ここはひとつ、彼と併せて語られることの多いアメリカ合衆国の鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンについても語らねば、なにやら勿体ないような感じがする。
ゆえに、書こう。
(Wikipediaより、ハリマン)
フロンティアスピリットの権化めいた人格の持ち主であるハリマンは、かねてより極東に熱視線を向けていた。
まず日本から南満州鉄道会社の管理権を得、ついでロシアから東清鉄道を買収し、それからシベリア鉄道を経由して、やがてはバルト海に面するリバウ港まで到達する。
この連絡がついたなら、今度はリバウ港及び大連港と、ユーラシア大陸の両端からそれぞれ大西洋・太平洋を横断する汽船路を用意し、ついには合衆国本土に於ける自分の鉄道網に連絡せしめ、以って地球をぐるりと一周する、まことに雄大な交通路計画実現に胸を焦がしていたからである。
日露戦争の際、日本が公債をニューヨークに求めるや、たちどころに五百万ドルを引き受けたのもそれゆえだ。下準備の一環であり、ハリマンは戦争が終わってからにわかに集まってきたハイエナではない。
よって、1905年8月。
駐日米国大使ロイド・グリスカムの熱心な招聘に応じる形で日本を訪れたハリマンは、計画の前途に至極明るい見通しを立てていた。
自分は日本国の勝利に大きく寄与した恩人である。その恩人に、まさか粗略な扱いはすまい。
おまけにグリスカムの伝えるところに依れば、日本の廟議は南満州鉄道に対して夥しく消極的というではないか。
この観測は正確だった。伊藤にしろ桂にしろ井上にしろ、当節日本を動かしていた首脳陣の念慮するところの第一は、ロシア帝国の一大復讐に他ならない。
確かに日本は勝利した。陸に海に連戦連勝を重ね、その度に国民は快哉を上げた。
が、こちらの快はあちらの屈辱。
日本が得意になればなるほど、ロシアはおのれこのままでおくべきかと憎悪の炎を猛り狂わせ、その火で以って爪を研ぐ。やがては復讐戦を企むに至り、第二次日露戦争が勃発するだろうということは、軍も政府も、等しく観測を一にするところであった。
――今度はロシアが臥薪嘗胆をやる番だ。
この恐怖感情の痛烈さは、当時の日本人士になってみなければわからない。
実際に満洲の大地でロシア軍と殺し殺されを経験した、原田政右衛門大尉などは、戦後『遺恨十年 日露未来戦』なる一書を著し、平和ボケした大日本帝国が準備万端の帝政ロシアに蹂躙され尽くす光景をこれでもかと描き出し、ついには制圧下に置かれた本土に於いて人権人権と騒ぎ立てる市民に向かい、占領軍たるロシア人兵士の口から、
「世界は最早日本なるものの存在を認めてゐないのだ、存在の無い貴様達の国民は如何に虐待しやうが一向差支はあるまい。貴様達は今尚自分達の国が世界に存在してゐるなどと思ったら大間違ひだ、日本といふ島は大ロシア帝国の一属地に過ぎないぢゃないか、図々しいことを言ふな貴様達を人間として扱ふてゐるだけで満足しろ。其れが口惜しいなら刀を以て向かって来い、今は口の世じゃない腕力の世だ、貴様の祖国が滅亡したのも結局其れが解らなかったからだ、俺等が何のかのといって持上げるやうな真似をすると
こんな台詞を飛び出させるまでに至っている。
猛烈火を吐くが如しとはこのことだ。時空を超えてこんにちを生きる我々にさえ突き刺さる、見事な警句と評したい。
とまれ、こうした苦難多き未来図に苛まれる日本政府にとって、ハリマンの来日はむしろ勿怪の幸いだった。地獄の底で蜘蛛の糸を発見したカンダタのような心地がしたろう。
あのだだっ広い満洲を日本国一手で防衛するなど、もとより無茶な注文なのだ。
然るにそこへ米国を引き入れることが叶うのなら安心だ、緩衝材としてこれ以上ない効果を果たす。
更にそうすることによって米人一般の好感を買い、戦後経営の資本を彼に期待せんとする――それが伊藤や桂、井上たちの初期案だった。
これに則り、来日早々ハリマンは引きも切らぬ歓待を受ける。
鉄道王がいよいよ前途に希望を強めた矢先、ポーツマス条約の内容が知れ渡るや、あろうことか市民が激昂。暴徒と化し、ご存知日比谷焼打ち事件を演出するなど、にわかに世上が騒然となり、満鉄の談判進行にも不便を来しだしたため、ハリマンは一旦日本を離脱。後事をグリスカムに託し、朝鮮及び清国視察の旅路に着いた。
この間の、グリスカムの活動ぶりときたら凄まじい。この駐日大使は桂首相や井上馨と暇さえあれば面会し、
「南満州鉄道には大規模な改善が必要、しかし時節柄日本としても容易なことではありますまい。然るにハリマンなら、これ位のことは朝飯前に弁じ得ますし、更に彼は銀行家との関係も方も密接だ。日本が必要とする資金調達も、彼の手を通すことで極めて簡単に行えましょう。しかもこの構想は結局は、日米間の経済的、ならびに政治的関係を、いよいよ親密ならしめる所以なのです」
チョコレートの砂糖漬けみたような
甲斐あって、ハリマンが再び日本へ戻るや、後は彼が一筆署名さえすれば、たちどころに予備契約が成立するところまでお膳立てが済んでいたというのだから、グリスカムの周旋ぶりの凄まじさが窺い知れる。
契約の要領に曰く、「南満州鉄道を買収するため、日米シンジゲートを組織する。シンジゲートは、日本の法律に準拠すべく、最初は日本人の管理に属し、漸次組織を変更し、結局日米代表権が平等となるを以って已む」。
満額回答といっていい。ハリマンはほくほく顔でアメリカへと去った。
ポーツマス条約を締結した小村寿太郎外相が横浜に帰着したのは、それから三日後のことである。
帰国早々、ハリマンによる満鉄日米合弁構想を耳にした小村は大いに驚き、徹底的な反対を表明。
「二十一万の死傷者と二十五億の巨費を投じて、辛うじて得た南満洲鉄道を、アメリカ資本の利益のために献上せんとするとは何事か」
斯くの如く主張した。
威勢はいい。が、これは外相の口にするべき内容ではない。
市井の壮士が酒瓶片手にぶち上げる、景気がいいだけで後には何も残らない、安花火めいた代物である。イヤ献上するのではない、あくまで合弁、共同経営に持って行くつもりだと説くものがあっても、
「名は合弁なりと雖も、資金は米国、技師も米人と言うのでは、結局米国に満鉄をくれてやるのと何も変わらないではないか」
と喝破して、とりつく島がなかったという。
果たして情勢は一八〇度転換した。満鉄の日米合弁構想は風の前の塵に等しく吹き散らされて、ハリマンの二ヶ月余に及ぶ交渉の日々はまったく無意味な行為と化した。
これで腹を立てない奴がいたなら、そいつはもう聖人君子の列に並べてしまって構うまい。
イエス・キリストもにっこりだ。
むろんハリマンはそのような、人間離れした大海にも比すべき慈悲の心の持ち主ではない。
エドワード・ハリマンは激怒した。
キレたと言っても言い過ぎではない。
当然の権利であったろう。彼はまったく、お釈迦様が羊羹片手に挨拶に来ても赦すまじという気勢を示した。
ほくそ笑んだのは北京の袁世凱に他ならなかった。夷を以って夷を制すは三千年来の支那の伝統。以後、袁はあからさまに米国に対して秋波を送り、日本の利益を侵害するような利権を、かの国に次々と提供してゆくことになる。
日米戦争の萌芽は、この瞬間から露骨になったといっていい。
小村寿太郎は国家一〇〇年の大計を誤った。そう誹られても、彼に抗弁する資格はなかろう。
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