十和田湖は、かつて一匹の魚影だに認められない湖だった。
(十和田湖)
鏡面と見紛うばかりに澄み渡る、斯くも広々とした湖に、およそサワガニ以外の魚介類が皆無。神秘的ですらあるこの現象は、十和田湖がカルデラ湖であるに依る。
五万五千年前から一万五千年前までの約四万年間に渡って大規模な噴火を繰り返し、膨大な量の火砕流を吐き出した十和田火山。その結果、地底のマグマだまりが空洞化して、上部構造の圧倒的質量を支えられなくなり、あるときついに火口周辺が陥没。地に開いた大穴に、更に雨水等が蓄積されて出来たのが、現在我々の目にするところの十和田湖である。
成り立ちを鑑みれば、魚影なきも納得であろう。
が、昔の人はそんな科学的・地質学的な原因など分からない。彼らは理由を「神」に求め、
という一種の信仰を生み出した。
――その十和田湖で。
魚類の養殖をやろうとした和井内貞行が周囲から白眼視されたのは、ある意味自然な流れだったに違いない。
十和田湖をヒメマスの名産地と化すまでの、二十年に及ぶ苦闘の最中、彼は親類友人のみならず、「顔を知れる悉くの人々から、或いは狂と呼ばれ、愚と罵られ、あまつさえ神仏の罰なりと、あらゆる迫害を受け」続けた。その隠忍の日々の記憶を、明治三十六年七月下旬彼の家の「離れ」に泊まった三人の青年将校にかき口説いている。
弘前に置かれた第八師団より十和田湖探勝のため二昼夜を費やしやって来たこの一群の、「会計主任」の人物の名は薄田精一。
前回の記事にて取り上げた、「萬年中尉」その人である。
彼らがこの地を訪れたとき、七月であるにも拘らず湖水はまるで氷の如く、これを掬えば冷たさに堪えられぬほどだったという。これ幸いと持ってきた酒やリンゴを水面に浸し、悠々と盃を交え存分に景勝を愉しんだあと、一行はいよいよ湖畔にたたずむ和井内宅を訪れた。
その間の消息を抜粋すると、
斯くて三人は、和井内氏宅に落ちついた。そして湖心に付き出した「離れ」の一室を占領した。涼風湖面を吹いて、夏とは思はれぬ。全く塵外の仙境で、羽化登仙の想ひがする。(中略)夕陽全く西に沈み、夕暗漸く迫る頃が一番詩的で、又神秘的な感じがする。湖畔はいやが上にも静寂を加へて来た時、当主、和井内氏が静かに部屋を訪れた。そして同氏の十和田湖に於ける、姫鱒養殖の苦心談を傾聴した。(『萬年中尉』62頁)
何も和井内氏は最初から、「十和田湖に放すならヒメマスだ」と見切っていたわけではない。
それ以前にもコイを筆頭とした様々な魚類の卵や稚魚を放流し、しかしはかばかしい結果を得られず、負債ばかりを膨らませている。
当然、生活は困窮した。
遂には喰ふに食なく、着るに衣なく、和井内夫人は、発荷峠に小屋掛けをし、三文店を開き、十和田湖探勝者の休み場とし、僅かの買い上げを得て、露命を繋ぐといふやうな悲惨な生活を続けた(同上)
そんなどん底の闇溜まりから、漸く見出した一筋の光明。それがヒメマスだったのである。
北米大陸やカムチャッカ半島を原産とし、日本に於いても北海道の阿寒湖等で棲息が確認されるこの魚の存在を和井内氏が知ったのは、全くの偶然からに過ぎない。
だが、彼はその情報に飛びついた。「北海道に棲めるなら、十和田湖でも棲める魚に違いない」――。そう見積もって、最後の望みをヒメマスに託した。
日露戦争勃発間際のこの時期は、丁度第一回目の放流――卵から孵化させたヒメマスの稚魚三万尾を放ったばかりで、これが十和田湖にちゃんと定住してくれるか否か、成否のほどを占っているころ。期待と不安で氏のアタマが破裂しかけていたのは容易に想像出来るところであって、そんな最中訪ねて来た青年将校達に対してつい口が軽くなったとしても、これは已むを得ぬことだろう。
薄田精一のような、爽やかで快い若者相手ならば特に、である。
斯くて四人は、或は笑い、或は談じ、時の移るを知らず、夜色沈々として、冷気肌寒きを覚えて、僕と和井内氏とは床に入ったが、二酒豪は容易に杯を置かず、黎明に至ったさうナ。(63頁)
一行は更にもう一泊を重ね、今度は和井内婦人をも交え、夜の更けるまで語り明かして飽かなかったという。
他に訪客のアテがないからこそ出来る真似であったろう。
功成り名遂げた後からではこうはいかない。現に日露戦争後、薄田氏は再び十和田湖を訪れているが、そのとき味わった印象は、「初回」とはだいぶ趣を異にしている。
湖畔の往事を想ひ出して懐旧の情に堪へず、三本木より
感傷が文面いっぱいに滲んだものといっていい。
(冬の十和田湖)
のち、和井内貞行は皇太子時代の大正天皇が東北を御巡幸なされた際、特に拝謁を許されて、十和田湖に於ける養魚事業の功績により緑綬褒章を賜っている。
大正十一年、64歳で永眠。
彼の為した仕事の成果は今もなお、十和田湖の清泉を遊弋し、彼の地を潤わせ続けている。
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