伊藤博文が師と呼ぶ相手は四人いる。
一人は三隅勘三郎。伊藤の郷里、束荷村の寺子屋師範。八つのときに彼に就き、伊呂波の如き初歩の初歩を教わった。
二人目が久保五郎左衛門。萩の城下で家塾を営んでいた人であり、この久保塾で藤公は、読書や詩文、習字といった「手習い」ならぬ「学問」をした。入門時、およそ十二歳。『藤公余影』に当時の景色を徴すると、
…久保塾は当時七八十の門生あり、奨励の為之を東西両組に分ち、各組共に主席より五人迄は、相撲なれば所謂幕の内とも称すべき処にて、師より特に號を与へられたり、予は伊文成と称せられ、何人にも後れを取らざりしが、独り吉田稔丸と称する者には一籌を輸したり。彼は実に天稟の英才なりしが、後京都に於て闘死せり。(53~54頁)
また久保五郎左衛門は伊藤に関して、
「利助の将来は測り知ることが出来ぬ、他日非常な大人物になるに相違ないが、若し過つと始末に負えぬ代物となるやも知れんぞ」
と、ひどく意味深なことを言ったとして知られてもいる。
三人目、この久保の次に当たるのが、ご存じ来原良蔵だった。
伊藤が道を過たず、「手に負えぬ代物」と化さずに済んだ淵源は、まったくこの来原に帰すといっていい。
来原の導きは見事であった。ありあまるほどの伊藤の野気を削るではなく洗練して士魂の域まで昇華させ、武士の名乗りに相応しい
藤公自身、来原の像は強烈な印象を以って記憶に根付き、『藤公余影』の回顧の中でも、
彼れ豪胆にして実に克己心に富み、学識又深遠真に文武両道の達人と称すべき人にして、其意思の強固なる、予は生来今日に至る迄、未だ嘗て彼の如き人を見たることなし。(中略)彼の予を教ふるや、実に懇切を極め、予に一生忘る能はざるの好教育を与へたり。(56~57頁)
最大限の讃辞を捧げて惜しまなかった。
なんとなれば四人目の吉田松陰より敬意が厚い。松下村塾で伊藤が得たのは、感化というより人脈であろう。そういえば彼が松下村塾に入門した
さて、伊藤博文が二番目の師、久保五郎左衛門に就いていたころ。
同門に吉田某という者がいた。むろん、稔丸とは姓が同じなだけの別人である。藤公は殊の外この某と馬が合い、講義終了後はいつも、通心寺境内の天神社に二人揃って参詣し、成績向上を祈願していた。
ところがある日、その「日課」中、些細なことから口論になり、帰り道の間じゅう
伊藤が垣の内側で、吉田が通りに立つ格好だ。
豈図らんや、先にキレたのは伊藤であった。足下の削ぎ竹をひっつかみ、その切っ先を
「いい加減に黙らねえと、次はこれだぞ」
語気も荒く凄んで見せた。
完全に幼児に逆戻りしている。戦ごっこに敗けたくなさに枯野に放火してのけた、あの幼い日の昂ぶりが、再び脳を支配していた。
(『江戸府内 絵本風俗往来』より、「子供の喧嘩」)
一方、吉田某の方にも既にはずみがついている。
「やれるもんならやってみやがれ、この野郎」
売り言葉に買い言葉、勢いづいたのが不幸であった。
刹那、異様な音がして、衝撃と共に眼窩の奥で星がまたたく。
(……?)
鼻の下がいやに熱い。
伊藤の腕がぐっと伸び、本当に突きを入れていた。
痛みが来たのは、そうと気付いてからである。切っ先の鋭さは予想以上で、上唇をざっくり貫き、血が舞い飛んで地面を濡らす。
「あっ」
大騒ぎにならざるを得ない。
医者が呼ばれ、何針も縫う手術をやった。
吉田某の面白さは、これほどの目に遭わされたにも拘らず、べつだん伊藤との仲が冷えもしなかったことである。暫くすると、また肩を並べて天神社に参詣していた。
(Wikipediaより、萩城下町)
遥かな後年、明治政府の大官として押しも押されもせぬ身分になった藤公が萩の街に凱旋したとき、やはりこの吉田某と顔を合わせて大いに久闊を叙している。
自然、懐旧談に話が流れた。
その途中、吉田はやにわに顎を突き出し、
「公爵にはこの疵を御覚えあるか」
上唇の縫い目を指してそう訊いた。
伊藤は悪びれる風もなく、
「ウン能く覚えている」
こっくり素直に頷いている。
一拍間を置いたのち、両者は哄笑を爆発させた。事前に打ち合わせでもしたかのように、ぴたりと
竹馬の友とは、そういうものであるらしい。
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