晩年、渋沢栄一は、「論語」を書きつけた屏風をつくり、その中で寝起きすることを何よりの愉快としたらしいが、改造社社長、山本実彦も似たような逸話を持っている。
彼の場合、屏風に墨を入れたのは、与謝野鉄幹と晶子の夫妻に他ならなかった。
(左から、晶子、鉄幹、山口知事、山本)
数多に及ぶ日本の近代歌人群中に於いてなお、屈指の知名度を誇るであろうこの両名と山本は、実のところかなり深い縁で結ばれていた。大正八年、赤坂の三河屋なる料亭で雑誌「改造」創刊の祝宴を開いたときにも鉄幹の姿がちゃんとあり、
うつつなき身を投げてよるため
の即興をものして贈ったというから、付き合いの長さが窺えるだろう。
その返礼、というわけでもなかろうが。
昭和四年、山本実彦は与謝野夫婦を鹿児島見物に招待している。霧島山を筆頭に各地の史跡・名勝を観光して廻る最中、山本は彼らに少しも不快な感を抱かせず、のびのび詩情に浸れるようにと甲斐甲斐しく心を砕いた。
われわれが霧島山麓の栄之尾温泉についたのは七月二十三日の夕暮であった。(中略)与謝野さん夫妻は宿屋のかみしもをつけた待遇より、地方色を味ふことを喜ばれるので、私どもはできるだけその希望に副ふやうにつとめたのであった。たとへば栗飯や芋飯をたべさすことや、古びた黒ヂョカ(焼酎を温めるとき用ふる小薬缶の代用をなす土瓶)で芋焼酎を呑ましたり、
山本も世間の荒波に散々揉まれた苦労人なだけあって、このあたりの接待技術は一廉のものといっていい。
果たして効果は覿面だった。一行の栄之尾温泉滞在はたった四日の短きに過ぎなかったにも拘らず、その僅かな期間中、与謝野鉄幹は103首、晶子の方は173首、霧島を題材にした歌をそれぞれ詠んだ。
驚異的なレコードである。
その中から特に秀逸な出来の句を手前勝手に撰んでみると、
まじりて赤し
沙羅の花おほなみ池へ行く路の
ふかき林の霧まじり散る
大浪の池の岩垣そのなかに
鳴きてこだます山ほととぎす
湯に打たれ荒木の小屋の片隅に
あぐらを組めば渓白みゆく
高千穂は中空にあり我が行くは
虹のいろする西の
だいたいこんなところであろう。
(大浪池にて)
一事が万事、この調子で、一行は膨大な数の歌を生産しながら旅路を進めた。
山本の生家を訪ねたときは、
いまさぬ今日も家をだに見ん
大気なる我が実彦がをさなくて
物読みし家竹の涼しき
昵懇ぶりをありありと示す、この二首を。
薔薇色をしてめぐりたる船
山すこし遠のくごとく夕空を
木立と橋のうへに置くかな
いと赤く大河のはての西海に
入る日を見つつわが涙おつ
ゆたかにも満ちたたへつつかつ動く
川内川の夕風を愛づ
なお、鉄幹の句は黒色で、晶子の句は赤色で分けている点、諒解されたし。
(川内川)
斯くて出来上がった薩摩行の歌の束。帰京後山本は与謝野夫妻に特に頼んで、その中から各々100首ずつ撰んでもらい、綺羅星にも比すべきその歌群を、手ずから屏風に書いてもらった。
もし現存していれば、その価値は計り知れない域であろう。
昭和十年、鉄幹が息を引き取り、通夜を終えたその晩も、山本はこの屏風をじっと見据えて、在りし日の追憶に没頭している。
あの時分寛さん(筆者註、鉄幹の本名)は頑剛無比だった。暑いさかりにもかかはらず霊峰高千穂を踏破し、大浪池、蝦野ヶ原、白鳥山、四十八谷を跋渉して宿に帰ってからもすこしのくたびれも見せずわれわれと戯談に夜をふかし、芋焼酎を酌んだりされたものだった。そして与謝野さんが山に登らるる前夜、私は絹茸にあてられてひどい腹痛を覚え同伴ができなくて、却って客人たる両人から夜遅くまで慰問されたことをまざまざと思ひ出すのだ。(286~287頁)
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