穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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続・米田実という男 ―マスター・オブ・アーツ―

 

 上京して暫くの米田実の生活というのは、まったく「苦学生」を絵に描いたようなものである。


 朝はまだ星の残る早くから、新聞売りとして声を張り上げ駈け廻り、それを済ますと図書館に突撃、自学自習を開始する。


 さてもめまぐるしい肉体労働と頭脳労働のサイクルだった。


 似たような経歴の持ち主に、トーマス・アルバ・エジソンがいる。かの発明王も少年時代、自宅のそばに鉄路が敷かれたのを幸い、デトロイトで新聞を仕入れては地元の田舎――ポート・ヒューロンの街角で売り捌くという商売法を編み出して、結構稼ぎ、実験器具や薬品を買う資本もとでとしたそうである。

 

 

Young Thomas Edison

 (Wikipediaより、少年時代のエジソン

 


 朝七時半の電車に乗って、夜九時半に帰ってきた。


 むろん、ただ新聞を買うだけでこれほど手間取るはずもなく。デトロイトからポート・ヒューロンに向かう列車の数が、それだけ少なかったということだ。


 手すきの時間が毎日九時間前後あり、その「余暇」を、エジソンは図書館に通ったり、工場を見学したりして潰したそうだ。このあたり、両者は如何にも符合している。


 新聞売りとしての米田実の側面に、もう少しばかり注目したい。


 ――下谷から根津、湯島から本郷一帯。


 それが彼の持ち場であった。


 かなり広い。コンパスの針を上野公園不忍池に突き刺して、半径1.5kmの円を描き、その北半分程度であろうか。


 それだけの範囲を、ずっしり重い新聞の束を背に担ぎ、鈴を片手に鳴らしつつ、


「新聞々々、万朝報、国民新聞……」


 各紙取り揃えてございまア、と呼ばわりながら歩くのである。


 なかなかの重労働と言っていい。

 

 

5thKikugoro as Andokomasa up

 (Wikipediaより、新聞売安藤小政)

 


 ところで米田に割り振られたこの持ち場――。


「湯島」という地名からもわかる通り、なんの因果か、東京帝国大学をその内側に入れている。


 当時に於いては並ぶもの無きこの国に於ける最高学府、すべての学徒にとっての憧れ。


 毎日毎日、赤門前を通るたび、米田の胸は狂おしく乱れざるを得なかった。


 この気持ちは、犬神に似ている。首だけ出して土に埋められ、馳走を前に為す術のない犬だけが、あるいは彼に共感することができたろう。

 

 

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小泉癸巳男帝国大学赤門の雪」)

 


 ましてや角帽姿に威風堂々、肩そびやかして出入りする学生なんぞとかち合ったときにはもう堪らない。


 ――あそこで雁首並べる野郎共に、一人でも。


 一人でもおれ以上の器量の持ち主がいるのか、と。


 唾液が酸っぱくなるほどの深刻さで、それを想った。


(いまにみていろ)


 若いのだ。


 新聞売りの米田実は十五、六歳、少年と青年のだいたい境目あたりにいる。


 人生で最も多感な時期といえよう。自分は何のために生まれて来たかと、後から思えば赤面ものの命題に、大真面目に取り組むときだ。


 哀しいばかりの、その若さが許さなかった。


 受けた痛みの誤魔化しを、である。


 不満が募れば募るほど、ますます学問に打ち込んだ。


 もはや、一種の鬼気がある。


 怨念と言い換えてもいいだろう。


 痛々しいほどに研ぎ澄まされた神経が、しかし米田の才覚を、限界を超えて発揮せしめた。


 たった二年。


 たった二年でかつての漢学の麒麟児は、難解な洋書をかるがる読み解き、且つは翻訳出版して原稿料を得られるほどの売文家になっていた。


 ばかりではない。


 新聞に投書を繰り返し、しかもその評判がすこぶる高く、読者という読者がこぞって凛冽たる彼の文章を心待ちにするようになった。


 この「彗星の如き少年天才論客の出現」に、同欄の古株たちは大いに脅かされたという。


 水を得た魚といっていい。


 ついに米田は、己が天才を存分に発揮する場をつかんだのだ。


 そのような八方破りの活動が、やがて徳富蘇峰の知遇を得るきっかけになり、勝海舟の後援を受けての米国留学にも至る。

 

 

勝海舟

 (Wikipediaより、明治期の勝海舟

 


 少壮十九歳の我が身を引っ提げ、米田実が日本を離れたのは明治二十九年十一月某日、秋風に背を押されてのことだった。


 前回掲げた意気沖天の詩、

 


生れて男子となる何の天幸ぞ
酔生夢死我が恥づる所
奮然また試む萬里の行
人生の快事死を畏れず
時維れ黄菊芳を吐くの節
愛す汝霜にたかぶる今日の栄
我又千辛を嘗め盡すの後
乾坤留めんと欲す不朽の名

 


 この詩を吟じたのは、まさにこの瞬間に於いてである。


 思い返せばなけなしの金を握り締め、故郷久留米を旅立ってからまだ四年しか過ぎていない。


 だというのに、この運命の変転ぶりはどうであろう。押しも押されぬ維新の立役者に見出され、更なる研鑽を積むために、世界最先端の「文明」の中へ飛び込もうとしている。


 さても中身の濃く詰め込まれた四年であった。


(なにやら、白昼夢でも見ているような)


 流石の米田も、感慨無量だったに違いない。


 彼が再びこの極東の島国に帰還するまで、ざっと十一年の歳月を要する。


 その十一年も、やはり中身のひどく濃い、充実しきったものだったろう。その証拠に明治四十年の夏、懐かしの東京に降り立った彼の背には、「バチュラー・オブ・ロース」「マスター・オブ・アーツ」の二つの学位が燦然と輝いていたのだから。


 まあ、帰朝間際の明治三十九年、サンフランシスコで大地震に遭遇し、火に追われてせっかく蒐めた数多の蔵書を失う悲劇も経験したが。

 

 

San francisco fire 1906

Wikipediaより、サンフランシスコ大地震) 

 

 

 禍福は糾える縄の如し。人生とは、つくづく一筋縄ではいかないらしい。


 それでも命を拾っただけ勿怪の幸いと言うべきだろう。命さえあればどうとでもなる。逆境から立ち上がる術など、彼はいくらでも心得ているのだ。

 

 

氷川清話 付勝海舟伝 (角川ソフィア文庫)

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