高須梅渓は繰り返し、健康の重要性を説く。
強靭な肉体の中でこそ、雄渾な思想が練り上げられると、そう信じていたようだった。
(大日本帝国海軍、甲板上の相撲)
あるいは斯かる傾向は、「人間五十年」という決まり文句すら満たせずに中途死なざるを得なかった、明治・大正の文士らを記憶に留めていたゆえの反動だったやもしれぬ。
梅渓自身が箇条書きっぽくしてくれている、
「樋口一葉女史は僅かに二十七歳で死んだ。『西洋哲学史』の大著を書いた大西操山氏は三十七歳で死んだ。『吾人は須らく現代を超越すべからず』と叫んだ高山樗牛氏は、三十三歳で死んだ。『病間録』に見神の実験を告白した綱嶋梁川氏は、三十六歳で死んだ。其の他原抱一庵、大橋乙羽、森田思軒の諸氏も、四十歳に達しないうちに死んだ。殊に尾崎紅葉氏が三十七歳で胃癌のために斃れたのと、正岡子規氏が肺病のため三十六歳で長逝したのと、国木田独歩氏が三十八歳で茅ヶ崎で死んだことは、何れも痛惜された。
更に、四十歳時代には二葉亭四迷、斎藤緑雨、落合直文、末広鐵腸、川上眉山、岩野泡鳴、嶋村抱月の諸子が長逝した。四迷、抱月、泡鳴の三氏などは、未だ充分働ける見込みのある真っ最中に、突如として世を去ってしまったのだ」
と。
Wikipediaもないご時世に、よくもここまでずらずらと羅列し纏めたものだった。
(『ゆうえんち -バキ外伝-』より)
当該作業に耽りつつ、彼等の思想の老熟を見てみたかったと臍を噛んだに違いない。どれだけ天稟があろうとも、時を捧げて醸さねば発生しない味がある。
そして、だからこそ梅渓は、福澤諭吉を一つの指標と仰いで憚らなんだのだ。
一万円の象徴たる彼の人が日々の養生法として、居合に散歩、米搗き等々運動を決して欠かさなかったのは、既に幾度も繰り返し触れてきたことであったろう。
高須梅渓もまたその点に着目し、溜め息吐くほど感心したる一人であった。
具体的には、
「独立自尊主義の鼓吹者として、三田の大平民として、誰知らぬものなき福澤諭吉の事業は、其の健康な心身に負ふ所が大きい。彼の剛毅俊鋭を以てしても、身体が薄弱であったなら、あれ丈の事が出来なかったかも知れない。
彼は、日常、規則正しき運動を為して、心身の爽快を維持するに
ざっとこんな塩梅で――。
新紙幣の発行までもう二ヵ月を切ってしまった。
まったく何ということだ。時の流れが早すぎる。迫る別れに、切なさは日々増すばかり。福澤に関する記述なら、どんな些細なことであろうと引っ張り出して紹介したい衝動に駆られてしまって仕方ない。
自制心を引き千切る、リビドーめいた物狂おしさ。そんなモノから編み出されたのが、つまり今回の記事だった。
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