穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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十和田湖、三年、二千円


 こんな企画を思いつくのは何処のどいつであったろう。


 少なくとも和井内家の人間ではない。


 昭和の初め、結構な数の潜水夫らを駆り催して、十和田の湖底をしきりに浚ったやつがいた。

 

 

十和田湖

 


 賽銭の回収が目的だった。


 そういう習俗があったのである。銭や米を包んだ紙を、十和田湖めがけて投げ入れて、沈んでいく様子によって吉凶を占う、というような――。


 令和の世にも「おより紙」の名の下に根強く残る信仰である。


「その根強さを、正確に知りたい」


 と、好奇心を疼かせた何者かが居たようだ。


 試みは三年に亙って継続された。


 が、十和田湖の底は浅くない。


 相当深い。最大深度326.8m、これより深い湖は、日本国では北海道の支笏湖と、秋田県田沢湖以外に存在しない。第三位ということである。光の届かぬ真っ暗な淵もザラにあり、回収作業はそう捗々しく運ばなかった。

 

 

十和田湖 九重浦)

 


 それでもなお、潜水夫らの類稀なる努力に依るというべきか。


 三年かけて、彼らはのべ二千円分の硬貨を引き揚げ、積み上げた。現代の貨幣価値に換算して、ざっと百二十万円ほどである。多いと取るか、少ないと取るか。


 山本実彦は前者であった。

 

 改造社の創業者であるこの人物は、二千円という数字をまず「一厘銭なら二百万枚」と可能な限り細分し、「あくまで理論上ではあるが、最大で二百万人が自分自身の運命を、この青い水に訊いたのだ」と、妙な感心の仕方をしている。


 更に続けて、

 

 

 この現実をみせつけられて、自分としての人生を、自分の生活を、深く内省しないわけにはゆかなかった。ここに詣ずる東北の人々は、関東や、関西のひとびとのやうに、自然にめぐまるるものが少い。であるから、科学を駆使して自然を克服するドイツ人の行った道を行かなくてはならぬと、私は考へざるを得なかった。

 


 とも。(昭和九年『小閑集』)

 

 独特な感性を宿しているのは疑いがない。


 あれだけの出版社を興すには、やはり強烈な個性が要るのか。

 

 

Kaizo-sya 001

Wikipediaより、銀座改造社ビル)

 

 

 ところで回収された二千円は、その後どうなったのだろう。


 費用に見合うわけもなし、いっそきっぱり未練気もなく十和田神社玉串料に全額奉納したならば、美談として語り継がれる余地もあろうが。このあたりの機微につき、山本実彦はなんの回答も与えていない。

 

 

 

 

 


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食肉はいやだ ―軍馬始末覚書―


 馬肉禁食会の発起は明治三十九年になる。


 越前福井の有力者、亀谷伊助が立ち上げ人だ。


 ココロザシ自体は正当だった。


 高潔とすらいっていい。日露戦争遂行のため、日本全国津々浦々から動員された軍馬たち。のべ十七万頭以上に及ぶ、乃木希典の言葉を借りれば「活動武器」の大群は、しかしいったんポーツマス講和条約成立するや、思わぬ悲運に見舞われた。

 

 

日露戦争、凱旋部隊)

 

 

 既に戦争が終わった以上、軍隊はその膨れ上がった図体を再び萎ませねばならぬ。


 凱旋早々、各師団にて多くの軍馬が競売にかけられる運びとなった。


 それだけならばべつにいい・・。目くじらを立てるに及ばない、ごくありきたりな展開である。


 ただ問題は、落札者のかなり多くを食肉業者が占めていたこと。


 もちろん彼らは競り落としたる軍馬うまどもを、有無を言わさず屠殺した。砲を挽き、糧を運び、人を乗せ――その背で以って祖国の勝利を支えたであろう功労者らを、用が済むなり殺して解体ばらして食肉にくにして、市場に卸して利益カネにした。

 

 

Horsemeat,Asahikawa-20160724

Wikipediaより、馬刺し)

 


 この事態を受け、


「なんということだ」


 と、誰一人として血相を変えなかったなら、それこそ我らは明治人の神経に深刻な疑義を抱かねばなるまい。


 幸いにして、亀谷がいた。


「彼の軍馬は軍人と共に満韓の野に馳駆し畜類とは云へ其の功多きに今や恙なく帰国すると共に忽ち屠殺して食膳に供するが如きは情に於て忍びざる所なり」――声を張り上げ、広く江湖に訴えてくれた人がいた。


 所産がすなわち馬肉禁食会である。


 繰り返し言おう、ココロザシは高潔だ。が、現実的な成果となると、これがあまり捗々しくない。率直に言ってあまり流行はやりはしなかった。社会を揺り動かすような、そういう一大ムーブメントには至っていない。


 原因は、明治人が一般に冷血気質と視るよりも、むしろ会の名前がいまひとつ適当を欠いていたのであろう。


「禁食会」ではサクラ肉を口にすること、馬食文化それ自体に挑戦しているように思える。戦功相応の待遇を軍馬に与える点にこそ会の目的が在るならば、「禁」の文字は避くべきだった。禁酒会とか禁煙会とか、そっち方面・・・・・の連中と同一視されても不思議ではない。


 要するに、意図と看板に若干のズレがあったのだ。


「軍馬顕彰会」とでも銘打てば、あるいは結果は違ったろうか。第一印象の重大さを、つくづく考えさせられる。

 

 

 


 日本に於いて軍馬表彰の制度が樹つのは昭和十四年以後のこと、日露戦争から三十年以上を俟たねばならず、それでやっと、漸くだった。


 制度の詳細に関しては、昭和十七年刊行の『馬』という書に特に詳しい。


 著者の名前は伊澤信一。負傷によって現役を退いた嘗ての陸軍軍人である。

 


 功章は次の三種類に区分されてゐる。
  甲功章(金鵄勲章に相当するもの)
  乙功章(旭日章に相当するもの)
  丙功章(瑞宝章に相当するもの)
 右の功章は金属製にして頭絡の額革中央に附けるものである、(中略)昭和十七年十月迄に表彰されたる名誉の軍馬は、合計一五七二頭で、其内訳は左の通りである。
  甲功章 三九九頭
  乙功章 八五二頭
  丙功章 三二一頭
(中略)これ等の功労軍馬は、軍役を果したる後には、神馬として奉仕し、或は乗用、農用、輓馬等それぞれ適当なる職場に於て働き、または牧場にて悠々たる生活をなす等、適当なる飼手に養はれて楽しく余生を送るものである。

 

 

(上から甲、乙、丙功章)

 


 もっとも仕組みが出来てから六年経たずで大日本帝国の軍組織自体が壊滅したため、上の功労軍馬らが、いったい真に「楽しく余生を送」れたかどうか、定かではない。


 なお、触れておくと、兵士としての著者伊澤の最後の戦場は、明治三十七年の、遼陽会戦こそだった。

 

 

 

 

 


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遼陽にて ―あるユダヤ人の日露戦争―


 黒っぽいものを歩哨が見つけた。


 明治三十七年九月中旬、当節遼陽大鉄橋と通称された構造体の下である。歩哨の所属は、むろん日本陸軍だ。遼陽会戦が決着してから二週間ほど経っている。一帯の勢力図はまず以って、皇軍の色になっている。

 

 

亜東印画輯 京大022 024 "太子河の鐵橋"

Wikipediaより、太子河の鉄橋)

 


 歩哨は思った、


(前回ここを巡廻まわった際には、あんなのは落ちていなかった)


 と。
 記憶力には自信があった。
 神かけて誓えることである。


 如何にも日本人らしい生真面目さを発揮して、銃を持つ手に警戒を籠め、物体の正体を確かめるべく歩みゆく。


 が、いざ近づけば益体もない。


(なんだ、露兵の上着かよ)


 前夜来の雨により、増水した太子河の流れに沿って運ばれてきたものだろう。


 ところどころ、どす黒く変色した生地は、泥汚れでは断じてない。もっとずっとなまぐさい、有機的な代物だ。範囲からして、着ていたやつの運命は、おのずと察しがついてしまった。

 

 

日露戦争、投降したロシア兵)

 


(ふむ。……)


 かがみこみ、何の気なしに持ち上げる。


 と、ポケットから滑り落ちる小さな影が。


 手帳であった。こちらの汚れもだいぶ酷いが、それでも中身はまだ読める。歩哨は陣地に持ち帰り、通訳に渡すことにした。


「面白いものを拾ってきたな」


 どれどれ、すぐに読み解いてやる。気軽に請け負った通訳だったが、ページを捲るに従って、頬のあたりの筋肉があからさまにこわばった。


「どうした」
「日記らしいな」
「珍しくもない」
ユダヤだぜ、こいつを書いた野郎はよ。――」
「……、それは」


 なるほど確かに、一驚せずにはいられまい。


 多民族国家を相手にしている現実を、改めて突き付けられた思いであった。


 ほどなく手帳の存在は陣中皆に知れ渡り、通信員の手によって本国にも伝達されることとなる。


 翻訳済みの文章が大阪毎日新聞紙面をうずめるや、間を置かずして朝野に異常な波紋を呼んだ。


 以下、例によって例の如く、筆者わたし個人の独断と偏見に基づいて、「訳文」中から特に胸に響いた箇所を撰んで並べることにする。


 上下を問わず、明治人の感情が、なにゆえ激しく揺さぶられたか。きっと察しがつくはずだ。

 


八月十日
 今朝高塔の下にて、一美人の逍遥するを認めぬ、看護婦とかや、スラブの看護婦は、病院に勤務せずして、無病の将校と戯る、奇ならずや、翻って余の境遇を思へ、悲哉かなしいかな、余は最愛の妻に向って胸中の苦悶を告ぐるの自由だになし、検閲の難関を経ずして、書簡を送らん由もがな、アゝ彼女は独り秋風に泣きつゝあらん! 神よ願くはすみやかに戦争を終らしめ給へ。

 

 

(ロシア軍の野戦病院

 


八月十一日
(前略)余は未だ先月分の俸給を受け取らず、隊長殿の衣嚢かくしは不正なる銀行にやあらん、いつもながらの支払停止、普通の銀行ならんには、疾に破産するべき筈なるに。


八月十二日
 余は夜もすがら泣きぬ。戦友の余を虐ぐること、何ぞ斯の如く甚しきか、寝台を並ぶるを嫌ひ、食を共にするを厭ふ、間断なく見舞はるゝはただ無情の鉄拳あるのみ、アゝ昨夜も、アゝ昨夜も。ユダヤ人もまた人類にあらずや、否スラブよりも古き歴史尊き神を戴く、善良の民なるを。われ既にこの虐待を被る、しかも尚ほスラブの為めに戦ふの義務あるか。
 昼は来たれり、また食堂の隅に潜んで彼等が余せる堅き黒麺麭を食まんか。更に唯々として奴隷の如く使役せられんか。…(判読不能)…軍隊に自由なしといふ、然れども彼等はウォッカに酔ひ、売春婦に戯るゝの自由を有す、余に至っては祈祷いのりを捧ぐるの自由だも奪はれんとす。夜十時、厩の一隅寂しき黍殻の上に冷たき夢を結ばんか。

 


 ポグロムとは、つまりこういうことなのか。


 金も貰えず、酷使され、憂さ晴らしに打擲される。


 せせら笑われ、軽蔑されて、立つ瀬というのがまるでない。


 帝政ロシアユダヤ虐待、酷烈無惨なその様子。ジェイコブ・シフ大日本帝国の後援にほとんど打算を超越してまで入れ込んだ、これが理由の一端だ。

 

 

Hermann Struck Grafik JMBerlin GDR 87 21 0

Wikipediaより、ジェイコブ・シフ)

 

 

 もう少しばかり、抜粋を続ける。

 


八月十三日
 起床喇叭に驚かされて厩をはなる、凶か吉か、胸甚だ騒ぐ、朝ごとの日課たる隊長殿の靴を磨き、営所の床を拭ひ、炊事用の水を汲む、胸愈々騒ぐ、(中略)午後二時、転隊の命下れり、遼陽停車場守備隊の雑役に従事せる余は、首山堡方面にあるシベリア狙撃隊第十三連隊に編入せられたるなり。聞くならく敵は鞍山店を襲撃せんとしつゝあると。余の転隊はやがて戦はんとするが為なるべし。
 同胞イワノフは南山の役に倒れたり、デミトリは得利寺に死せり、パウルアンドレも悉く敵弾のもとに倒れぬ。さなり卑怯なるスラブは、余等憫れむべき同胞を先頭に進ましめて、弾丸の的たるを常とす、虐待既に苦し虐待の報酬として貴重なる生命を奪はるゝは、更に大に苦し。

 


 もはや疑念の余地はない。


 彼は肉壁のいちまいだ。肉の壁の素材が遺した慟哭が、すなわち手帳の真実だ。


 人は城、人は石垣、人は堀。武田信玄三十一文字みそひともじ半分・・は、当人にとって思いもよらぬ方法で北の大地に実現された。


 八月十三日の記述は最後にこう結ばれる。

 


 われたこの苦き運命に遭遇して、首山の露と消えんとするにあらざるか、アゝ神よ。余と余の恋しき妻を憐れめ。

 


 首山堡。


 遼陽会戦の焦点として、この地名は有名だ。


 十三万の皇軍と、二十二万のロシア軍とがぶつかり合った闘争の、激戦区中の激戦区。

 

 

Battle of Liao Yang

Wikipediaより、遼陽会戦)

 


 鉄風雷火の限りを尽くす、弾丸雨飛のキルゾーンにて、肉壁役が生き延びられる公算は。ああ、本当に、この浮世では嫌な予感ほどよく当たる。

 

 

 

 

 


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報道は熱し ―明治の重大事件二種―

 

 にわかに帝都を聳動せしめた白昼の異変。明治三十五年十二月十日、田中正造天皇陛下に直訴の件を、翌日の『読売新聞』報じて曰く、

 


 天に訴へ地に訴へ社会に訴へ議会に訴へ法廷に訴へ請願となり陳情となり演説となり奔走となり運動となり大挙となり拘引となり被告となり絶呼となり慟哭となり流血となり千訴萬頼慟天哭地して而も猶其目的を達する能はざる、足尾銅毒被害民を救はんが為め財産を棄て名を捨て朋友を棄て政党を棄て終には己を棄てゝ一身を鉱毒事件の犠牲に供し居たる田中正造は遂に昨日、 畏多くも議院より還幸の御通路に拝跪して輦下に直訴するの非常手段を執るに至れり


 名文だった。


 やれることは全部やった、なにもかもを出し尽くし、人間の残骸、搾りカスと化してなお諦めきれない田中正造の頑固というか執念が、まるで歌劇仕立てのように音楽性の心地よさすら伴って自然と流れ込んでくる。


 そうだ、そうそう、血を吐くような苦闘の歴史あってこそ。


 それでやっと「直訴」という非常行為に対しても情状酌量の余地が生まれる。


 どこぞの泡沫政党の代表みたく、大した思慮も伴わぬまま、軽々に踏み切っていい行為では断じてない。そういうことを思わせてくれる、繰り返すが名文である。

 

 

Tanaka Shōzō in 1901

Wikipediaより、直訴当時の田中正造

 


 資料を山と掻き集め、俯瞰の視点を構築し、丹念に文章を織り成せる伝記作家ならいざ知らず。新聞記者が、彼にとっても寝耳に水の事態を受けて、たちどころにこれだけの説得力を附与できるのは尋常一様の業でない。


 当時の『読売新聞』は、実に優れた才幹を抱えていたということだ。


 そこをいくと同日付の国民新聞の報道は、

 


 天皇陛下には十日貴族院に臨御開院式御挙行の後還幸仰出されたるは午前十一時四十分の頃にして(中略)群集せる拝観人のうち数年来彼の鉱毒事件の為め心身を委ねて救済方に尽力し遂に初期以来継続せし代議士を辞して狂奔中なりし田中正造翁あり、鳳輦貴族院角を曲らせ給ふを拝して両院議長官舎の中程より物狂はしげに走り出て「上」と記せる一封の直訴状と見ゆるものを捧げて鳳輦に近づきまつらんとせしを御道筋警衛の巡査高木八五郎、尾川彦次郎両氏に取押へられ直に虎の門派出所に引致されしが浪立ちたる群衆は再び静粛に復し 鹵簿は御恙なく通御あらせられたり

 


 味も素っ気もない的な、ただ事実を事実のままに切り取り貼り付け載っけたような、のっぺりとした印象のものになっている。


 まあもっとも、『読売』が田中に肩入れしすぎ、湿度を高く設定しすぎと指摘されれば抗弁の仕様がないのだが。


 ところがこの『国民』が、田中正造に対しては乾いた瞳で以って臨んだ新聞が、こと八甲田山雪中行軍遭難事件を受けるや否やたちまち情緒纏綿し、猛然と筆を動かしたのはいったいどういうことなのだろう。

 

 

 


 明治三十五年二月五日の同紙に曰く、

 


 夫れ今回の椿事たる、之れを天災地変と同様に、全く不問に附し去るべきものなるや、軍隊の凍死は不可抗的勢力の為めに強圧せられ、遂に如何とも為し難かりしものと見るべきものなりや。若し果して然りとなさば、彼等の死や軍国に殉じ、職責の為めに斃れたるものにして、国民は其の忠勇心を称賛するの外に辞なかるべきなり。然りと雖も、今回の行軍たる其名の如く雪中行軍なり、(中略)目的既に此に在りとせば、天候の変化、暴風の襲来、道路の険悪等は素より算中に措きたるなるべし。

 


 防げた事故か、さにあらざるか。天災なりや人災なりや、両者の複合であるならば、その比率は如何ほどか。


 あらゆる可能性を捨てることなく事態を闡明すべきだと、そういうことを言っている。

 


 問題は斯くの如き予想に対して、充分なる被服を整へ、食糧を携へ、其の設備に於て欠くる所なかりしや否やに存す、是れ最も究めざる可からざる要件なり、若し夫れ軍隊が予期せざる風雪に遭遇したる時に方り指揮官の措置果して、其宜しきを得たりや否やといふが如き、亦た明らかにせざる可からざる必要あると見る

 


 着眼点も実に鋭利で、的確だ。

 

 

(昭和初期、八甲田山スキー場)

 


 若し夫れ、今回の出来事が、余りに悲惨なるが為めに、一切を悲惨の二字に包み、其の惨死の結果を見て、其の原因如何を閑却するが如きは、吾人の大いに取らざる所なり。夫れ一名の死と雖も、素より惜しむべし、況んや二百名に於てをや、況んや亦精鋭なる帝国軍人に於てをや。若し二百名の将卒を犠牲にするの覚悟あらば、以て一城を堵ふるに値し、一中隊全滅の覚悟あらば、以て劇戦を戦ふるに足る、吾人は忠勇なる我が帝国軍人二百の命が、決して理由なく失はれたるに非ざる事実上の證明が当局者によりて与へらるべきを信じて疑はざるなり。

 


 最後の方など想いがあまりに募りすぎ、勢い活字に収まりきらず、行間に溢出したの観がある。


 当時の『国民新聞』は、徳富蘇峰が梶を握っていたはずだ。

 

 あるいは蘇峰みずからが綴った文章ではないか。それほど力の、熱の入れようが違う。

 

 

Soho Tokutomi 1 cropped

Wikipediaより、徳富蘇峰

 


 ――以上、とある心理学者がその著書で、田中正造偏執病パラノイアの疑惑リストに突っ込んでいるのを発見し、大いに驚き、ショックの解消法として「壺」の中身を掻き探し、ついあれこれと対照してみる気になった。

 

 それだけのことで、他意はない。

 

 

 

 

 


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山本さんちのゴンべどん ―ある薩人の影を追う―


「上方でいくさの形勢じゃ」


 兵力が要る、我はと思う者やある、居れば疾く疾く名乗り出よ――。


 慶応三年、薩摩にて、こんな「お達し」のあった際。加治屋町の貧乏藩士山本家からは四兄弟中、二人までが飛び出した。


 長男盛英は御小姓役を務めていたため国許に残る義務があり、末弟誠実は威勢はよくとも未だ十歳の小僧に過ぎない。


 そこをいくと次男吉蔵は男盛りで、また色々と身軽な立場でもあった。


おいきもす」


 そういうことになった。


 この宣言を、内心密かに垂涎の想いで聴いていたのは三男権兵衛


 山本さんちの・・・・・・権兵衛・・・である。後の内閣総理大臣日本海軍の立役者たるこの人物は、戦に赴く吉蔵が羨ましくて仕方なかった。

 

 

Yamamoto Gonnohyoe 2

Wikipediaより、山本権兵衛

 


 何故なにゆえなどと、訊くだに野暮であったろう。彼が薩人だからである。三百年間、二重鎖国の内側で、戦国の野気を保ち続けた異様な種族ゆえである。それで説明はすべて足る。


 吉蔵に対する艶羨は日に日にどころか一分刻みで倍加して、皮膚を裏から掻き破る。青春の血が騒ぐのだ、じっとしていてなるものか。焦慮は鼓動をむやみに高め、あたまの芯をぼやけさせ、あらぬ飛躍に彼を導く。ふと気がつくと権兵衛は役所のカマチを越えていた。目の前には志願兵をとりさばく役儀を負ったやつがいる。


「うなァ、幾歳いくつじゃ」


 役人が訊いた。
 権兵衛は答えた、


「十八でごわす」


 嘘である。本当は十六歳である。
 が、当時の藩の方針として、十八歳未満は従軍まかりならぬとなっている。


(冗談ではない)


 権兵衛にとって、これほど迷惑な規定はなかった。


 風雲はまさに千載一遇、先祖の怨みを、関ヶ原の屈辱を、葵の御紋に叩き返す絶好機。


 三百年間、薩摩藩士全員の待ちに待ったる檜舞台はすぐそこだ。脇目もふらさず上るべし、さもなくば、男と生まれた甲斐がない。睾丸など持たぬ方がマシだった。わかりやすく根本義の危機である。とすれば大事の前の小事であろう。権兵衛は堂々と詐称した。


(ままよ、なこよかひっとべじゃ)


 幸い権兵衛の筋骨は猛々しく発達している。


 その肉質が、彼を扶けた。役人は特に疑念を持たず、煩雑な確認を行わず、さっさと手続きを済ませてくれた。


(どうだ)


 跳んで正解だったろう、と。


 権兵衛は有頂天で京に上った。

 

 

(明治三年撮影、左端に山本権兵衛

 


 やがて年の瀬、十二月二十八日の午後である。


 屯所にて、冷たい空気を肺に入れ、いざ・・に備えて気を整える権兵衛のもとに客が来た。


「よう、弟――」


 なんと兄の吉蔵である。一斗樽を引っ提げている。


「近いぜ、いよいよ、出陣が」


 訣別の宴を張るためだった。


 鏡をぶち抜き、喉を鳴らして酒を呑む。


 杯を干してはまた満たす、合間合間に吉蔵は、


「戦いに臨んでは、お互いに命を的に働かねばならぬが、たとい討死するにしても、鉄砲傷はありがたくない。刀傷にしようじゃないか」


 こんなことを喋ったという。


 応、と権兵衛は頷いた。


 鳥羽・伏見の戦いに先駆けること、実に六日前である。


 この日を境に、以降一年。奥羽越列藩同盟が崩壊し、みちのくの砲煙、熄むまでの間、兄弟は遂にただの一度も顔を合わせる機会がなかった。

 

 屯所が別なら、部署も別。つまりはそういうことである。しかし直接ならずとも、手紙を介した間接交流ならあった。鳥羽・伏見を生き延びて、一息つくも束の間のこと、次なる戦場、越後口を目指して進む権兵衛に、兄は心づくしのふみを送った。


「兄弟戦に死せざるは賀すべきなり、然れども一の傷をも受けざるは人皆吾等が勇戦せざりしを思ふならん、依て今後大に進撃して兄弟互に大功を立しと言はれん事を希望す」


 武士の鑑としかいいようがない。


 思いやりたっぷりな励ましに、権兵衛は果然奮い立つ。火の玉を呑んだようになり、目付きがいよいよ座りはじめた。

 

 

Echigo no kuni Shinanogawa Takeda Uesugi daikassen no zu

Wikipediaより、北越戦争を描いた浮世絵)

 


 自分の書いた内容を自分で実践するように。吉蔵、ほどなく白河口の戦いにて負傷して、横浜へ後送、入院の運びとなっている。
 が、


「こんなところでいつまでも、暢気に寝そべっていられるか」


 傷口がまだ充分癒着もせぬうちに、半ば脱走の勢いで病院から飛び出すと、戦火を恋うて東北へ、会津目指して疾駆した。


 これが薩人なのだろう。


 いっぽう弟、権兵衛は権兵衛でものすごい。この若者は戊辰戦争の期間中、とうとう手傷らしい手傷も負わず、万全の体調で凱旋している。


 ここを先途と覚悟を決めた瞬間が、幾度となくあったのにも拘らず、だ。銃弾という銃弾が、ふしぎと彼を避けたのである。愛されたとしかいいようがない、戦争に、あるいは戦争を統べるなにものかに。――

 

 

(少尉時代の山本権兵衛

 


 そのことを、当時に於いて見抜いたらしき人物がいる。


 春畝公伊藤博文である。


 話が一気に後年さきへと飛ぶが、明治三十七年四月二十三日付けの出来事だ。この日の夕刻、山本は、ある人物から晩餐会に招かれて顔を出していたという。


 すると席上、伊藤がやにわに権兵衛に対し身を寄せて、


「個人として我輩が君に敬服していることが三つある。これは木戸にも大久保にもなかった長所であると思う。第一は人を見るの明だ、第二は部下の教育、訓練から一切の準備に至るまでよく整頓していることだ、第三は、これはまだ口外する時期でない」


 声をひそめ、ほとんど耳語に近い調子で言った。


 遺憾ながら「時期」とやらが来るより先に馬鹿野郎の凶弾が伊藤の胸を襲ったがため、第三の中身が何であったか、答えは永遠に失われている。


 しかし、もし。勝手な想像が許されるなら、この三つ目の要素とは、


「運がいい」


 ということではなかったか。


 コルタナが並み居るスパルタンから、ジョンを、マスターチーフを選んだ理由と同一である。彼女は言った、いみじくも、


“私が選んだのよ、知らなかったでしょ。どのスパルタンと組みたいかってね”
“もちろん、リサーチはしたわ。あなたが理想の戦士に成長して行く過程を”
“あなた達は皆、並外れた強さと勇気を持ってたわ。リーダーの素質もね”
“でもあなたにしか無いものがあった”
“それを見抜いたのは私だけ”
“何だと思う?”
運よ

“違った?”


 と。


 英雄とは所詮、そういうものだ。能力面の突出だけでは不十分。あるいは運命、あるいは天とも形容される、計数外のなにか力に後押しされている者を指す。


 伊藤には、それが見えていたのであろう。使い古された言い回しだが、英雄は英雄を知るゆえに。

 

 

山本権兵衛、筆跡)

 


 権兵衛もまた、伊藤を厚く敬った。第三者との会話中、彼の名前を出す際は、


「伊藤さん・・


 と、敬称付きで呼ぶことを絶対に怠らなかったし――そういう場合、山縣だろうと松方だろうと、桂だろうと西園寺だろうとドシドシ呼び捨てにして憚らなんだこの男が、だ――、遭難後に至っては、


「あんなに物分かりのよい人はなかった」


 遠い目をして、しみじみと。事あるごとに口にしていたそうである。


「わしは二度内閣をつくって二度潰れたが、いつも突発事件で予め備えることができなかった。政策に行き詰って倒れたということは一度もない。突発的のことで世界の偉人は何人もやられたのだ


 これは政界引退後、知人に漏らしたところだが。深読みすればその奥に、あんまりにも唐突だった伊藤の最期を感じられないこともない。

 

 

 

 

 

 

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暗殺は易し ―福澤諭吉の護身術―


 諜報密偵云々がらみで想起した。


 福澤諭吉のことである。


 彼の家には忍者屋敷みたような、特殊な仕掛けがあったのを。――

 

 

Koga-ryu Ninjya house , 甲賀流 忍術屋敷 - panoramio (3)

Wikipediaより、甲賀流忍術屋敷)

 


 順を追って話すとしよう。


 彼には敵が多かった。


 楠公権助に象徴される歯に衣着せぬ物言いで、壮士どもの怨念をずいぶんあつめてしまったらしい。手っ取り早く現代式な言い回しを用いれば、雲霞の如きアンチの群れに粘着された状態、か。


 この「蟲ども」の大半は、極めて自然な感情経路に基いて、福澤諭吉が地上から消滅することを望んだ。


 あの野郎死ね、ということである。


 否、そればかりでは止まらない。


 ネットの海に罵詈雑言を垂れ流すのが精々な昨今とは違うのである。


 戊辰の役の生き残りがごろごろし、幕末の殺気も色濃く残るご時世だ。


 遠くに在りて願うだけなど生ぬるい、憎ったらしいあんちきしょうを俺がこの手で直々に、地獄の釜に叩き込んでくれようず――。こんな具合にいきり立ち、おっとり刀で走り出すのが明治のアンチの流儀であった。


 首筋に寒気を感じる瞬間が、福澤自身、幾度となくあったらしい。


 須田辰次郎、慶應義塾の門弟で、卒業後は『時事新報』にもいっときながら籍を置いたこの人物も、晩年に於ける懐旧談で、

 

 

「明治五六年頃、先生が思ひ切った議論を続々発表したので、世間では先生を暗殺せんとする者があると云ふ評判が立ち、夫れが為め、先生は外出の時に、宗十郎頭巾で頭部を包み、雨合羽を着て、其下に刀を差して居られたのは、随分滑稽な姿でありました」

 


 こんな事情を暴露している。

 

 

Munemitsu Mutsu

Wikipediaより、陸奥宗光。微行のため、宗十郎頭巾を着用)

 


 大事な生命いのち守護まもれるならば、みてくれ・・・・なぞはおよそ二の次、三の次。頓着している余裕はなかったということだろう。裏を返せば、暗殺者の黒い手を、福澤がどれほど差し迫った危機として捉えていたか窺える。まったく当時の言論人は自分の舌と筆先に、全生命を懸けていた。


 とまれかくまれ、外出時はこれでいい。


 残る課題は家の中に於いてであった。とち狂った馬鹿者がいきなり雨戸を蹴破って、くつろいでいる自分の頭上に刃を加えに来たならば、さて、どのように対応したものだろう?


 ここでいよいよ冒頭の、


「忍者屋敷」


 に話が繋がるわけである。


 対策の一環として福澤は、緊急用の脱出口を準備した。


 すなわち居間の一角に――普段はストーブを乗っけてある部分の床に隠し扉を設置して、そこを潜ればあな不思議、敵手の眼を欺いて外へ逃れられるよう、「抜け穴」を掘っておいたのだ。


 ほとんど伝奇小説の設定めいた話だが、福澤自身が明治三十二年ごろ、薩摩の山本権兵衛相手につらつら語った内容だ。「嘘が吐けないから政治家にはなれない」と自嘲したほどの男が、である。半信半疑、否、八割強、信じてよいのではないか。

 

 

小泉癸巳男桜田門の吹雪」)

 


 他にもまだ、証言者のアテはある。


 岡本貞烋そう・・である。


 やはり慶應出身で、『時事新報』を創立たてるにもだいぶ寄与したこの人も、明治初頭の恩師の姿を回顧して、

 


「流石其頃は用心したものと見え、寝室の隅にある押入より、縁の下に降りられるやうになって居り、其縁の下を降りて、又更に他へ通ずる穴でもありましたかどうか、夫れは知りませぬが、兎に角一時床の下に避くることの出来るやうになって居たやうです」

 


 と、ある種「裏付け」と視るに足る、貴重な言葉を遺してくれた。

 

 

 


 ――暗殺は甚だ易し。如何なる愚人にても執念深くねらへば随分功を奏すべし。結局愚狂の二字を以て評し了すに足るのみ。

 


 鋭利極まる、斯くの如き筆鋒は、ほとんど病的といっていいほど高潮された臆病心を背景に発揮されたものだった。


 人間的な、あまりに人間的な啓蒙家。それがどうも、福澤諭吉であるらしい。

 

 

 

 

 


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露人の見た韓国の原風景


 戦争も商売も、成否は「諜報」の一点に在る。


密偵に費やす金は最も巧みに運用されたる金である。政府がこれを支出するに吝かなるは、怠慢の極致と評すべし」――不朽の名著『外交談判法』中で、フランソワ・ド・カリエールは斯く述べた。


「復讐は武士の大事である、ひとたび討ち損なえば一生の恨みを遺すのである。なればこそ敵を討つにはあらゆる手段を行使して、敵に関するあらゆる事情を精密に知り、愈々敵を討つ段にあたっては、一挙して必ず仕留めるの決心がなければならぬ」――わがくに軍学の泰斗たる山鹿素行もこういう意味の沙汰事を、その弟子達に伝えたものだ。

 

 

Yagama Sokou

Wikipediaより、山鹿素行

 


 諜報を盛んにする国は興り、疎かにする国は亡ぶのである。


 これはほとんど、公理に近い。


 ――ざっとそんな塩梅で。


 帝政ロシアが本能的な南下衝動に従って朝鮮半島を窺っていた頃のこと。


 これから手中に収めるであろう土地の実態を確かめるべく、政府は「目利き」――具眼者どもを何人か、特に選んで派遣して、あくせく調査に当たらせた。


 彼らによる報告は一冊の書に纏められ、大蔵省の名の下に出版されることとなる。


 明治三十八年には翻訳版が日本でも発売された。


 題は至ってシンプルに、『韓国誌』と銘打った。


 試しにパラパラ捲ってみると、のっけからして既にもう、


「韓国に於ては牛馬不足なるに依り耕耘の事は主として手の労働に依り、随って大鋤を用ふるよりは小鋤若くは円匙を用ひざるべからず。而して其の用具は概して最も幼稚なる形式に属するものにして、小鋤は通例木根を以て製し、先に鉄を嵌めず。器具の方式既に斯くの如くなれば、深く耕すことを得ざるは知るべきなり」


 こんな具合に、インパクトの極めて強い内容が出迎えてくれるわけである。


 流石としかいいようがない。


 二十世紀に突入してなお、全国田圃の二割までしか灌漑設備が成されておらず、


 残る八割は天水頼り、

 

 脱穀術に至っては、石や木臼にやたらめったら稲を叩きつけてゆく、原始的な打穀法がせいぜいで、千歯扱きすら滅多にお目にかかれない、貴重品であった国。砂混じりの米に甘んじていた連中は、やはり違うということだ。

 

 下手をせずとも、江戸時代の日本の方が文化的に進んでないか。

 

 

Japanese old threshing machine,Senba-koki,Katori-city,Japan

Wikipediaより、千歯扱き)

 


 以下、露国謹製『韓国誌』より、特に私の目を引いた箇所を幾つかピックアップする。


 併合前の半島事情、朝鮮の原風景を探るのに、きっと貴重なよすがとなることだろう。

 


〇韓国に於ては現世紀の間、実際上人口の増殖なしと云ふ説に賛成する者あり、人口の増殖せざる原因として第一着に挙ぐべきものは韓国民多数の極貧なるにあり。グリフィス氏曰く、韓国人はマルサスの原則を知らずして而かも慢性的の乞食生活を存続して人口制限の為め劇烈なる方法を求めたるものなりと。


韓国には堕胎の風習頗る弘く行はれ、且四歳以下にして母を失ひたる児童は育児法に拙き為め成育せざるを常とす。是等の疾病最も多し。

 

 

(朝鮮の民家)

 


〇韓国の市街及び村落は低地に位置するもの多く、其人家の側には流通せざる水溜ありて其水溜は真に黴菌の培養地とも称すべく、又厠よりの不潔物は凡て街上に流出し大いなる市に於ては覆蓋なき溝渠に流入。故に腸チフスの発生に適当なるは素より驚くべきことにあらずして、是等の有機物は飲料水の媒介によりて人身を犯すものの如し。又海港地には脚気病あり。


〇韓国は耶蘇紀元後の初期に於ては製造業盛んに発達し日本人の師となりて漆器陶器等の製法を伝へたることありしに、其後韓人は之を発達完成することを為さざりしため、其事業は次第に退歩したりと云ふ。而して目今は是等の事業は寂寞として殆ど言ふに足るものなし。
 前記事業をして衰退せしめたる原因は複雑多種にして次の諸項を指示することを得べし。即ち最近二世紀の間外国と交通なかりしこと、行政苛酷にして国民の財産を害し奮起心を消滅せしめたること、苛税頻繁にして国民生活の秩序をやぶりたること、交通不便にして輸出の途途絶したること是なり。


〇右の如くにして製造業は退歩し現今は陶器絹布の如き、一も観るべきものなく偶々専門の職工なきにあらずと雖も其工品凡て粗悪にして価値あるものにあらず。

 

 

(併合後、朝鮮の陶器市場)

 


 返す返すもとんでもない国だった。調査していて、ロシア人らも


「なんということだ」


 と戦慄したのではないか。


「朝鮮の物産が、農産、林産、水産を主として居ることは昔も今も変りがない。物産の分布状況を通じて観たる朝鮮の国民生活が、約四百年前も、約百五十年前も、また約五六十年前も、共に原始的生活の域を脱して居ない」――善生永助が嘆じるのも納得である。


「彼等は民度と知識の劣れるが故に、その自棄的にして諦観的な生活精神の伝統の為に、新しい合理的な農業技術の理解と実行が困難なのである。従って改良された生産技術を継続せしめるためには、絶へざる指導と督励、否、『監視と命令』とを必要とする。現在の朝鮮農業の生産的発展経路は、斯くしてのみ可能なのである」――総督府で農業指導に就いていた、久間健一の言葉は重い。

 

 

(除草実習に参加する吉州公立普通学校の児童たち)

 


 日本はまったくいくさに勝って、途轍もない負債を抱え込んだものだった。

 

 

 

 

 


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