無残や敵に屠られぬ
つづみを収め旗を巻き
悄然として力なく
いくさの庭を
今日の悲憤を如何にせむ。
一見軍歌か何かのような印象を受けるが、これは紛うことなき野球の歌だ。
戦前、東大内部のリーグ戦に於いて不敗を誇った法医学チーム。ところがこの「常勝球団」が、ある年の春期リーグに於いて完敗を喫する事態が発生。選手は悲憤の涙を呑み、観客はこぞって色を失くした。
――その、顔色を失った観客の中に。
同校同学部のOBにして、現役の外科医でもある、渡辺房吉という人物がいたのである。
古巣のチームのまさかの敗北に多大な衝撃を受けた渡辺は、自宅に引っ返すなりたちどころに上記の歌をしたためた。敗北に打ちひしがれているであろう選手たちを、激励する目的の歌である。
球場を「いくさの庭」と呼んでいたりと、もうこの時点でだいぶ鬼気迫るものを覚えるが、歌は更に二番・三番と続いてゆく。
ああ事終り中原の
鹿敵軍の手に落ちぬ
いくたび兵を交ふるも
常勝の名をいただきて
敗れを知らぬ我軍の
恨み千秋消え難し。
他校に敗けたわけではない。
あくまで学内戦のはずである。
にも拘らず「恨み千秋消え難し」とは、この思い入れの深さはなんであろう。野球というスポーツには今も昔も、人を過度の熱狂に導かずにはおかない魔力が宿っているらしい。
さもあらばあれ来ん秋の
争覇のちまた雪辱の
いくさに勝ちて勇ましく
凱歌をあげて紅ゐと
黄の大旗を押し立てむ
奮へ法医の健男子。
来る秋季リーグにて思う存分復讐せよ、奴らに目にもの見せてやれ、と背中を張り飛ばす格好でこの激励歌は終わっている。
そのとき凱歌と共に押し立てるべき「紅ゐと黄の大旗」こそ、法医学チームの旗章に他ならなかった。なんでも紅は血液を意味し、黄色は血清を象徴するものだという。
このデザインを考案したのは、松橋紋三。
東京帝国大学医学部卒業後、羽志主水のペンネームで幾点かの小説を発表した男である。代表作に『越後獅子』、『監獄部屋』。
松橋にしろ渡辺にしろ、東大医学部の卒業生というのは実に多芸だ。本業たる医の道をおろそかにすることなきままに、文筆の方面でもひとかどの名を残している。
松橋が小説ならば渡辺は随筆、また歌心も豊かな人で、第一次世界大戦でも有数の激戦地、フランス・ヴェルダンの戦場跡を訪れた際には、
錆びて
朽ちて
乱れ
千切れ
秋風にうなりを立てて
ただヒューヒューと鳴つてゐる。
寂寥と無常感とが肌身に沁みる、みごとな詩を詠んでいる。
「はなび」と題する歌にも着目したい。何故かと言うに、
花火は月を砕いたか
かけらかけらが白がねの
いさごと降りて乱れ散り
片割れ月ぞ
空にのこれる。
この詩を読むと、砕月――『東方Project』でも屈指の人気を誇るあの楽曲が、自然と脳内再生されるからだ。
花火を砕けた月の欠片に擬する。思えばあの名曲をテーマ曲とする伊吹萃香も、『文花帖』にて月を砕く業を披露していた。
古今を通して、人の考えるところは似るものだ。

東方文花帖 ~ Bohemian Archive in Japanese Red
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