶ月後のことだった。

 

 

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