宮崎甚左衛門の『商道五十年』を読んでいると、「今に見ていろ」等逆襲を誓う意味の言葉が散見されて面白い。
前回の記事からおおよそ察しがつく通り、この東京文明堂創業者は極めて律義な性格で、しかしながらそれゆえに、劫を経た古狐のように悪賢い世間師どもの手練手管にやり込められて、煮え湯を呑まされることが多かった。
甚左衛門は偽善者ではない。
そういう場合、しっかり憤りを催している。
情なさと、口惜しさで、腹の中は煮え返るようであった――あのおやじは、おれをひどい目に会わせているが、人を苦しめるお前さんが出世するか、苦しめられるおれが出世するか、今に見ていろ――と、私はひそかに歯噛みしたのであった。(79頁)
こうして、表面だけは円満な手切れであったが、私の腹の虫はなかなかおさまらなかった。復讐などということではないが、今に見ていろ! ……といった気持はにえかえった。(114頁)
最終的にその感情は粘っこく怨恨化したりせず、教訓として昇華されるといえど、怒ることは怒るのだ。
そしてその都度、
やがて花咲く春に会わなん
とか、
とか、
とかいった句を口ずさんで己を奮い立たせたという。
(福寿草)
歌の正しい活用だろう。いや実に、甚左衛門は漢であった。人として男として生まれたからには、是非ともこういう弾性豊かな心を宿さねばならぬ。
――宮崎甚左衛門が呱々の声をあげたのは、明治二十三年二月十五日、長崎県南高来郡土黒村という、島原半島の一寒村に於いてであった。
家は貧しい。
にも拘らず子供は多い。
甚左衛門が生まれたとき、既に兄が四人いて、更にそのあと弟が一人できたというから、ぜんぶで六人兄弟ということになる。
典型的な「貧乏人の子沢山」の姿であった。
父は村の大工をやって、母は小作農として地面を掻いて、どうにかこうにか一家の食い扶持を賄った。
斯くの如き環境下では、子供も立派な労働力と看做される。
私が物心ついてからの明け暮れは、三里も離れた山へ薪をとりにいったり、馬に食べさせる草を刈りにいったり――しかも飯は芋飯か粟飯で、魚といえば、海岸から半里しか離れていない村でありながら、月に一、二回しか食べられなかった。(36頁)
赤貧洗うが如しとは、こういうものではなかろうか。
が、ふしぎと精神の格調は高かった。
甚左衛門の父親は厚く仏に帰依した人で、その教えを体現すること尋常ではなく、同様の敬虔さを子供たちにも要求して憚らなかった。このため彼の躾というのは、ときに鞭打つような厳格さを伴い行われたそうである。
盗みをするな、殺生をするな、賭けごとをするな、
以上の如き道徳律の数々が、幼く柔い甚左衛門の精神にどういう影響を齎したかは、想像するに難くない。「武士は食わねど高楊枝」「鷹は死すとも穂を食まず」「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」――杭打機の猛烈さで打ち込まれた数多の俚諺が、結局は彼の人生を強く支配することとなる。
具体例を挙げるなら、齢18歳の折、故郷を巣立って長崎の街で初めて就いた酒屋の仕事。これをたった二日で辞めてしまった一件が、まず相応しいと言えるであろう。
そこの主人が、酒に色付きの水を混ぜて不当な利益をせしめている光景を目の当たりにしたからだ。
当時はいまのような瓶詰ではなく、すべて樽からの計り売りだったが、一樽だけは水に色をつけたやつを用意しておくのである。そして、かりに一番安い酒が一円だとすれば、別に一円五十銭くらいの値段書きをつけておくのである。
そこでお客さんが、一円二十銭の酒を五合ください――と買いにくれば、ヘーイというので、一円二十銭の樽から四合ぐらい入れ、「おまけしときますよ」といって、一円五十銭の樽から色つきの水をチューッと注いで五合にし、ヘーイ、まいどありがとうございます――というわけである。
お客さんは、水を割られているとはつゆ知らず、あの酒屋さんはなかなか勉強してくれるよ――と喜ぶ仕掛である。まことに悪辣なことをしたものだった。(49頁)
「二日」というハイスピードが、甚左衛門の催した嫌悪感の強烈さを物語る。
ほとんど生理的の域に達していたと看做してよかろう。幼少教育の重要性が、自ずと悟られるではないか。
芋飯や粟飯ばかり喰っているのに嫌気がさして、商売人になろう、広い世間で大きく身を立て、憧れの銀シャリ生活を叶えようと一歩踏み出した甚左衛門。
が、人界はしょせん濁世であり、慾が何より優先される修羅道だった。
その只中に飛び込んで、なお廉潔で在り続けようとするならば、よほどの困難を覚悟しなければならないだろう。
実際問題、宮崎甚左衛門の生涯とは、試練に次ぐ試練の連続で休む間もなかったような観方も成り立つ。
が、本人がそれを苦にしていたとは限らない。彼のように太い神経の持ち主は、得てして困難相手の取っ組み合い――「闘争」それ自体の中に、生き甲斐を見出したりするものだ。
世渡りするには、呑まねばならぬものが二つある。それは、人と煮え湯である。人を呑む気概、これがなければ、世の上に立つことはできぬ。人に煮え湯を呑まされて、苦い経験を経なければ、ほんとうに世の中のことはわからないのである。(203頁)
これこそまさに、彼の人生を象徴した金言という感がある。
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