諜報密偵云々がらみで想起した。
福澤諭吉のことである。
彼の家には忍者屋敷みたような、特殊な仕掛けがあったのを。――
順を追って話すとしよう。
彼には敵が多かった。
楠公権助論に象徴される歯に衣着せぬ物言いで、壮士どもの怨念をずいぶん
この「蟲ども」の大半は、極めて自然な感情経路に基いて、福澤諭吉が地上から消滅することを望んだ。
あの野郎死ね、ということである。
否、そればかりでは止まらない。
ネットの海に罵詈雑言を垂れ流すのが精々な昨今とは違うのである。
戊辰の役の生き残りがごろごろし、幕末の殺気も色濃く残るご時世だ。
遠くに在りて願うだけなど生ぬるい、憎ったらしいあんちきしょうを俺がこの手で直々に、地獄の釜に叩き込んでくれようず――。こんな具合にいきり立ち、おっとり刀で走り出すのが明治のアンチの流儀であった。
首筋に寒気を感じる瞬間が、福澤自身、幾度となくあったらしい。
須田辰次郎、慶應義塾の門弟で、卒業後は『時事新報』にもいっときながら籍を置いたこの人物も、晩年に於ける懐旧談で、
「明治五六年頃、先生が思ひ切った議論を続々発表したので、世間では先生を暗殺せんとする者があると云ふ評判が立ち、夫れが為め、先生は外出の時に、宗十郎頭巾で頭部を包み、雨合羽を着て、其下に刀を差して居られたのは、随分滑稽な姿でありました」
こんな事情を暴露している。
(Wikipediaより、陸奥宗光。微行のため、宗十郎頭巾を着用)
大事な
とまれかくまれ、外出時はこれでいい。
残る課題は家の中に於いてであった。とち狂った馬鹿者がいきなり雨戸を蹴破って、くつろいでいる自分の頭上に刃を加えに来たならば、さて、どのように対応したものだろう?
ここでいよいよ冒頭の、
「忍者屋敷」
に話が繋がるわけである。
対策の一環として福澤は、緊急用の脱出口を準備した。
すなわち居間の一角に――普段はストーブを乗っけてある部分の床に隠し扉を設置して、そこを潜ればあな不思議、敵手の眼を欺いて外へ逃れられるよう、「抜け穴」を掘っておいたのだ。
ほとんど伝奇小説の設定めいた話だが、福澤自身が明治三十二年ごろ、薩摩の山本権兵衛相手につらつら語った内容だ。「嘘が吐けないから政治家にはなれない」と自嘲したほどの男が、である。半信半疑、否、八割強、信じてよいのではないか。
他にもまだ、証言者のアテはある。
岡本貞烋が
やはり慶應出身で、『時事新報』を
「流石其頃は用心したものと見え、寝室の隅にある押入より、縁の下に降りられるやうになって居り、其縁の下を降りて、又更に他へ通ずる穴でもありましたかどうか、夫れは知りませぬが、兎に角一時床の下に避くることの出来るやうになって居たやうです」
と、ある種「裏付け」と視るに足る、貴重な言葉を遺してくれた。
――暗殺は甚だ易し。如何なる愚人にても執念深くねらへば随分功を奏すべし。結局愚狂の二字を以て評し了すに足るのみ。
鋭利極まる、斯くの如き筆鋒は、ほとんど病的といっていいほど高潮された臆病心を背景に発揮されたものだった。
人間的な、あまりに人間的な啓蒙家。それがどうも、福澤諭吉であるらしい。
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