いったい小村寿太郎という人物は、外交官として有能だったのか、どうか。
この疑問を解き明かすには、なるたけ多角的な視点から彼を観察せねばなるまい。差し当たってまず第一に、1905年8月10日以降、アメリカ、ポーツマスにて日露戦争講和条件の諾否をめぐり、小村と激しく鎬を削ったロシアの雄、セルゲイ・ウィッテの眼に依るべきだ。
(Wikipediaより、セルゲイ・ウィッテ)
この談判期間中、日本とロシアの外交団は同じホテルに宿泊していた。ひとつ屋根の下で過ごす以上、どうしても接触の機会は多くなる。小村とウィッテ、両国の代表がばったり出くわす機会もあったのだと、ウィッテは後にみずからの『回想録』にて述べている。
その「機会」のうち、取り立てて特筆大書されているのが食堂に於ける一幕だ。なんでも講和会議の期間中、小村は156センチしかないあの小さな体躯でありながら、日に日に三食欠かさず喰って、決して習慣を崩そうとはしなかったという。
その姿を、どういうわけかウィッテが「見かね」、食事中の小村に対し、態々忠告を与えたらしい。
曰く、
「私の立場も苦しいが、君とてそれは同様だろう。こういう時は自然と睡眠不足になりがちで、体も段々弱ってくる。にも拘らず、そんな風に普段と同じ食事を摂っていては必ず悪い。もっと減らした方がいいだろう」
身長180センチを突破し、小村と比べて明らかに一回りどころか二回りは大きい、まこと立派な体格のセルゲイ・ウィッテが彼から見れば豆粒のような小男に節食の勧めを説くのである。
奇妙と言えば、これほど奇妙な光景もないであろう。
こうした健康への気遣いが、結果的に樺太の領有権をめぐる攻防の明暗を分けたのだと、ウィッテは得意気に物語る。
(Wikipediaより、講和交渉に臨む日露代表団)
小村が談判の最後の最後でへたばって、樺太の北半分を頑張り得ずに抛げてしまったあの瞬間。実は自分も、樺太の全部を譲渡すると言い出す寸前だったのだ、と。
それが思いもかけずに向こうの方から折れたから、ウィッテは吃驚して心中密かに欣喜雀躍したらしい。自分の方が小村より一寸長く息が続いたから助かった、まったくあれは体力の勝利に他ならなかったと、それがウィッテの見解だ。
固より回想録である。そこに書かれている内容をすべて鵜呑みにすべきかどうかは計り難い。
だが、まるきり事実無根の創作とも思えないのは、小村寿太郎の特徴として、こういう腰弱な態度を発揮する瞬間が確かに幾度か見られたからか。
同年12月、北京で袁世凱と交渉し、ポーツマス条約で日本に譲渡された南満州鉄道の権利を清国にも承認せしめたときのことだ。これに伴い、いくつかの秘密協定が同時に結ばれ、その中には満鉄と並行する鉄道の敷設禁止を取り決めたものもあったわけだが(「清国政府ハ南満洲鉄道ノ利益ヲ保護スル目的ヲ以テ、自ラ該鉄道回収以前ニ該鉄道ニ近ク或ハ之ト並行スル本線、或ハ鉄道ノ利益ヲ害スルコトアル可キ支線ヲ敷設セザル可キコトヲ約ス」)、この条項を作成する際の席上で、小村はだいぶまずい振る舞いを演じてしまった。
それは清国側から「単に並行線という字句では余り茫漠に過ぎるから、マイル数を決めて幾マイル以内には並行線を敷くべからずと定めよう」と提案されたのに対し、あろうことか首を振り、
「もしマイル数を定めてしまえば、日本は他国に支那の鉄道事業を邪魔するものという印象を与えてしまうことだろう」
と、不得要領な反論を為したことである。
アメリカの鉄道王ハリマンを満鉄経営から蹴り出しておいて、今更「他国への印象」も何もなさそうなものだが、この点、小村の心理は理解し難い。
清国側は面食らいつつも、「然らば並行線の規定は欧州の慣行に従ったらどうか」と食い下がったが、小村はこれをも
「欧州の慣行は一致していない」
として退けている。
火種を放置するどころか、新たな地雷を埋め込んだも同然だった。
このため禁止せらるべき並行線の距離・種類・性質、すべてが非常に曖昧なものとなり、紛争が起きない方がむしろおかしい、火薬庫同然の景を現出。このあたりの条件さえハッキリ詰めていたのなら、後年張作霖が並行線を敷いたときの展開も、或いは変わっていたやも知れぬのに、返す返すも切歯扼腕の至りである。
結局のところ、小村寿太郎に関しては、
いつの間にか、小村寿太郎侯は、陸奥宗光伯と並び立つ名外交家として定評を得てゐるやうであるが、しかし、当時誰が全権として講和会議に出張したとしても小村以上の働きは出来なかったと同様に、誰が全権であっても、あれだけの事は出来たと云ってはいけないだらうか。(中略)どうせ国力相応の事をやって来ただけで、十の国力を二十に働かせて外交上の勝利を得たのではあるまい。(昭和十七年、正宗白鳥『旅人の心』186頁)
岡山の作家・正宗白鳥のこの評が、もっとも適当なように思える。
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