穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

※当ブログの記事には広告・プロモーションが含まれます

令和二年の東京受胎


 本日発売のゲームソフト、真・女神転生Ⅲ NOCTURNE HD REMASTER』を買って来た。


「リマスター」とあるからには、当然元々のソフトが存在している。


 2003年にアトラスから発売されたPS2のタイトルで、その中古品が秋葉原の店頭に並んでいるのを幾度か見た。


 が、購入はしなかった。


 六千数百円という、法外な値札を付けられていた所為だった。二世代前の――もうすぐ三世代前になるが――機体のソフトがこれほどの高値を維持している現実に、驚きを禁じ得なかったものである。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201029172229j:plain

 


 ゲームを発売日に購入するのは、否、それどころかコンシューマーゲームに触れる自体、ずいぶんと久々なことである。


『ゴーストオブツシマ』を一通り終えてからというもの、ずっとフリーゲームに耽溺していた。


『UTOPIA』『SPIEGEL EI』『Follow me, please』『せとぎわメトロレギオン』『クチダケ』『ネノクニ』『妖刀伝』『暴食の街』『芥花』等々――だいぶ消化したように思う。


 個人製作・無料公開なだけあって、作り手の個性が躍如としていて面白いのだ。由来、あれやこれやと多方面に気兼ねして出来上がった創作物に、傑作のあったためしがない。ゲームという媒体に於いて、その傾向は特に顕著な感がある。


 まあ、それはいい。


 ところでフリーゲームというのは、そのほとんどが2D仕立ての、言うなれば古き良きSFC時代を想起させるものである。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201029172516j:plain

(『芥花』より)

 


 二ヶ月余りを経て、私はすっかりその画面に慣らされた。


 ここでいきなり、リマスターとはいえ、最新の3Dゲームをプレイする。何が起こるか。一種のジェネレーションギャップを味わえるのではないかと、そんな期待も抱いているのだ。


 いくつになっても、ゲームというのは面白い。

 

 

真・女神転生Ⅲ NOCTURNE HD REMASTER - PS4

真・女神転生Ⅲ NOCTURNE HD REMASTER - PS4

  • 発売日: 2020/10/29
  • メディア: Video Game
 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

パナマ運河と黄熱病 ―文明国の面目躍如―


 医療行為の最善が予防にあるということは、いまさら論を俟たないだろう。


 孫子の兵法になぞらえるなら、戦わずして勝つの極意そのものである。


 日本でも早くからこのあたりの要諦に気がついていた人はいて、中でも高野六郎という医学博士は、その最も熱烈な信徒であった。


 彼は文明というものを、極めて明快に定義していた。


 病人の少ないことを指すのである。

 


 文明国なるものは病気の少い国である。疾病予防の最も発達した国である。予防し得る病気を悉く予防し尽すといふことが文明の目標である。而して病気の予防が進歩し、健康が能く保たれる国民が今後の世界に於て優位を占めるであらうことは疑を容れない。(昭和六年発行『予防の出来る病気』2頁)

 


 もっとも十九世紀オーストリアで性病の研究に取り組んでいたクラフト・エビングなる医師は、


「文明化とは、梅毒化することである」


 という、高野とはおそよ真逆の見解を嘆息と共に漏らしているが、まあその詮索はいいだろう。


 それよりも高野理論の実例を示したい。


 そう思ったとき、真っ先に浮んだのがパナマ運河建設だった。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201027170243j:plain

パナマ運河

 


 彼の地に運河を開鑿し、以って太平洋と大西洋の連絡を簡便ならしめようと画策したのは、なにもアメリカが初めてではない。


 フランスも同様の構想を抱き、しかもアメリカより早く実行に移した。1881年のことである。


 音頭を取るは、スエズ運河の大功労者フェルディナン・ド・レセップス。フランス政府の後押しのもと、五万人の労働者を投入しての、まさに鳴り物入りで始められた事業であった。


 が、失敗した。


 パナマの気候は、その全地域が熱帯に属する。


 熱帯――この二文字から多くの人が連想するのは、鬱蒼と繁るジャングルに、そこを棲み処とする珍獣猛獣、そして何よりHIVエボラ出血熱といった奇病悪疫の宝庫であろう。


 そのイメージを裏切ることなく、パナマにもまた感染症の両横綱が控えていた。


 すなわち、マラリアと黄熱である。

 

 

YellowFeverVirus

 (Wikipediaより、黄熱ウイルス)

 


 着工間もなく、労働者がばたばた倒れた。


 あわてて新規に補充しても、補充した端から使い物にならなくなるという有り様でどうにもこうにもキリがない。対策を講じあぐねている間に、被害はとうとう監督役の技術者にまで拡がりだした。


 結局フランスの挑戦は、三万に迫る死体の山と多額の負債を産んだだけで、何の利益も齎さなかった。レセップスは失意に沈んだまま、1894年死の床に就く。


 この失敗は、むしろアメリカを利するところ大だった。彼らは自分達が始める前に、まず過去の失敗は何が原因だったかを徹底的に調査した。


 ――結局、成功不成功の分かれ目は、一に労働者の健康保全にあるらしい。


 討議を重ねて、はじき出されたのはそんな答え。


 幸い米国陸軍黄熱調査委員の献身的な働きにより、黄熱病の感染経緯は既に闡明されている。


 マラリアと同じく、であった。

 

 

Aedes aegypti mosquito2

Wikipediaより、ネッタイシマカ

 

 

 体調一センチにも満たないこの吸血動物が、しかしどれほど人間に対して恐るべき禍害を撒き散らしたかは、まったく言語を絶していよう。


 ――撲滅するに如かず。


 そういうことになった。


 パナマ運河建設の際、アメリカ人は並行して一帯の沼地の排水や雑草の刈り取りをぬかりなくやり、蚊を発生を未然に防いだ。


 のみならず、労働者の住宅改善、衛生設備の普及等にも配慮して、疫病との闘いを貫徹させた。


 インスタント食品みたいな手軽さで傀儡政権をでっち上げる一方、こういう繊細な努力も怠っていなかったわけである。


 甲斐あって、1914年にパナマ運河は完成し、米国の繁栄をいよいよ泰山の安きにおいた。


 先ごろ触れた米田実はあるとき『富国「アメリカ」の大観』なる稿を起して彼らの国民性に触れ、その由来を以下の如く考察している。

 


 既住に於ける人間の長き努力に依りて十分に開発せられてゐるヨーロッパに於て、過去より継続せる状態を維持せんとする生活と異り、全く新しい天地に入りて厄介なる自然の障壁を征服し、自分の事業を打ち立てねばならぬのが、彼等の苦しき運命であった。然もその自然の障壁も圧倒的なものでは無く、努力のあるところ、豊富な資源から報酬が提供せらるるので、そこに亦楽しき運命もよこたはってゐたと言へる。殊に此間必要と訓練から、今日米人の「至大なる活動と絶倫の精力」が生み出されたのは、誰か彼等の今日をもたらした所以の一つだと言はぬものがあらう。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201027171108j:plain

 


 なるほどアメリカはパナマに於いて「厄介なる自然の障壁を征服」し、「自己の事業」をもののみごとに打ち立てた。


 その報酬は、繰り言になるが莫大である。


 してみるとパナマ運河建設は、あらゆる意味でアメリカ的だったといっていい。


 今日では、どうだろう。アメリカは果たして老いたのか。新型コロナウイルスの脅威に晒される中、先祖が幾度となく挑み、そして勝利してきた疫病との苦闘の歴史を思い起こさせ、衆を勇奮させる者がいるのかどうか、ちょっと興味が増している。

 

 

幼女戦記 (20) 限定版 (角川コミックス・エース)

幼女戦記 (20) 限定版 (角川コミックス・エース)

  • 作者:東條 チカ
  • 発売日: 2020/12/26
  • メディア: コミック
 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

医者の随筆 ―将棋・外套・原子爆弾―

 

 医者の随筆は面白い。


 医者書いた文章ではなく、医者書いた文章である。


 高田義一郎式場隆三郎、正木不如丘、渡辺房吉福島伴次――結構買ったが、今のところハズレを引いたことがない。どれもこれも、最後の一ページに至るまで、私の興味を捉えたまま放さなかった。


 現在向かい合っている『研究室余燼』も、そんな「医者の随筆」の一冊である。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201025171900j:plain

 


 昭和十八年発行。


 著者の名前は貝田勝美


 九州帝国大学で第三内科の教授職を務めていた人物だ。


 カルテよろしく話の筋が明晰で、かといって無味乾燥というわけでもなく、厭味にならないユーモアがふんだんに散りばめられており、目を通している間中あいだじゅう、まず退屈とは無縁でいられる。将棋に熱中するあまり、敗れるや否や脳貧血を起こしてぶっ倒れた医学博士の話など、まるでハチワンダイバーの世界だとたまげざるを得なかった。


 貝田教授もこの博士――文中では「T博士」で呼ばれている――とはよく将棋を指す仲であり、その対局風景というのがまた独特で面白いのだ。

 


 どうも私達の将棋といふものは、木村八段が、一歩を突くのに四時間も考へる序盤よりは、王手飛車を掛けたり掛けられたりの乱戦乱撃の終盤――文字通りの終盤であるが――の方が、より興味をひくらしい。
 従って、多年戦ひ慣れたT博士と私との会戦になると、盤に向った時の二人の意気込にも似ず、一定の陣形を整へるまでは、お互いに先方の陣形をまるで見ないのだからひどい。
 後で気がついて、
 ――あっ、その手でありしか……等は、驚くに足らぬ。(31頁)

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201025172050j:plain

 


 ついでながら貝田教授は、とある新聞社主催の将棋大会に出たときもこの指し方を用いたらしく、そのため某プロの内弟子――十三、四歳の少年に過ぎなかったが――相手にさんざんな目に遭っている。

 


 尤も私達は棋に遊ぶ・・・・方で、勝負を問題にしない性であるから――さうでもないが――棋勢が優勢な間はお互に、好きなサルモネラ菌の話をしたり、BCGの予防効果に就いて論じたりして、相手を悩ますのである。(30~31)

 


 医者ならではの盤外戦術といっていい。


 サルモネラ菌のいったい何処に愛すべき要素があるのかさっぱり見当がつかないが、四六時中ああいうものと向かい合っていると、ふとしたはずみで愛嬌を感じもするのであろう。

 

 

SalmonellaNIAID

 (Wikipediaより、サルモネラ菌

 


 他にも見どころは山ほどあるが、今回は特に「外套盗難事件」について触れておきたい。


 昭和十一年が始まって間もない睦月のある日、臨床講義を聴いている間に、研究室に脱ぎ捨てておいた貝田教授――この頃はまだ一研究員に過ぎなかったが――の外套が盗まれたのだ。


 外套そのものはむろんのこと、そのポケットには買ったばかりの革手袋と、電車の回数券とがぶち込んである。さても重大な損失に、彼の心は「消化不良を起したやうに」憂鬱になり、盗人への憤りに脳は茹だった。


 私にしても学生時代、コートを盗まれた経験があるからこの気持ちはよくわかる。単純な経済上の利害を超えて、自分の所有物が奪われたというその現実が、わけもなく不快で堪らないのだ。睡眠中、顔の上を蟲に這われた感覚に、あるいは似ているかもしれない。


 さて、腹立ちを紛らわすため、貝田教授は道連れを模索することにした。


 自分と同じく、外套を盗られた不幸な男を、古今東西様々な例に求めたのである。

 

 

九州大学医学部全景復元之図

 (Wikipediaより、九州大学病院地区・戦前キャンパス復元図)

 


 まったく人間にとって道連れほど喜ばしいものはないだろう。道連れさえ居るのなら、たとえ十中八九死ぬ、塹壕から飛び出しての突撃だろうと案外すらすらやれるものだと見抜いた生田春月は、まったく慧眼の持ち主だった。


 貝田教授の同類探しは、セルゲイ・ゴーリキーの短編小説の主人公から果てはイエス・キリストその人にまで延びてゆく。


 このキリストの逸話というのが、また秀逸な出来なのだ。

 


 エルサレムの郊外で、その日は少し蒸し暑く、外套を着て説教をするには汗ばむほどであったので、キリストは道傍の楊柳の枝に外套を掛けて、飯より好きな説教を始めた。
 温かい陽気のせゐで、少しウトウトしてゐた楊柳の木は、ふと眼を醒まして見ると、自分の枝に贅沢さうな外套が掛ってゐる。
 聞くともなしにキリストの説教を聞いてゐると、この世の中で願って出来ないことはない。欲しかったら、遠慮なく何でも求めるがよい、頬っぺたを一つぐらゐ殴ったっで別に差支へはない――といった結構づくめなことを言ってゐる。
 楊柳の木は、何と素晴らしい訓だらうと感服すると同時に、木枯の吹くエルサレムの郊外の冬の寒さを考へると、急にこの外套が欲しくなった。
 足が速いだけで月給が貰へる世の中である、楊柳に足が生えても不思議はない。楊柳の木は、キリストの油断を見すまして逃げ出した。
 ――このこと以来、キリストの怒に触れて、エルサレムの郊外には楊柳の木は生えぬと伝へられる。(37~38頁)

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201025172816j:plain

 


 一連の作業により、教授の心はいくぶんか平静さを取り戻した。


 後日、「キリストに劣らない立派な外套」を新調したそうである。


 なお、補足すると、九州帝国大学福岡県に本拠を置くが、貝田教授の出身地は長崎県


 1945年8月9日、キリスト教圏の科学者たちが叡智を振り絞って開発した原子爆弾が投下され、長崎上空500メートル附近に於いて炸裂したとき。九大に設置された応急救護班の名簿に、貝田勝美の名もあった。


 およそ3ヶ月間に亙って診療業務に従事したあと、翌年4月になってから、原子爆弾研究余録」なる小稿を発表している。

 

 

ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」

ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」

  • 作者:高瀬 毅
  • 発売日: 2009/07/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

続・米田実という男 ―マスター・オブ・アーツ―

 

 上京して暫くの米田実の生活というのは、まったく「苦学生」を絵に描いたようなものである。


 朝はまだ星の残る早くから、新聞売りとして声を張り上げ駈け廻り、それを済ますと図書館に突撃、自学自習を開始する。


 さてもめまぐるしい肉体労働と頭脳労働のサイクルだった。


 似たような経歴の持ち主に、トーマス・アルバ・エジソンがいる。かの発明王も少年時代、自宅のそばに鉄路が敷かれたのを幸い、デトロイトで新聞を仕入れては地元の田舎――ポート・ヒューロンの街角で売り捌くという商売法を編み出して、結構稼ぎ、実験器具や薬品を買う資本もとでとしたそうである。

 

 

Young Thomas Edison

 (Wikipediaより、少年時代のエジソン

 


 朝七時半の電車に乗って、夜九時半に帰ってきた。


 むろん、ただ新聞を買うだけでこれほど手間取るはずもなく。デトロイトからポート・ヒューロンに向かう列車の数が、それだけ少なかったということだ。


 手すきの時間が毎日九時間前後あり、その「余暇」を、エジソンは図書館に通ったり、工場を見学したりして潰したそうだ。このあたり、両者は如何にも符合している。


 新聞売りとしての米田実の側面に、もう少しばかり注目したい。


 ――下谷から根津、湯島から本郷一帯。


 それが彼の持ち場であった。


 かなり広い。コンパスの針を上野公園不忍池に突き刺して、半径1.5kmの円を描き、その北半分程度であろうか。


 それだけの範囲を、ずっしり重い新聞の束を背に担ぎ、鈴を片手に鳴らしつつ、


「新聞々々、万朝報、国民新聞……」


 各紙取り揃えてございまア、と呼ばわりながら歩くのである。


 なかなかの重労働と言っていい。

 

 

5thKikugoro as Andokomasa up

 (Wikipediaより、新聞売安藤小政)

 


 ところで米田に割り振られたこの持ち場――。


「湯島」という地名からもわかる通り、なんの因果か、東京帝国大学をその内側に入れている。


 当時に於いては並ぶもの無きこの国に於ける最高学府、すべての学徒にとっての憧れ。


 毎日毎日、赤門前を通るたび、米田の胸は狂おしく乱れざるを得なかった。


 この気持ちは、犬神に似ている。首だけ出して土に埋められ、馳走を前に為す術のない犬だけが、あるいは彼に共感することができたろう。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201023174359j:plain

小泉癸巳男帝国大学赤門の雪」)

 


 ましてや角帽姿に威風堂々、肩そびやかして出入りする学生なんぞとかち合ったときにはもう堪らない。


 ――あそこで雁首並べる野郎共に、一人でも。


 一人でもおれ以上の器量の持ち主がいるのか、と。


 唾液が酸っぱくなるほどの深刻さで、それを想った。


(いまにみていろ)


 若いのだ。


 新聞売りの米田実は十五、六歳、少年と青年のだいたい境目あたりにいる。


 人生で最も多感な時期といえよう。自分は何のために生まれて来たかと、後から思えば赤面ものの命題に、大真面目に取り組むときだ。


 哀しいばかりの、その若さが許さなかった。


 受けた痛みの誤魔化しを、である。


 不満が募れば募るほど、ますます学問に打ち込んだ。


 もはや、一種の鬼気がある。


 怨念と言い換えてもいいだろう。


 痛々しいほどに研ぎ澄まされた神経が、しかし米田の才覚を、限界を超えて発揮せしめた。


 たった二年。


 たった二年でかつての漢学の麒麟児は、難解な洋書をかるがる読み解き、且つは翻訳出版して原稿料を得られるほどの売文家になっていた。


 ばかりではない。


 新聞に投書を繰り返し、しかもその評判がすこぶる高く、読者という読者がこぞって凛冽たる彼の文章を心待ちにするようになった。


 この「彗星の如き少年天才論客の出現」に、同欄の古株たちは大いに脅かされたという。


 水を得た魚といっていい。


 ついに米田は、己が天才を存分に発揮する場をつかんだのだ。


 そのような八方破りの活動が、やがて徳富蘇峰の知遇を得るきっかけになり、勝海舟の後援を受けての米国留学にも至る。

 

 

勝海舟

 (Wikipediaより、明治期の勝海舟

 


 少壮十九歳の我が身を引っ提げ、米田実が日本を離れたのは明治二十九年十一月某日、秋風に背を押されてのことだった。


 前回掲げた意気沖天の詩、

 


生れて男子となる何の天幸ぞ
酔生夢死我が恥づる所
奮然また試む萬里の行
人生の快事死を畏れず
時維れ黄菊芳を吐くの節
愛す汝霜にたかぶる今日の栄
我又千辛を嘗め盡すの後
乾坤留めんと欲す不朽の名

 


 この詩を吟じたのは、まさにこの瞬間に於いてである。


 思い返せばなけなしの金を握り締め、故郷久留米を旅立ってからまだ四年しか過ぎていない。


 だというのに、この運命の変転ぶりはどうであろう。押しも押されぬ維新の立役者に見出され、更なる研鑽を積むために、世界最先端の「文明」の中へ飛び込もうとしている。


 さても中身の濃く詰め込まれた四年であった。


(なにやら、白昼夢でも見ているような)


 流石の米田も、感慨無量だったに違いない。


 彼が再びこの極東の島国に帰還するまで、ざっと十一年の歳月を要する。


 その十一年も、やはり中身のひどく濃い、充実しきったものだったろう。その証拠に明治四十年の夏、懐かしの東京に降り立った彼の背には、「バチュラー・オブ・ロース」「マスター・オブ・アーツ」の二つの学位が燦然と輝いていたのだから。


 まあ、帰朝間際の明治三十九年、サンフランシスコで大地震に遭遇し、火に追われてせっかく蒐めた数多の蔵書を失う悲劇も経験したが。

 

 

San francisco fire 1906

Wikipediaより、サンフランシスコ大地震) 

 

 

 禍福は糾える縄の如し。人生とは、つくづく一筋縄ではいかないらしい。


 それでも命を拾っただけ勿怪の幸いと言うべきだろう。命さえあればどうとでもなる。逆境から立ち上がる術など、彼はいくらでも心得ているのだ。

 

 

氷川清話 付勝海舟伝 (角川ソフィア文庫)

氷川清話 付勝海舟伝 (角川ソフィア文庫)

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

米田実という男 ―忘れ去るには惜しき者―

 

 前回、せっかく米田実に触れたのだ。


 この人についてもう少しばかり掘り下げてみたい。


 私はこれまで彼の著作に何冊か触れ、しかもその都度、得るところ甚だ大であった。半世紀以上も前に著された本であるというのに、その知識は鮮度を保ち、みずみずしい驚きを与えてくれた。


 戦前に於ける名ジャーナリストを五人挙げろと言われたら、私は即座に米田実杉村楚人冠に指を屈することだろう。


 まあ、要するに好きなのである。ファンなのである。


 そんな米田実の名前が歴史にすっかり埋没し――なにせ、Wikipediaに項目すら見当たらない――、思い出す者も稀というこの現状は痛惜に堪えぬものがある。


 そうした想いが、私にこの稿を綴らせた。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201021170603j:plain

 


 米田実が呱々の声を上げたのは、明治十一年十二月十一日、福岡県久留米市の一角に於いてのことだった。


 家は、士族の血統である。


 旧幕時代は侍として久留米藩有馬家に仕えていたものであり、特に祖父は藩中でも名うての漢学者として聞こえていた男であった。


 幼少時代、米田実の教育は、主にこの祖父が担ったという。


 なんといっても、大事な大事な長男だ。ナマクラでは先祖の霊に申し訳が立たない。時代を切り拓くに十分な、日本刀の凄味を具えせしめる必要がある。


 そうした発想のもと薫育された米田実は十にならぬ以前から四書五経を読みこなし、十三四のころに至ると読解能力では祖父に並び、読むだけではなく漢詩まで上手に作るようになっていた。


 天稟の才としかいいようがない。


 この言語学に対する理解の早さは、後に英語に対しても遺憾なく発揮されることとなる。


 そんな米田が小学校の教育過程でいまさら躓くわけもなく。至極順当に卒業し、そのまま明善中学校へ歩みを進めた。


 蹉跌はむしろ、外部から来た。


 父親が商売に失敗したのだ。

 

 

Kurume castle

 (Wikipediaより、久留米城址)

 


 米田実の父親は、どうも息子ほど才はじけた骨柄ではなかったらしい。明治維新後、禄を失い途方に暮れた数多の士族と同様に、やがて慣れぬ商売に手を出してはみたものの、失敗に失敗を重ね、むしろ何もせずただ寝てでも居た方が損が少なかったような為体ていたらくになっていた。


 典型的な士族の商法の姿であろう。


 そうした小失敗の積み重ねが、ついに限界点を超えてしまった。家の貧窮、覆うべくもなくなって、学費を賄う余裕すらなく、折角入学した中学校も早々と退学する破目に陥った。


(なんということだ)


 後にアメリカへ留学する際、

 


生れて男子となる何の天幸ぞ
酔生夢死我が恥づる所
奮然また試む萬里の行
人生の快事死を畏れず
時維れ黄菊芳を吐くの節
愛す汝霜にたかぶる今日の栄
我又千辛を嘗め盡すの後
乾坤留めんと欲す不朽の名

 


 このような詩を詠んだことからもわかる通り、米田実は極めて強烈な野心家である。


 上昇志向の持ち主、と言い換えてもよい。健康的な功名心に、骨の髄まで燃えていた。


 ――幸い、おれには学問がある。


 自分の才幹が衆を圧したものであるということも、小学校の教育課程で十分に確認済みである。


 どう見ても期待を託すに足る器だった。


 将来的にはこの方面をいよいよ研磨させてゆき、世間に風穴をあけてくれよう――。


 そんな大望を密かに抱いていただけあって、中学退学の一件はよほど米田を打ちのめしたらしい。輝かしき己の未来が、目の前で閉じてゆく実感をもった。


 後に残るは暗黒である。


 このままでは辺境――といえば久留米市民は怒るであろうが――の土に埋もれて、小晏をむさぼるだけの人生に甘んじなければならない。

 

 

Downtown Kurume

 (Wikipediaより、西鉄久留米駅前)

 


(こんな馬鹿な話があるか)


 まったく冗談ではないだろう。米田は飛躍を決意した。弱冠15歳の身空にして、単身東都に遊学しようと決めたのである。


 そのための費用は、祖父の漢籍を売っ払うことで工面した。この点、漢学者で、しかも老齢に達していながら、祖父は物分かりのいい男であった。孫の頼みに、ただ黙々と応じてくれた。


 が、それでもまだ足りそうにない。直線距離にして886kmを埋めるには、僅か過ぎる額だった。


(えい、ままよ。路銀が尽きれば歩けばよいわ)


 這ってでも東京に出てやるという気概であった。


 ここまで行くと、執念に近い。


 実際米田のこの初旅は一日に十四里を歩くということもあり、疲れ果てた我が身を休める宿泊施設も木賃宿がせいぜいで、まず惨憺たる旅路といえた。


 ときには木賃宿の代金すら惜しがって、そこらの辻堂に潜り込みもしたらしい。


 むろん、無断侵入だった。あるときなどそれが祟って、村人に賊の類と誤解され、棒で追われるという悲惨事まで舐めている。


 この時期の百姓の気性など、荒いものだ。下手をすれば頭をかち割られてもおかしくないし、米田自身その恐怖は感じただろう。


「我又千辛を嘗め盡すの後」という下りは、一見使い古された表現のようだが、この男の口から出る場合、ひどく生々しい重量をもって読み手に襲いかかって来る。

 

 

Tsujidou-kurigara-kannnon

 (Wikipediaより、観音像が祭られた辻堂)

 


 ――やがて念願の東京の土を踏んだとき。米田の懐はものの見事にすっからかんで、びた一文の余りさえもなかったという。


 この点、後の大谷米太郎よりひどい。


 後にホテルニューオータニを建てたあの人物も話にならぬ貧窮の中から決死の覚悟で上京してきた手合いだが、それにしたって二十銭は残っていた。その二十銭で宿もとれたし、焼き芋を買って喰うこともできた。


 米田実には、それすらできない。


 このままでは街路に座り込んで物乞いでもせねばならなくなろう。幸い、同郷のとある先輩が、新橋に腰を据えていると出立前に聞いている。何はともあれ、そこを当ってみることにした。


「ほう、久留米からはるばる?」


 果たして彼はまだそこにいた。何事につけ移り変わりの激しい都会で、これは幸運といっていい。


 某を相手に、米田は語った。上京の目的、及び事情を懇々と――。


「それは、お前さん、よくぞまあ。……」


 話の進みに従って某もまた興奮し、ついには一声叫ぶなり絶句してしまったほどという。


 彼はその感動を、さっそく行動化することにした。


 当時としては大金にあたる三円を、惜し気もなくこの「小僧」に貸し与えてのけたのである。


 更には東京に於ける生活上の諸注意を、こまごまと講義して聞かせてやった。


 このとき受けた好意というのが、米田にとってついに一生の記憶となった。


 不幸にもこの先輩は早逝したが、米田は受けた恩義を厚く謝し、香華を絶やすことがなかったという。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

「ドルの国」との交際術 ―戦前の「アメリカ通」な男たち―

 

 訴訟大国アメリカといえど、これはなかなか珍しい例に属するのではあるまいか。


 ロビイストが企業を相手に、法廷闘争を挑んだのである。


 1929年8月24日のことだった。


 この日、ウィリアム・B・シャラーという人物がにわかに世の表舞台に躍り出て、三つの大造船会社の名前を次々に挙げ、


「目下、これらの企業で建造している一万トン級の巡洋艦八隻の建造案を議会に可決させたのは、自分がさんざん骨を折って運動した結果であり、その運動は右造船会社の社長たちの連名で依頼されたものだった。にも拘らず、私は立派に仕事を果たしたというのに、彼らは未だ約束の報酬金を払おうとしない」


 仰天すべき主張を展開、未払いの報酬257655ドルを耳揃えて出しやがれと訴えたのだ。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201020171227j:plain

 


 更にまた、シャラーは1927年ジュネーブに開かれた海軍軍縮会議を引き合いに出し、


「あの会議が何ら得るところなく決裂したのも、俺の暗中飛躍のおかげさ」


 とぶちまけたから堪らない。


 もし同時期の日本でこんなことを言い出す輩があったなら、まず葦原将軍の同類視されるのがオチだろう。誰も正気に取り合わず、却って頭の具合を疑い、最悪の場合医者が警官を連れてやって来て、窓のない病院に収容される破目になる。


 ところが舞台はアメリカだった。


 ロビー活動に名を借りた企業による政治家への献金が、半ば伝統と化している国である。


 世間の耳目はたちまち彼の頭上に殺到し、やがて上院に調査委員会が設けられ、事件の真相追求に血道を上げるまで至る。


 その結果、少なくとも以下のことどもは事実であると承認された。


・議会に15隻の巡洋艦建造案が上程された際、件の造船会社社長らが、シャラーをロビーとして雇ったこと。


・1928年の商船法制定に際しては、合計143000ドルの運動費を出したこと。


ジュネーブ軍縮会議には、その状況を視察報告せしむるという名目で、25000ドルを与えてシャラーを彼の地に派遣したこと。

 

 

Jet d'Eau - Geneva - Switzerland - September 2005 - 03

 (Wikipediaより、ジュネーブの眺め)

 


 任意の年のドルの価値を計算できるウェブサイト、「The Inflataion Calculator」の助けを借りてみたところ、1928年に於ける143000ドルは現在の2168554ドルに当たるという。


 これを更に日本円に換算すると、およそ二億三千万円弱という金額がはじき出される。


 ついでながらシャラーの求めた報酬金257655ドルは、およそ四億一千万円だ。


 この訴訟を皮切りとして、アメリカではロビー活動を素っ破抜くのが一種の流行物のようになった。


 たとえばキューバに拠点を有する製糖会社が結託し、砂糖の輸入税を安くするため、1929年だけで100万ドルを使ったことも暴露されたし、全国電燈協会が公企業の国有反対運動のため、やはり一年で100万ドルをバラ撒いていたのも明るみに出た。


 連邦準備銀行法、国家予算法、連邦水力利用法等、一つとして全国商業会議所の熱心な運動に依らざるはないし、ボストンの某羊毛製造会社は羊毛の関税税率を自ら定めて議会に可決させていた。


 合衆国醸造者協会は四年間に400万ドルを費やして禁酒法と闘っていたし、いちいち実例を上げていくと、まったく枚挙に暇がなくなってしまう。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201020171852j:plain

 


 当然、これらの事実は激しいセンセーションを惹き起こし、その反響が、海を越えて日本にまで伝わった。


 ――まるで意味がわからない。


 誰も彼もが、変に白っぽい表情でこれを迎えた。


 今も昔も、日本人が理解しにくいアメリカ文化の第一は、ロビー活動であるだろう。


 政策が金で買えるという、その時点でもう日本人の感覚的には異様であった。


 どうにも不可解なこの現実を、しかし丁寧に丁寧に噛み砕き、少しでも相互理解を深めるべく尽力した人士のひとりに、米田実が挙げられる。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201020171937j:plain

米田実

 


 法学博士の学位を持った、この東京朝日新聞顧問は、建国の瞬間まで遡ってアメリカの「金権万能主義」を説明している。


 なんでも米田の調査によると、憲法会議に出席した五十五人の国父たち、


 そのうち四十人以上が公債所有者として大蔵省に登記しており、


 土地投機業者と認められるべき者が十四人、


 金貸しが二十四人おり、


 商工業者の代表格が十一人、


 奴隷所有者が十五人――その中にはワシントンも含まれる――で、


 小農及び労働者の代表と認められるべき人間は、ついに影すら見当たらぬという。


 こういう人間集団の手で作成されたのが合衆国憲法であり、それを骨子として国を運営する以上、そのふるまいが資本第一主義に傾くのも已むを得ざる流れではないか――。


 流石、勝海舟の後援で合衆国に留学し、オレゴン大学卒業後、アイオワ大学院を修了しただけのことはあり、アメリカの本質をよく見抜いている。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201020172117j:plain

(合衆国財務省

 


 戦前屈指のアメリつうだった米田のことだ。ならばそんな「ドルの国」から好感を引き出す方法として最適なのはいったい何か、とくと承知していたに違いない。すなわち、


 ――滂沱の涙も血を吐くような千万言も必要ない。金だ。ロビイストを通じて金の雨を降らせればいい。


 ということを。


 奇しくも杉山茂丸が、晩年に似たような結論に逢着している。


アメリカから大金を借りると面白いぞ。金の貸し先になると関心を持ち続けてくれるからな」


「日本の黒幕」と通称された希代の怪傑、この伝説的フィクサーは、なんでも田中義一内閣のころ団琢磨や満鉄社長と相謀り、モルガン財閥を満鉄経営に引っ張り込もうと精力的に活動し、上のようなことをしょっちゅう周囲に吹聴していたそうである。


 このことは昭和鉱業株式会社社長・久留島秀三郎が戦後間もなく出版した随筆集、『飛行機とバスの窓から』にも確かめられることだから、まず信用に足るだろう。

 


 日米間の感情――日本の対米感情は然程悪くなかったと思ふ。それより米国の対日感情がよくなかったやうだ。移民制限から移民禁止にまで進んで行った。こんな事になると日本の対米感情も悪化する。悪感情のシーソーゲームなんて愚の至りである。
 こんな事は決して両国の幸福でないと考へる人が米国にもあった。日本にもあった。しかも満洲が一つの目障りの種でもある。(昭和二十五年発行『飛行機とバスの窓から』71頁)

 


 と、第一次世界大戦後の両国間の機微に触れ、

 


 満洲に相当な米資を迎へて、米国にも満洲に興味を持って貰って、日米協力して満洲開発の実を挙げやうと云ふ考が日本政府にもあった。井上博士が直接折衝にあたられた。(中略)満鉄から鉄と石炭を切り離して日米合弁会社を作らうと迄話は進んだらしい。折半出資か過半数を持つかと云ふ様な話が進められて居る時、つまらぬ事で内閣が更迭した。満鉄幹部も辞職し、そんな話は何処かへ行って仕舞った。(71~72頁)

 


 その顛末を簡潔に、しかし万感籠めて書き綴っている。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201020172512j:plain

 


 1945年8月15日の破局を避ける機会は何度もあった。


 これはその、もっとも有望な一つであろう。


 アメリカではこんにちでもロビー活動が隆盛を極め、2018年にはフェイスブックが1262万ドルを、Amazonが1440万ドルを、ボーイングが1512万ドルを、AT&Tが1852万ドルを、それぞれその用途に費やしている。

 

 

なぜ大東亜戦争は起きたのか?空の神兵と呼ばれた男たち

なぜ大東亜戦争は起きたのか?空の神兵と呼ばれた男たち

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

繁栄の条件 ―国際場裡の腹黒さ―

 

 来るべきものがついに来た。


 大日本帝国帝政ロシア国交断絶を突き付けたのだ。


 もはや極東を舞台として一大戦火が巻き起こるのは誰の眼にも不可避であった。風雲急を告げるこのとき、もしも彼らに発声機能があったなら、


「俺たちはどうなるんだ」


 と、腸を引き絞るようにして叫んだろう。


 二隻の軍艦、日進・春日のことである。

 

 

IJN Nisshin at Malta with U-boat

 (Wikipediaより、日進)

 


 いや、船というのは女性名詞(She)で扱うのが一般的らしいから、彼女たちと呼ぶべきか?


 まあいい。とまれかくまれ、この二隻は新造艦。アルゼンチンの注文を受け、イタリアのアルサンド社が建造していたものであり、それを大日本帝国が横から買い取った形であった。


 買ったはいいが、さて、国交が断絶されたこの時局下で、彼女たちをどうやって、生まれ故郷の地中海から遠い遠い極東の海まで安全に送り届けたものか? 要路一同、大いに悩まざるを得なかった。


 みすみす敵戦力の充実を、指をくわえて傍観してくれるほど、ロシア人とは生温い相手ではないだろう。下手に動けば好餌とされる。黒海艦隊がえたりとばかりに飛び出して来るに違いない。さすれば所詮は多勢に無勢、運命は決まったようなものだった。


「どうにか英国の艦隊に護衛してもらうわけにはいかぬか」


 このような意見が、海軍から提唱された。


 日英同盟という、インクの跡もまだ生々しい、締結間もなきこの紐帯に縋ろうというわけである。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201018171631j:plain

(英国海軍軍艦旗

 


 なるほどロイヤル・ネイビーの囲みがあれば、さしものロシア人とて態々喰ってかかりはしないだろう。たかだか二隻の艦を目当てに、どう考えてもリスクに見合わぬ暴挙であった。


 さっそくその旨、先方に働きかけてみる。


 ところが期待はいとも容易く裏切られた。イギリスはまるで秋霜の如き厳しさで、


「交戦国でない以上、左様なことは出来ぬ」


 キッパリ断ってのけたのである。


 日本側の失望は甚だしかった。

 


「道理かも知れないが不人情だ、日英同盟が何んだと蔭では大分憤慨した連中もあったよ」

 


 感慨深げに回顧するのは林董


 グレート・ホワイト・フリート来航時にもさんざん骨を折ったこの人は、日露戦争前後に於いて駐英公使の任に在り、その都合上、日進・春日騒動のことはよく知っていた。


 知っているどころではない。


 中核に居た一人といえる。


 護衛の頼みを断られてから数日後のことだった。林董は英国側から一報を受ける。まるで懐に忍ばせるように密やかに、こっそりと通告されたこの情報こそ、日進・春日の前途を拓くものだった。

 


「英国の地中海艦隊の軍艦何々が、何日マルタからスエズ経由で極東に向ふ事になって居る、此段御報告に及ぶとナ、護衛ぢゃない、偶然英国の軍艦は日進、春日と相前後して極東へ差遣されたのだなア」
 老伯はゆるやかに紫煙をふかしながら、会心の追憶に笑を洩してる。(大正十五年発行、下村海南著『思ひ出草 一白の巻』9頁)

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201018171900j:plain

 


 なんという巧みなやり口だろう。


 これこの通り、列強と呼ばれる連中は、目的を遂げるに当たって生一本な突撃などまずしない。必ずや、裏道・抜け穴・搦手門をぬけてゆく。


 ときに魔術的ですらあるその手練手管に、日本人は常に翻弄され続けた印象だ。例えば悪名高き排日移民法にしてみても、その条文の何処を探せど、


「日本人には~の権利を認めない」


 とか、


「日本人には~を禁ず」


 とかいった、つまりは人種や皮膚の色を以ってする文句は発見不可能なのである。


 アメリカ人は建国の理想たる「平等」の看板はそのままに、しかし現実には特定人種を差別し排斥する手法を確立していた。


 具体的には、帰化権の有無をタネとした。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201018172106j:plain

 


 1872年7月以降、合衆国は市民権所得の条件に「白人及びアフリカ人であること」を盛り込んでおり、黄色人種たる日本人はむろんこの中に入らない。


 彼らはここを目ざとく利用し、


「およそ米国に帰化することを得ざる国民は云々」


 と、もってまわった表現を駆使して意を遂げた。


 抗議を試みる立場としては、これほど面倒な仕組みはない。なにしろまず字義の解釈から始めなければならないのだ。その作業に時間と労力をすり減らしている間に、事態はどんどん取り返しがつかなくなってゆく。


「目的のためには手段を選ぶな」とはよく言うが、ここまで徹底すれば壮観だ。


 米国はまた、1963年の部分的核実験禁止条約でも実に鮮やかな帝王学を発揮している。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201018172225j:plain

 


 この条約。


 ただでさえ長ったらしい名前だが、どうかひとつ我慢して、更に長ったらしい正式名称に目を通していただきたい。


 大気圏内、宇宙空間および水中に於ける核兵器実験禁止条約という。


 見ての通り、「地下」は禁止範囲に含まれていない。


 この条約はアメリカ・イギリス・ソ連の間で調印されたものである。


 三ヶ国とも、大気中の核実験などとうにやり尽くした後であり、データの蓄積は十二分に済んでいた。


 あとは地下核実験だけでも、問題なく核兵器開発は可能であろう。


 おまけにこの条約を締結すれば、表向き「核なき世界」を目指している平和国家をアピール出来る。国内のかまし・・・・もなだめられるし、新たに核兵器所有を目指す不届き者を「平和の敵」と大きな顔で弾劾する権利までもついてくる。


 なんとお得な取り引きだろう、一石二鳥とはこのことではあるまいか――。


 徹頭徹尾、彼らは計算ずくだった。


 国際場裡に於いて生真面目さとはすなわち悪だと、つくづく思わざるを得ない。


 生き残り、繁栄するのはいつだって、腹の中身が真っ黒なやつだ。


 舌が複数枚あればなおのこと良い。

 

 

日本人よ強かになれ 世界は邪悪な連中や国ばかり

日本人よ強かになれ 世界は邪悪な連中や国ばかり

  • 作者:高山 正之
  • 発売日: 2020/06/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ