田中正造は激怒した。全身の毛穴という毛穴から血を噴かんばかりに激怒した。
行政機関打ちとまるなり
役人は庚申様に早変り
見まい聞くまい話すまいとぞ
この時期に、彼の作った歌である。
栃木県では十万の民草が鉱山の毒に呻吟している。四万町歩の田畑が荒廃している。恵みを齎す渡良瀬川は、生命の棲めない「死の川」と化して陰鬱に波を打っている。
にも拘らず、政治家も役人も、調査目的で派遣された学者連もどうであろう。皆、古河とかいう成金野郎に鼻薬を嗅がされて、碌な対策も立てなければ何一つとして実のある事を言いやしない。この冷淡、この無関心よ、これが人間の為す業か――と、田中は連日叫び続けた。
明治三十年の議会に於ける演説は、彼の痛憤絶頂に達したものだろう。
「人は自分の身にふりかからぬと、何を云っても分からぬものだ。若し榎本農商務大臣の向島の別荘で、菜が一本も出来なくなったらどうであらう。早稲田の大隈さんの綺麗な庭で、一本の草もなく、花もなくなったらどうであらう。伊藤さんの小田原の滄浪閣の砂が鉱毒であったらどうであらう。私は渡良瀬川の水を汲んで来て、榎本さんに飲んでもらひませう」
堂々たる国会議事堂のど真ン中でこれを言う、田中の度胸の物凄さときたらない。
しかも田中は、口舌だけの男ではなかった。これにほぼ等しいことを、後に実行しているのである。
順を追って説明しよう。
田中に「渡良瀬川の水を飲ませてやる。そうすれば鉱毒問題が我が身のこととして実感できるようになるだろう」とこっぴどく罵られた榎本だが、彼とてまるで手を打っていなかったわけではない。
この年の三月には技師を伴って栃木県に出張、荒廃した渡良瀬川の沿岸地をつぶさに見聞。帰京するなり大隈を
この閣議の結果、足尾銅山鉱毒事件調査会なる組織が発足する運びとなった。
委員長には法制局長
ところがこの調査会が出来るなり、どういうわけか榎本は、卒然辞表を提出し、内閣から去ってしまう。辞表には
「脳症に罹り激務に耐えがたい」
という意味のことが書いてあったが、鵜呑みにする馬鹿はいまい。
とまれかくまれ、これにて大隈重信が榎本武揚のポストであった農商務大臣をも兼任することになり、足尾銅山鉱毒事件の解決は宛然彼の手腕に託されたのである。
大隈はまず栃木県知事を更迭し、「硬骨」の聞こえが高く間違っても鼻薬など効かぬであろう
更に発足したての調査会を盛んに督促、全力を挙げて対策の研究に没頭させたその結果、ついに五月二十七日、三十七条から成る「鉱毒予防令」を古河市兵衛に下すに至る。
排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置、煙突への脱硫装置の設置命令等を盛り込んだこの「予防令」はどれも数十日の期限付きで、もし懈怠した場合には、銅山の鉱業停止すら迫るという、かなり厳しいものだった。
これにはさしもの古河とても顔色を変え、巨費を投じて工事を施し、何とか総てを期間内に竣工している。
さて、長々と話したが、田中は以上のような政府の措置に納得したか?
否である。断じて、断じて否である。
田中正造が求めたのは予防工事を施すなどと、そんな微温的な措置ではない。
足尾銅山の速やかなる閉山。これこそ田中の求める唯一の措置で、それ以外のすべては所詮外面を糊塗するだけの弥縫策に過ぎないと信じていた。
大隈の「対策」によほど失望したのであろう、この後田中は長年世話になったこの「親分」に、絶縁状を叩きつけに行っている。
しかもそのやり方が如何にも田中らしいというかまた独特で、紙ではなかった。
その日、大隈邸の門を潜った田中正造は、異様なものを携えていた。
樽である。
中身がたっぷり詰まって、如何にも重そうな樽である。
唖然とする家人をよそに、無言のまま庭園内に入り込んでゆく田中。やがて大隈が最も愛する庭樹の下まで到達すると、気合一発、根本めがけて樽の中身をぶちまけた。
液体ではない。
土だった。
渡良瀬川流域の、最も鉱毒が激しいと推定されるその地から、態々採取してきた土だった。
仰天して駆け寄る家人を払いのけ、
「大隈公に鉱毒の害を見せるのだ」
一喝した田中の形相は、既に人間のものではない。
はっきりと鬼相を帯びていた。
その夜、帰宅した大隈は一連の騒動の顛末を聞き、即座にその樹を他の処へ移させている。
(Wikipediaより、味噌樽)
明治十五年以来の両者の仲は、このようにして破断した。
田中正造は足尾銅山鉱毒事件の解決を見ぬまま、大正二年八月四日に死ぬ。
彼の危惧は正しかった。政府の「予防令」は遵守されたにも拘らず、二年後の明治三十二年にはもう「渡良瀬の水が白濁」するほどの鉱毒が川に垂れ流されている。
荒れはてし野を見るぞ悲しき
この時期に至ると、田中の心境は悲痛を通り越してほとんど絶望の色を帯びてくる。
「今日の政府……伊藤さんが出ても、山縣さんが出ても、まあ似たり恰好のものと思ふ。何となれば、この人達を助けるところの人が、皆己の財産を拵へようといふ時代になってきてゐますから、親分の技倆を伸ばすよりは、己の財産を伸ばさうといふ考だから駄目だ。どなたがでてもいかない。此の先をどうするかと云へば、私にも分らない。ただ馬鹿でもよいから、真面目になってやったら、此の国を保つことが出来るか知らないが、馬鹿のくせに生意気をこいて、此の日本をどうするのか」
明治三十三年二月の議会に於ける発言である。
翌明治三十四年に勃発した
このあたり、田中には知行合一をモットーとする陽明学の
臨終の朝、田中正造は病床の中から
「これからの日本の乱れ……」
と独りごちたとされている。
五七調であることから、或いは辞世の句を詠もうとしたのかもしれないが、その先が紡がれることは終ぞなかった。
享年、71歳。
「渡良瀬の義人」と呼び慕われた彼の遺骨は数ヶ所に渡って分骨され、渡良瀬川沿岸の諸村に厚く葬られたという。
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