穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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釈迦が中道を説いたワケ ―山上曹源の見たインド―

 

「釈迦がどうしてあれほどまでに中道の徳を熱弁したか理解した」


 斯く述べたのは山上曹源霊岳を号する曹洞宗の僧であり、学究の才すこぶる厚く、第十三代駒澤大学学長の座に着いた者。


「およそインド人ほどに、両極端に突っ走りたがる民族というのもないからだ」


 七年に亘るインド留学の体験を経て、ついに掴んだ真理であった。

 

 

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(夕暮れのガンジス川

 


 の一端として彼はまず、苦行僧を上げている。生命維持の本能すらひしいで病的な禁欲生活を事とする、そんな人間集団を。


 以下、彼が目の当たりにした苦行の様子を箇条書きにしてみると、

 


・腕を頭上に差し伸ばしたまま兀座して、連日連夜、身動きすらしないもの。


・板張りの底から数百本の釘を打ち抜き林立させて、「針の筵」の強化版めいた器物を作製、その上に身体を横たえるもの。


・一日中、首から下を川の流水の中に浸け、心身の浄化を期するもの。


・左右の頬から頬へ数多の杭を刺し通し、無言の行に耽るもの。


・全裸になって死人の灰を体中に塗りたくり、妖怪さながらの風体を成すもの。


・尺取虫さながらに、道路に匍匐しては立ち、立っては匍匐するを繰り返しつつ何処へともなく進むもの。

 


 なんともはや、バリエーション豊かとしか言いようがない。


 手塚治虫の『ブッダで描かれたそのままではないか。

 

 

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(苦行僧。この姿勢のまま終日過ごす)

 


 21世紀現在でさえ、インド・ネパール一帯には400万から500万の苦行僧が居るという。


 況や山上曹源の渡った、20世紀明け初めし頃に於いてをや。猖獗を極めるその情景を、しかし外道に過ぎないと、この留学生は大胆にも裁断している。


「そもそも禁欲または苦行の如きは、克己の精神を鍛錬し、意志の力を強健にして、以って完全円満なる人格を造り上げるためにこそある。ところがこの連中ときたらどうであろう、明らかに苦行そのものが目的となっているではないか。自らを苦しめ、損なうことが、即ち天上界に生まれ変わる功徳行なりと誤信しきって、ますます極端の度を増してゆく。沙汰の限りと言うべきである」


 そう憤慨する一方で、まったく対極の思潮が行われている事実にも、やがて気付いた。


 所謂「順世派」と呼ばれる勢力である。


 この連中を、いったい何と形容すればいいのだろうか。エピキュリアンのインド版とでも為すべきか、ちょっと判断に迷ってしまう。

 

 

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(『アサシンクリード オデッセイ』より、アテナイの景色)

 


 その説くところは、徹底的な唯物論を基礎とした快楽主義の実行である。彼らはまず、目に見えぬすべての否定から始める。

 


「天上の世界も無ければ、究極の解脱も有り得ない。霊魂も無ければ、従って輪廻転生も認めない。また四姓の階級の区別カースト制度に何らの権威も宿らねば、人類の行為に対する如何なる応報も存在しない」


「天国も、地獄も、餓鬼も、亡霊も、一切合切、そういう不思議なもののある筈がない。死の先には何も無い、ただ消滅するだけのこと。愚者も聖者も、王も乞食も、この一点にかけては厘毫ほどの差異もない」


「されば諸人よ、今こそ目覚めよ。命ある間に、出来るだけ放縦逸楽を極めて暮せ。てるだけの友達から、可能な限り多くの金を借り倒し、一年三百六十五日、呑んで遊んで歌って食べろ。此の身ひとたび死したなら、何も残らず塵となる。世界を訪れ、快楽に耽る機会は二度とないのだ。山海の珍味を並べて死者の供養にあてるが如きは、畢竟司祭どもの生活を扶ける以外の何事にもならないと知れ」

 


 一連の「教義」を説き聞かされた山上は、目が点になるのを自覚した。


(……? こいつは、なにを、いっている?)


 頭が痛い。


 耳鳴りもした。


 悪酒を無理矢理突っ込まれでもしたかのように、視界が歪んで渦を巻く。人間、あまりにも理解を絶した「何か」に出会うと、神経が焼けつくものらしい。

 

 

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カルカッタ市街)

 


 順世派の起源は非常に古く、釈迦と同時期、紀元前五世紀前後に活躍した自由思想家、アジタ・ケーサカンバリンに端を発する。


 その後、外道扱いを受けるなどして哲学体系からは放逐されたが、思想自体は残り続けた。


 不思議がるには及ぶまい。


 あれほど人間世界を害した毒物、共産主義が未だに滅びていないのだ。


 一度社会に浸透した思想を駆逐するのは、本当に本当に難しい。

 


「此の主義を実行して居るものは、今尚ほ印度社会の上層下層を通じて、決して少なくない様である。即ち印度の王族とか、大名とか、素封家とか、或は下層の奴隷階級に属する人々の中には、此の派の熱心なる実行者が可なり多いのである」

 


 昭和六年、新潮社の『世界現状大観』に寄せた小稿、「印度の社会思想」を見る限り、順世派の根も相当以上に深かったようだ。


 片方に今生を等閑に附し、ひたすら来世のきらびやかさに憧れる苦行僧が居るかと思えば、もう片方には今生以外の自己を認めず、快楽の飽くなき追及にこそ人間の存在意義が見出せると説く順世派が、ちゃんと鎮座していらっしゃる。


 一事が万事で、インド人とはこのように、右なら右、左なら左でとことん偏り尽くさねば満足できない生物なのだ。繰り言になるがこれこそが、長い滞印生活で山上が会得した真理であった。


 斯様な性情の民族は、鞏固な国体建設に不向きなこと言うまでもない。混然一体として繁栄の道を歩むどころか、互いに嫉視反目し、内ゲバによるエネルギーの費消によって、徐々に衰退するだけだ。喜ぶのは国境外の狼たちのみ。イギリスという老練な調理人からしてみれば、焼菓子よりも分割り易かったに違いない。

 

 

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カルカッタにて、ヒンドゥー教徒イスラム教徒の衝突)

 


 山上曹源はこれをはっきり「印度文化の弱点」と看做し、「国家滅亡の原因を醸成」したものと糾弾している。


 もっと早く、二千年以上も前に同様の見解に到達した者がいた。


 仏祖釈迦牟尼その人である。


 ふたたび「印度の社会思想」からそのあたりの記述を引くと、

 


釈尊は両極端に走りたがる印度人の性癖をみづから看取されて、彼らを導くに中道の教を以てし、非常に八釜しく極端に走ることを誡められた。人もし釈尊宗教哲学の上から、断常の二見を両極端の外道の見として、力を極めてそれを排斥されたことに想ひ至ったならば、如何に釈尊が中道教の高調に腐心し給うたかを覚ることが出来るであらう」

 


 更に山上は言を進めて、

 

 

「印度文明なるものは、釈尊の中道教を奉じてそれを実行することによって、黄金時代を現出し、釈尊の教を忘却することによって、極端性を発揮し、遂に亡国の悲運を醸成したのである」

 


 とまで喝破している。

 

 

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仏陀像)

 


 留学前と後との間で、釈迦への敬意が幾倍にも膨れたようだ。


 あるいはこれも、「インドに行って人生観を変えられた」一例と言えるのではなかろうか。

 

 

ブッダ 1

ブッダ 1

 

 

 

 


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忘れ難きめしの味

 

 良きにつけ、悪しきにつけ。


 めしにまつわる記憶というのは容易に希薄化をゆるさない。


 生存に直結する要素だからか、当人自身意外なほどに後を引き、ふとしたはずみで表面化して、そのときの行動を左右する。


 たとえば宮崎甚左衛門だ。


 のちの文明堂東京社長も、若い時分はどうにも腰が落ち着かず、職を転々としたものだった。自転車屋に潜り込んでいたかと思えば、水夫として遠い洋上に浮んでいた時期もある。


 その遍歴中、さる縁により長崎の雑貨店に雇われた。

 

 

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(長崎港)

 


 店の名前は大名商館。本籠町に暖簾を掲げ、外国人をメインターゲットに絞っての商売を営んでいたものという。


 扱っている商品はどれもこれも目を奪うほど鮮やかなれど、入店間もない宮崎がそれらに触れる機会なんぞはむろん無い。ランプ掃除に始まって便所掃除に風呂沸かし、荷車の出し入れ等々と、丁稚奉公めいた雑役処理が主である。


 前の通りがちょうどおわい・・・屋の巡回経路となっていたので、そいつの桶からこぼれ出た汚物の処理も新入りの役目として押し付けられた。このあたり、外人向けの商売をしながらその内面は、典型的な日本人らしい陰湿さに満ちている。


 これで月給がわずか三円。月に休みは一度きり。その一度の休みを返上すると、御褒美として五十銭の手当てが貰える仕組みであった。


(五十銭。――)


 明確なビジョンはさっぱりなれど、いつか独立して自分の店を持ちたいとの夢だけは、宮崎の胸に常にある。若い血肉を痛々しいばかりに疼かせている。


 そのときのために、今は一厘でも多くのカネを貯めておきたい。


 夢が、野心が、彼に無茶を厭わせなかった。ほとんど毎月、宮崎は休みを返上し、身を粉にして働いた。


 睡眠だけが、彼の唯一の慰安であった。普通ならここに「食事」の二文字が加えられていいのだが、いかんせん当時の炊事役が最悪だった。前述した「日本人らしい陰湿さ」を掻き集めては鍋にぶち込み煮上げに煮上げ、結晶化させたような輩であった。

 


 …炊事は五島から来た女中任せで、その女中というのがコスイ女だったから堪らない。主人から渡されたおかず代のピンをはねて、いつもイワシやアジと葱を辛く煮つけたようなものばかり食わせ、ウドンとかソウメン等汁気のものは食べさせなかった。(中略)飯を惜しがる主人は、こんなことをやるものだ。朝のご飯なら、前の晩にやわらかめに炊いておくのである。そうすると、冬は冷たく凍っておるので、なかなかのどを通らないという仕掛けである。嘘のような話だが、昔の商人には、こんなことをやった人もあったのである。しかし、そんな店は、ほんとうの長い繁昌はしないようだ。(『商道五十年』52~53頁)

 

 

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 やがて文明堂の社長となった宮崎は、自己の経験を存分に活用。「店員や工員の食事については、いつも、栄養のあるおいしいものを充分に食べさせるよう、また温かくして出すよう、特別気をつけさせて」いたという。


 同じ苦しみを味わわせて憂さを晴らすにあらずして、きちんと反面教師にしたあたり、流石の器量といっていい。


 もう一人、どうしても本稿中で触れておきたい者がいる。明治の元勲、初代内閣総理大臣伊藤博文その人である。


 彼の少年時代の経歴に、「若党奉公」の四文字がある。


 井原素兵衛なる六百石取りの大身の家に雇われて、使い歩きや道具持ち、その他種々の雑役に精を出したものだった。


 貧家に生れた常として、それ自体は珍しくない。


 妙なのは、この時期の伊藤が頑として、冷飯を喰わなかったことである。


 女中が飯櫃を差し向けても、中身が冷え切っていた場合、ただの一粒も口に入れない。喰う真似をしてその場を繕い、機を見てそっと道具一式を片付けてしまう。

 

 

Rice in the wooden tub

 (Wikipediaより、白木の飯櫃)

 


 味覚というより、どうも気位の問題らしい。鷹は飢えても穂を摘まずを実践している心算つもりだろうか。少なからぬ同輩がそう受け取って、


「いやなやつだ」


 とささやき合った。


 気高さゆえに冷飯喰いを拒むというなら、同様の環境に甘んじている大勢の立場はどうなるであろう。暗に見下されているも同然であり、この点はなはだ面白くない。


「百姓生まれの分際で、何を肩肘張りやがる」


 およそ愚劣な言いがかりだが、この程度の小人が絶えずウヨウヨ跋扈するのが浮世という場所であり、藤公自身そのことを、全身で学ぶこととなる。


 が、それと同時に、どの界隈にも変わり種は居るとみえ。


 井原家に奉公する顔触れのうち、ひとり前田という女中ばかりがこの伊藤を憐れがり、時折密かに温めためしを差し入れてやっていたそうだ。

 

 

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 ただそれだけの話だが、伊藤は決してこの「恩情」を忘れなかった。明治維新後、伊藤が前田某女に報いるところ極めて厚く、生活上の不安をなからしめたのはもちろんのこと、更にはその子を東京に呼び寄せ、何くれとなく世話を焼き、洋々たる前途が広がるように取り計らうなど、とにかくちょっと度外れた礼遇ぶりを発揮した。


 彼女に貰った温飯が、よほど味わい深かったとしか思えない。伊藤にとって、それは断じて「些事」でなかった。


 食い物が絡むと、恩も怨みもおそろしい。いとも容易く深刻化する。その象徴たる例だろう。

 

 

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とある維新志士のうた

 

 

窓近き竹のそよぎも音絶えて
月影うすき雪のあけぼの

 


 この歌の詠み手の名を知るや、私が受けた衝撃は、ほとんど玄翁でこめかみを強打されたのと大差ない。


 山縣有朋なのである。


 それも十三歳のころ、辰之助の幼名時代の作というからいよいよ驚く。

 

 

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 あの沈毅な面貌、怜悧そのものといった骨柄のどこに、斯くも繊細な詩心を秘めていたのだろうか。


 まだある。

 

 

黒けむり立てゝ戦ふ筒の音の
響にも又散る紅葉かな

 


 第二次幕長戦争のさなかにあって詠んだもの。


 当時の山縣、既に奇兵隊を掌握している。海上の高杉と協力し、各地で幕軍を打ち破り、輝かしい戦功を立てた。


 にしても、砲煙弾雨に晒されながら山水風雅を愛でるというのは、なかなか尋常なものでない。そこは流石に武士の子で、よく胆が練れていたようだ。

 

 

Keiheitai

Wikipediaより、奇兵隊

 

 

伊予の島安芸のいそやまとりどりに
追手の風の面白きかな

古さとはちまきあやめを取交ぜて
我行く旅を祝ふなるらむ
 


 幕長戦争の停戦後、山縣は情勢探索の命を受け、密かに上洛、相国寺薩摩藩邸を拠点とし、諜報活動に勤しんでいる。


 これはその任務の初め、船中にて詠んだもの。情勢は変わりつつあるといえども、京都は未だ、長人にとって超危険地帯のままである。まかり間違って新選組に嗅ぎ付けられれば、山縣の首はたちどころに胴体から落ちるであろう。

 

 

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やすらへと木のめくむ子の言の葉も
都はことになつかしきかな

高瀬川さをとるきしの舟人も
都の手ぶりなつかしきかな

さしくだす淀の川瀬の涼しさと
月にとまでは思はざりけり

 


 死を間近に置く緊張が、却って感受性を高めたか。この潜入任務の期間中、山縣はいくつもの優れた句を詠んでいる。

 

 

るろうに剣心

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友垣、竹垣、えらい餓鬼 ―久保塾時代の伊藤博文―

 

 伊藤博文が師と呼ぶ相手は四人いる。


 一人は三隅勘三郎。伊藤の郷里、束荷村の寺子屋師範。八つのときに彼に就き、伊呂波の如き初歩の初歩を教わった。


 二人目が久保五郎左衛門。萩の城下で家塾を営んでいた人であり、この久保塾で藤公は、読書や詩文、習字といった「手習い」ならぬ「学問」をした。入門時、およそ十二歳。『藤公余影』に当時の景色を徴すると、

 


 …久保塾は当時七八十の門生あり、奨励の為之を東西両組に分ち、各組共に主席より五人迄は、相撲なれば所謂幕の内とも称すべき処にて、師より特に號を与へられたり、予は伊文成と称せられ、何人にも後れを取らざりしが、独り吉田稔丸と称する者には一籌を輸したり。彼は実に天稟の英才なりしが、後京都に於て闘死せり。(53~54頁)

 

 

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Wikipediaより、吉田稔麿

 


 また久保五郎左衛門は伊藤に関して、


「利助の将来は測り知ることが出来ぬ、他日非常な大人物になるに相違ないが、若し過つと始末に負えぬ代物となるやも知れんぞ」


 と、ひどく意味深なことを言ったとして知られてもいる。


 三人目、この久保の次に当たるのが、ご存じ来原良蔵だった。


 伊藤が道を過たず、「手に負えぬ代物」と化さずに済んだ淵源は、まったくこの来原に帰すといっていい。


 来原の導きは見事であった。ありあまるほどの伊藤の野気を削るではなく洗練して士魂の域まで昇華させ、武士の名乗りに相応しいを伊藤の中に養った。


 藤公自身、来原の像は強烈な印象を以って記憶に根付き、『藤公余影』の回顧の中でも、

 


 彼れ豪胆にして実に克己心に富み、学識又深遠真に文武両道の達人と称すべき人にして、其意思の強固なる、予は生来今日に至る迄、未だ嘗て彼の如き人を見たることなし。(中略)彼の予を教ふるや、実に懇切を極め、予に一生忘る能はざるの好教育を与へたり。(56~57頁)

 


 最大限の讃辞を捧げて惜しまなかった。


 なんとなれば四人目の吉田松陰より敬意が厚い。松下村塾で伊藤が得たのは、感化というより人脈であろう。そういえば彼が松下村塾に入門した契機きっかけも、やはり来原の紹介状に依るものだった。その恩沢、いよいよ大と言わねばならぬ。

 

 

Hirobumi Ito 2

 (Wikipediaより、志士時代の伊藤博文

 


 さて、伊藤博文が二番目の師、久保五郎左衛門に就いていたころ。


 同門に吉田某という者がいた。むろん、稔丸とは姓が同じなだけの別人である。藤公は殊の外この某と馬が合い、講義終了後はいつも、通心寺境内の天神社に二人揃って参詣し、成績向上を祈願していた。


 ところがある日、その「日課」中、些細なことから口論になり、帰り道の間じゅうつばきを飛ばして互いを罵り、家に着いてもまだ終わらない。竹垣越しに、なおも舌刀をふるい続ける。


 伊藤が垣の内側で、吉田が通りに立つ格好だ。


 豈図らんや、先にキレたのは伊藤であった。足下の削ぎ竹をひっつかみ、その切っ先をずい・・と見せつけ、


「いい加減に黙らねえと、次はこれだぞ」


 語気も荒く凄んで見せた。


 完全に幼児に逆戻りしている。戦ごっこに敗けたくなさに枯野に放火してのけた、あの幼い日の昂ぶりが、再び脳を支配していた。

 

 

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(『江戸府内 絵本風俗往来』より、「子供の喧嘩」)

 


 一方、吉田某の方にも既にはずみがついている。


「やれるもんならやってみやがれ、この野郎」


 売り言葉に買い言葉、勢いづいたのが不幸であった。


 刹那、異様な音がして、衝撃と共に眼窩の奥で星がまたたく。


(……?)


 鼻の下がいやに熱い。


 伊藤の腕がぐっと伸び、本当に突きを入れていた。


 痛みが来たのは、そうと気付いてからである。切っ先の鋭さは予想以上で、上唇をざっくり貫き、血が舞い飛んで地面を濡らす。


「あっ」


 大騒ぎにならざるを得ない。


 医者が呼ばれ、何針も縫う手術をやった。


 吉田某の面白さは、これほどの目に遭わされたにも拘らず、べつだん伊藤との仲が冷えもしなかったことである。暫くすると、また肩を並べて天神社に参詣していた。

 

 

Hagi old town

 (Wikipediaより、萩城下町)

 


 遥かな後年、明治政府の大官として押しも押されもせぬ身分になった藤公が萩の街に凱旋したとき、やはりこの吉田某と顔を合わせて大いに久闊を叙している。


 自然、懐旧談に話が流れた。


 その途中、吉田はやにわに顎を突き出し、


「公爵にはこの疵を御覚えあるか」


 上唇の縫い目を指してそう訊いた。


 伊藤は悪びれる風もなく、


「ウン能く覚えている」


 こっくり素直に頷いている。


 一拍間を置いたのち、両者は哄笑を爆発させた。事前に打ち合わせでもしたかのように、ぴたりと呼吸いきが合っていた。


 竹馬の友とは、そういうものであるらしい。

 

 

元老―近代日本の真の指導者たち (中公新書)

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長州藩の悪童事情 ―火遊びに耽る伊藤博文―

 

 武士の資質とはなんであろうか。


 ほんの座興に死んだり死なせたりできる、ある種の狂気がそう・・ならば、伊藤博文は間違いなく生まれついての武士だった。

 

 

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 彼がまだ利助といって、父の破産の不手際により、母方の実家――秋山長左衛門宅に預けられていた頃のこと。


 利助は危うく、同年代の朋輩たちをまとめて焼き殺しかけている。


 いくさごっこに負けそうになったという、ただそれだけの理由でだ。


 以前の記事でも触れた通り、利助は腕白な餓鬼だった。木の棒、竹の棒を拾い上げては腰にぶち込み、武士を気取って得意がる。常にお山の大将として他の少年らを睥睨したがり、その座を脅かさんとする者あらば、年上だろうが関係ない、あくまでこれを撃退せんと、腕力沙汰に突進して憚らぬ。


 そういう利助だ。自分が指揮する戦場で後れを取るなど、たとえゴッコであろうとも、到底肯んじられる光景ではない。


 ところがその肯んじられぬ展開が起きてしまった。


 声を嗄らして激励しても一向効なく、どんどん押し込まれてゆく味方たち。その不甲斐なさに、利助の堪忍袋はいとも容易く破裂した。


(どうするか、見ろ)


 折りしも時期は初冬の候、山は色を喪って、野にも枯草が広がっている。


 その一角、萱の群生地帯へと、利助は敵を誘い込んだ。撤退するふりを装い、その実自分たちが風上を取る狡猾さを発揮しながら。


 で、火をかけたというわけである。


 ほんの僅かな躊躇もなかった。


 敵の姿はあっという間に煙に包まれ、咳き込む声が木霊する。利助の当初の予定では、こうして十分にひるませてから突撃し、一気に勝負を決してしまう算段だった。


 しかしここで誤算が起きた。火のまわりが、想像を超えて早過ぎたのだ。

 

 

Imperata cylindrica tigaya colony

 (Wikipediaより、チガヤ)

 


 炎の壁があちら・・・こちら・・・を峻厳なまでに隔ててしまい、とても突撃どころではない。呆然として為す術なかった。


 向こうも向こうで煙に咽んでいる内に、逃げ損なって火傷する者がだいぶ出た。


 もはやゴッコの域ではない。


 死人が出ずに済んだのは、単なる幸運に過ぎないだろう。


 さあそうなると、父兄らも黙っていられない。憤りも顕に顔を朱に染め、徒党を組んで秋山家へ談判に来る。


 それでも家族一同が平謝りに謝ると、しぶしぶながらも怒りを解いてくれたあたり、長州人の気質というのがよくわかる。なんとなれば当時の萩の街に於いては、阿武川の礫合戦」なる非常に物騒な行事があった。


 悪童の盛典といっていい。

 


 それは毎年春から秋にかけて行はれるので、一方は川島、土原等の各部落から、又一方は椿郷、松本の荘などの各部落から、いづれも腕白小僧達が、手に手に得物を携へて阿武川の両岸に集まり、各自礫を掴んで投げ合ふところの、対岸の腕白者相手に川を挟んでの合戦である、而して其数実に数百の多きに達するとさへ唱へられる程の盛況を見るのであった。
 即ち双方に旗頭があって、礫の投げ合ひの折を見て、餓鬼大将の命令が一下すれば、今まで堤の上に相対して居った河童坊主共が、一斉に河中に飛込んで、敵方に向って猛烈な突貫をする。中には竹槍を持ってゐる者もあれば、又棍棒や日本刀を持って水中に躍り込み、追ひつ追はれつ、或は組み合ひ、或は斬り合ひ突き合ひ、敵も味方も血潮を流して戦ひ合ふ様はさながら少年軍の実戦で、壮絶といはうか、勇烈といはうか、寧ろ危険の極に達してゐる。(昭和六年、岩崎徂堂著『壮談快挙 歴代閣僚伝』61頁)

 

 

View of Hagi city

 (Wikipediaより、指月山から望む萩市街)

 


 こういう「競技」を定期的に繰り返している土地である。


 木強といえば薩摩ばかりが取り沙汰されるきらいがあるが、長州も大概といっていい。関ヶ原の怨念を三百年間、保ち続けただけはあるのだ。


 野を焼き払い、朋輩を殺しかけておきながら、平蜘蛛のように這いつくばって謝るだけで利助少年が赦されたのも、斯様な藩風あってこその処置だろう。利助、やがて成長した暁には、高杉晋作らと共に、品川の英国公使館を焼き討ちに行く。


 それを想うと趣深い。

 

 

 

 

 


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大戦前夜の工学者 ―地獄の鬼も出でて働け―

 

 我が国に於ける地熱発電の歴史は意外と古く、大正八年早春の候、海軍中将山内万寿治別府温泉掘削にまで遡り得る。


 坊主地獄近辺の地盤を八十尺ほど掘り進み、幸いにも案に違わず盛んな蒸気の噴出を見た。


 将来的な化石燃料の枯渇に備え、今のうちから代替たり得るエネルギー源を確保せんとの意気込みのもと、何年もかけて日本各地の温泉地帯を練り歩き、調査の果てに別府ならばと期待をかけた山内である。流石に嬉しかったものとみえ、溢出する感情のまま、こんな歌を詠んでいる。

 

雷公も船や車を押す世なり
地獄の鬼も出でて働け
 
 

Masuji Yamanouchi

 (Wikipediaより、山内万寿治)

 


 惜しむらくは同年九月に山内が世を去ってしまったことであろうか。


 事業は東京電燈研究所長の太刀川平治に引き継がれ、やがて大正十四年、1.12kWの実験発電に成功している。


 以上、一連のことどもを、私は本書『工業日本の進路』に触れてはじめて知った。

 

 

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 昭和十六年、工学博士加茂正雄により上梓された本である。

 


 国際間の折衝は結局実力によって解決されるのが常例である。凡そ如何なる国際条約も、実力さへあればこれを破棄することも可能である。実力によらなければ、またこれを実施させることも難しいのである。(108頁)

 


 大東亜戦争の開幕を目前に控えた時期だけあって、物々しい記述も多い。


 が、内容自体は正論であろう。所詮人間社会は力の世界だ。薄皮一枚めくってみれば、相も変わらず万人の万人に対する闘争が渦巻いている。そして近代以降の世紀に於いて、「工業」が国力涵養に果たす役割は非常に多く、また重い。加茂の話はそんな具合に展開してゆく。

 


 普仏戦争当時、中欧の農業国として知られたドイツが、戦後仏国より受くる償金の殆ど全部を科学の研究、工業の発達に向けた結果、工業国として遂に今日の大をなすに至ったことは、又国力の充実が工業の振興に伴ふものなることを裏書きする好適例である。(109頁)

 


 こういう合理的発想、冷厳なまでの現実認識は大いに私の好むところだ。最後まで興味を絶やすことなく、いい読書ができたと思う。

 

 

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(カイザー・ヴィルヘルム研究所)

 


 本書はまた、昭和十年の時点に於ける我が国鉄道路線の総延長が16535㎞であった事実も教えてくれた。


 以前、こちらの記事を書く上で参考にした大正二年のデータから、ざっと4000kmもの増設具合を示している。


 22年で4000㎞。


 年平均で181㎞、なかなかのハイペースではなかろうか。


 まあ、間に原敬という鉄道利権の第一人者を挟む以上、妥当なところやもしれぬ。


 加茂は更に話を進め、16535㎞のうち、電化が完了しているのは661㎞、全体のわずか4%でしかない事実に触れて、

 


 我国の如く至る所に水力が散在して居る国に在っては、広く之を電力化して鉄道の電化を促進し、可及的に燃料を節約する様心懸けたいものである。(97頁)

 


 意欲も露わに書いている。


 なお、2007年度調査に於ける日本の鉄道路線総延長は実に27337㎞を数え、地球を3/4周できる距離。電化率は67%に達するというから、加茂が聞けば隔世の感にさだめし瞠目するだろう。

 

 

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 一つ書き忘れたことがある。加茂正雄の出身が、愛媛県ということだ。


「神出鬼没の漫遊家」、件の布利秋といい、どうもこのごろ、伊予のくにびとと縁が濃い。


 なかなかどうして、面白い人材を産む土地だ。愛媛について、改めて学び直してみようか。そんな気分にもなっている。

 

 

まいてつ 1 (ファミ通クリアコミックス)

まいてつ 1 (ファミ通クリアコミックス)

 

  

 

 


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代替可能な多数の凡人 ―講談社という企業について―


 発行部数が百万を超える雑誌なぞ、あの何事も派手にやらねば気の済まぬアメリカならではの現象である。国土も人心もせせこましい大和島根でそんなことを望むのは、はっきりいって痴人の寝言、木に縁って魚を求むるが如き、どだい無理な註文よ。――


 そうした引け目が、長いこと日本の業界人を支配していた。


 これをぶち破ってのけたのが、講談社であり、『キング』である。

 

 

キング192501

 (Wikipediaより、『キング』創刊号)

 


 のっけからしてもう凄い。創刊号の段階で、いきなり七十万部を超える、絢爛華麗な登場ぶりを披露している。そのまま右肩上がりに業績を伸ばし、昭和三年十一月の増刊号では、なんと百五十万部の大台を突破。日本出版史に屹立する雄峰としてその名を不朽のものとした。


「雑誌王」の肩書もむべなるかな、人々は羨望のまなざしで野間清治を仰がざるを得なかった。


 そのうちの一人に、石山賢吉の姿がある。

 


 キングや講談倶楽部は、記事の種類が多い。そして、読者に対する親切心が溢れて居る。何処までも、読者に解り易いように、そして、一行のスペースも無駄にしないで、集約的の編輯をしてある。
 尋常一様の手段では、あゝした雑誌が出来るものではない。野間氏がよい上にも、よい雑誌を造らうと、絶えず号令して居るからであらう。(『事業と其人の型』53頁)

 


 こうした野間のひたむきぶりを「百パーセントに満足しない、百二十パーセントの人である」と評したことは、前回述べた。


 更に石山は一歩を進めて、こんなことを考えてもいる。斯くも優れた雑誌を出版せる講談社だ、きっと優れた人材が、雲の如くに集っているに違いない。あな羨ましや、まるで現代の梁山泊を見るような、そんな会社であるのだろう、と――。

 

 

Kodansha (head office 2)

Wikipediaより、講談社本館) 

 


 ところがいざ講談社の社員たちと接触を重ねて驚いた。目から鼻に抜けるような切れ者なんぞは一人も居ない。至って凡庸な顔ぶれが、ずらりと並んでいるだけである。


(これはどうだ)


 聊か的外れの感じがしたと、石山は正直に書いている。


 が、すぐ認識を改めた。


 確かに講談社は凡人の寄り集まりであるものの、決して雑然とはしていない。まるで工場の大量生産品を見るように、同一規格にきちりと嵌った整然さがあったのだ。

 


 講談社の人は、誰に会っても、其のタイプは一つである。幾百の社員が一つタイプに生れた訳では勿論ない。講談社の社員になると、野間社長の感化を受けて、一つタイプになって了ふのである。
 何処の社にも、社風といふものがある。朝日新聞には、朝日式の社風があり、日々新聞には日々式、先頃廃刊した時事新報には、時事式の社風があった。
 然し、其の社風たるや、さほど色彩の濃厚なものでない。少し鈍感の者ならば、知らずに看過するほど淡彩なものである。
 処が講談社となると、其の色彩が判然として居る。一見して講談社の社員たる事が、判かる。(61頁)

 

 

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 おそるべき景観といっていい。


 統一性の鋭さは、そのまま組織としての力強さだ。確か、ヒストリエでも似たようなことを言っていた。


 単行本にして第六巻、マケドニア貴族メナンドロスの演説である。

 


 つまりだなあ 軍というのは個々ではなく集団なんだよ
 統制されてこそ最大の力を発揮する
 たとえばこちらの部隊に3~4人突出した能力を持つ武人が交じってるとするな?
 片やこちらの中には1人だけ能力の劣った兵がいて 部隊全員がその劣等兵の動作に合わせ統一した動きをとったとする
 すると不思議にこっちの劣等兵に合わせた部隊の方が強かったりするんだ
 要は「1つになる」という事
 そのためには兵の個性に合わせて思い思いの装備を作るのではなく統一規格の装備に全員が肉体を合わせるよう訓練してゆく
 1対1で負け 10対10で敗れても 100対100 千対千で勝てばよい!
 やがて英雄豪傑など不要となろう! それこそが理想のマケドニア軍なのだ!!

 


 どうやらこの方式は軍事組織のみならず、企業の上にも応用可能な哲理らしい。

 

 

Makedonische phalanx

Wikipediaより、マケドニアファランクス) 

 


 人々を一つ意志に染め上げる、それこそが指導者の資質であり、翻っては英雄の条件であるならば。


 野間清治が戦国風雲の中に生まれていたら、馬上天下をとったかもしれない。そんな想像も、ついしたくはならないか。

 

 

ヒストリエ(11) (アフタヌーンコミックス)
 

 

 

 


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