「釈迦がどうしてあれほどまでに中道の徳を熱弁したか理解した」
斯く述べたのは山上曹源。霊岳を号する曹洞宗の僧であり、学究の才すこぶる厚く、第十三代駒澤大学学長の座に着いた者。
「およそインド人ほどに、両極端に突っ走りたがる民族というのもないからだ」
七年に亘るインド留学の体験を経て、ついに掴んだ真理であった。
(夕暮れのガンジス川)
以下、彼が目の当たりにした苦行の様子を箇条書きにしてみると、
・腕を頭上に差し伸ばしたまま兀座して、連日連夜、身動きすらしないもの。
・板張りの底から数百本の釘を打ち抜き林立させて、「針の筵」の強化版めいた器物を作製、その上に身体を横たえるもの。
・一日中、首から下を川の流水の中に浸け、心身の浄化を期するもの。
・左右の頬から頬へ数多の杭を刺し通し、無言の行に耽るもの。
・全裸になって死人の灰を体中に塗りたくり、妖怪さながらの風体を成すもの。
・尺取虫さながらに、道路に匍匐しては立ち、立っては匍匐するを繰り返しつつ何処へともなく進むもの。
なんともはや、バリエーション豊かとしか言いようがない。
(苦行僧。この姿勢のまま終日過ごす)
21世紀現在でさえ、インド・ネパール一帯には400万から500万の苦行僧が居るという。
況や山上曹源の渡った、20世紀明け初めし頃に於いてをや。猖獗を極めるその情景を、しかし外道に過ぎないと、この留学生は大胆にも裁断している。
「そもそも禁欲または苦行の如きは、克己の精神を鍛錬し、意志の力を強健にして、以って完全円満なる人格を造り上げるためにこそある。ところがこの連中ときたらどうであろう、明らかに苦行そのものが目的となっているではないか。自らを苦しめ、損なうことが、即ち天上界に生まれ変わる功徳行なりと誤信しきって、ますます極端の度を増してゆく。沙汰の限りと言うべきである」
そう憤慨する一方で、まったく対極の思潮が行われている事実にも、やがて気付いた。
所謂「順世派」と呼ばれる勢力である。
この連中を、いったい何と形容すればいいのだろうか。エピキュリアンのインド版とでも為すべきか、ちょっと判断に迷ってしまう。
その説くところは、徹底的な唯物論を基礎とした快楽主義の実行である。彼らはまず、目に見えぬすべての否定から始める。
「天上の世界も無ければ、究極の解脱も有り得ない。霊魂も無ければ、従って輪廻転生も認めない。また
「天国も、地獄も、餓鬼も、亡霊も、一切合切、そういう不思議なもののある筈がない。死の先には何も無い、ただ消滅するだけのこと。愚者も聖者も、王も乞食も、この一点にかけては厘毫ほどの差異もない」
「されば諸人よ、今こそ目覚めよ。命ある間に、出来るだけ放縦逸楽を極めて暮せ。
一連の「教義」を説き聞かされた山上は、目が点になるのを自覚した。
(……? こいつは、なにを、いっている?)
頭が痛い。
耳鳴りもした。
悪酒を無理矢理突っ込まれでもしたかのように、視界が歪んで渦を巻く。人間、あまりにも理解を絶した「何か」に出会うと、神経が焼けつくものらしい。
(カルカッタ市街)
順世派の起源は非常に古く、釈迦と同時期、紀元前五世紀前後に活躍した自由思想家、アジタ・ケーサカンバリンに端を発する。
その後、外道扱いを受けるなどして哲学体系からは放逐されたが、思想自体は残り続けた。
不思議がるには及ぶまい。
あれほど人間世界を害した毒物、共産主義が未だに滅びていないのだ。
一度社会に浸透した思想を駆逐するのは、本当に本当に難しい。
「此の主義を実行して居るものは、今尚ほ印度社会の上層下層を通じて、決して少なくない様である。即ち印度の王族とか、大名とか、素封家とか、或は下層の奴隷階級に属する人々の中には、此の派の熱心なる実行者が可なり多いのである」
昭和六年、新潮社の『世界現状大観』に寄せた小稿、「印度の社会思想」を見る限り、順世派の根も相当以上に深かったようだ。
片方に今生を等閑に附し、ひたすら来世のきらびやかさに憧れる苦行僧が居るかと思えば、もう片方には今生以外の自己を認めず、快楽の飽くなき追及にこそ人間の存在意義が見出せると説く順世派が、ちゃんと鎮座していらっしゃる。
一事が万事で、インド人とはこのように、右なら右、左なら左でとことん偏り尽くさねば満足できない生物なのだ。繰り言になるがこれこそが、長い滞印生活で山上が会得した真理であった。
斯様な性情の民族は、鞏固な国体建設に不向きなこと言うまでもない。混然一体として繁栄の道を歩むどころか、互いに嫉視反目し、内ゲバによるエネルギーの費消によって、徐々に衰退するだけだ。喜ぶのは国境外の狼たちのみ。イギリスという老練な調理人からしてみれば、焼菓子よりも
山上曹源はこれをはっきり「印度文化の弱点」と看做し、「国家滅亡の原因を醸成」したものと糾弾している。
もっと早く、二千年以上も前に同様の見解に到達した者がいた。
仏祖釈迦牟尼その人である。
ふたたび「印度の社会思想」からそのあたりの記述を引くと、
「釈尊は両極端に走りたがる印度人の性癖を
更に山上は言を進めて、
「印度文明なるものは、釈尊の中道教を奉じてそれを実行することによって、黄金時代を現出し、釈尊の教を忘却することによって、極端性を発揮し、遂に亡国の悲運を醸成したのである」
とまで喝破している。
(仏陀像)
留学前と後との間で、釈迦への敬意が幾倍にも膨れたようだ。
あるいはこれも、「インドに行って人生観を変えられた」一例と言えるのではなかろうか。
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