武士の資質とはなんであろうか。
ほんの座興に死んだり死なせたりできる、ある種の狂気が
彼がまだ利助といって、父の破産の不手際により、母方の実家――秋山長左衛門宅に預けられていた頃のこと。
利助は危うく、同年代の朋輩たちをまとめて焼き殺しかけている。
以前の記事でも触れた通り、利助は腕白な餓鬼だった。木の棒、竹の棒を拾い上げては腰にぶち込み、武士を気取って得意がる。常にお山の大将として他の少年らを睥睨したがり、その座を脅かさんとする者あらば、年上だろうが関係ない、あくまでこれを撃退せんと、腕力沙汰に突進して憚らぬ。
そういう利助だ。自分が指揮する戦場で後れを取るなど、たとえゴッコであろうとも、到底肯んじられる光景ではない。
ところがその肯んじられぬ展開が起きてしまった。
声を嗄らして激励しても一向効なく、どんどん押し込まれてゆく味方たち。その不甲斐なさに、利助の堪忍袋はいとも容易く破裂した。
(どうするか、見ろ)
折りしも時期は初冬の候、山は色を喪って、野にも枯草が広がっている。
その一角、萱の群生地帯へと、利助は敵を誘い込んだ。撤退するふりを装い、その実自分たちが風上を取る狡猾さを発揮しながら。
で、火をかけたというわけである。
ほんの僅かな躊躇もなかった。
敵の姿はあっという間に煙に包まれ、咳き込む声が木霊する。利助の当初の予定では、こうして十分にひるませてから突撃し、一気に勝負を決してしまう算段だった。
しかしここで誤算が起きた。火のまわりが、想像を超えて早過ぎたのだ。
(Wikipediaより、チガヤ)
炎の壁が
向こうも向こうで煙に咽んでいる内に、逃げ損なって火傷する者がだいぶ出た。
もはやゴッコの域ではない。
死人が出ずに済んだのは、単なる幸運に過ぎないだろう。
さあそうなると、父兄らも黙っていられない。憤りも顕に顔を朱に染め、徒党を組んで秋山家へ談判に来る。
それでも家族一同が平謝りに謝ると、しぶしぶながらも怒りを解いてくれたあたり、長州人の気質というのがよくわかる。なんとなれば当時の萩の街に於いては、「阿武川の礫合戦」なる非常に物騒な行事があった。
悪童の盛典といっていい。
それは毎年春から秋にかけて行はれるので、一方は川島、土原等の各部落から、又一方は椿郷、松本の荘などの各部落から、いづれも腕白小僧達が、手に手に得物を携へて阿武川の両岸に集まり、各自礫を掴んで投げ合ふところの、対岸の腕白者相手に川を挟んでの合戦である、而して其数実に数百の多きに達するとさへ唱へられる程の盛況を見るのであった。
即ち双方に旗頭があって、礫の投げ合ひの折を見て、餓鬼大将の命令が一下すれば、今まで堤の上に相対して居った河童坊主共が、一斉に河中に飛込んで、敵方に向って猛烈な突貫をする。中には竹槍を持ってゐる者もあれば、又棍棒や日本刀を持って水中に躍り込み、追ひつ追はれつ、或は組み合ひ、或は斬り合ひ突き合ひ、敵も味方も血潮を流して戦ひ合ふ様はさながら少年軍の実戦で、壮絶といはうか、勇烈といはうか、寧ろ危険の極に達してゐる。(昭和六年、岩崎徂堂著『壮談快挙 歴代閣僚伝』61頁)
こういう「競技」を定期的に繰り返している土地である。
木強といえば薩摩ばかりが取り沙汰されるきらいがあるが、長州も大概といっていい。関ヶ原の怨念を三百年間、保ち続けただけはあるのだ。
野を焼き払い、朋輩を殺しかけておきながら、平蜘蛛のように這いつくばって謝るだけで利助少年が赦されたのも、斯様な藩風あってこその処置だろう。利助、やがて成長した暁には、高杉晋作らと共に、品川の英国公使館を焼き討ちに行く。
それを想うと趣深い。
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