どことなく、近江商人に似ているように思われた。
遡ること一世紀半前、夢を抱いてアメリカに渡ったユダヤ人たちの姿が、である。
新大陸にたどり着いたこの人々がいの一番にやることは、およそ相場が決まっていた。
先着の同民族からわずかばかりの資本を借りて、ストリート・カートと古着を仕入れて来るのである。
ここで言うストリート・カートとは、秋葉原をぶらついていると時たま出くわす、マリオのコスプレをした外国人が喜色満面で乗り回している、F1カーのミニチュアみたような例の四輪車のことでない。人力で容易に曳き動かせるよう、把手と車輪が取り付けられた、ワゴン店の亜種とでも考えて欲しい。
これならば家賃を払わずとても商売ができる。さしたる
後にクーン・ローブ商会を率いるジェイコブ・シフも、若い時分はこれをやった。
(Wikipediaより、ジェイコブ・シフ)
1847年にドイツのフランクフルトに生まれ、19歳でアメリカへと渡ったシフは、実に一介の露天商からの叩き上げに他ならなかった。ダルマさんこと高橋是清と握手して、日露戦争の戦費の大半を引き受けてくれた
一方、近江商人の生態である。
これについては私が喋々するよりも、滋賀県草津村の出身で、医学博士にして文筆家、高田義一郎の口吻をそのまま引いた方がいい。
年頃になれば、天秤棒一つと草鞋銭位を持たして、何処でも勝手に行けと云って親の家から逐ひ出してしまふ。それが何とかして自分の力で一人前の店の主人となれば、改めて分家の待遇もすれば、親の跡も相続させるが、独立する事が出来なければ逐ひ出された日限り、永久無限の勘当で、誰一人親類のつき合ひもしてくれない。此の背水の陣を構へた商法が功を奏して、近くは京阪地方から遠くは北海道の果までも、近江屋の屋号の古風な店はかなり沢山ある筈で、結局「近江泥棒」といふ悪口までも叩かれて居るのは、此の反證として考へることが出来る。(『らく我記』472頁)
ジェイコブ・シフも卑しからぬ家系の
どうだろう、「天秤棒一つと草鞋銭」だけを手に叩き出される近江商人の伝統と、どこか重なって見えないだろうか。まるで交渉のない別大陸の民族がある種の相似的習性を描き出す。その数奇さに、なにか湧き立つものがある。
なお、折角なので触れておくと、第一次世界大戦勃発当時、ジェイコブ・シフは高橋是清を通じて日本政府に警告した。
決してドイツに宣戦布告しないよう、旧恩を持ち出してまでなりふり構わず警告した。
クーン・ローブ商会は、創設者のソロモン・ローブからしてドイツ系ユダヤ人の出身であり、必然としてドイツ側との紐帯がすこぶる強い。かつて展開した鉄道敷設事業をみても、その資本の大部分はドイツ方面から引っ張って来られたものだった。
斯様な背景を負うシフが、日本の連合側での参戦を喜ぶ道理もないであろう。ところが秋の日本政府――第二次大隈内閣は一連の呼びかけを黙殺し、日英同盟を梃子として、シフの望まぬ宣戦布告を行った。
果たしてシフは激怒した。彼は日本の忘恩を責め、日本人会を去り、日本の勲章を放棄した。
欧州大戦こそは、実にモルガンとクーン・ローブの運命の岐路とされている。それまで商売敵として鎬を削り続けてきた両者中、前者は浮かび、後者は沈んだ。ドイツ色の濃いクーン・ローブよりも、アングロサクソン系のモルガンこそを連合国は信用し、金融及び物資の供給源として盛んに用いたからだと一説に云う。
やや簡略に過ぎる構図だが、それなりの説得力はあるだろう。現実として、クーン・ローブ商会は後にリーマン・ブラザーズに合併され、名を失い、そのリーマン・ブラザーズとても近年経営破綻を迎えたに対し、モルガンは今なお金融業界の宙天に羽翼を伸ばし続けているのだから。
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