穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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百折不撓の体現者 ―大谷米太郎の野望―

 

 青雲の志やみがたく。富山県西部、草ぶかい西砺波郡の田舎から大谷米太郎が念願の上京を遂げたのは、明治四十五年四月二十四日のことだった。


 懐は寂しい。十銭銀貨が二枚入っているだけに過ぎない。


 むろん銀行預金などある筈もなく、正真正銘、これが彼の全財産に相違なかった。

 

 

10sen-M30

 (Wikipediaより、十銭銀貨)

 


 齢三十一にもなって、これはなんということであろう。彼の半分も生きていない学生の月の小遣いにさえ、あるいは劣るのではなかろうか。


 学生といえば、大谷はろくに学校へも通っていない。物心ついたときにはもう小作人として働きに出され、汗と泥に塗れていた。


 貧農の家に生まれた者の、どうしようもない現実である。


 牛馬の如く酷使される毎日。この状況下で、しかし脳内まで牛さながらに鈍磨せず、


 ――いつかは。


 やがていつかは功成り名遂げ、日本に大谷米太郎ありと仰がれるだけの大人物になってやる、と。


 野心を忘れることがなかったあたり、なかなか非凡な男であった。よほど地金が明るくできていたのだろう。

 

 

Toyama sangaku 1

Wikipediaより、富山県の山岳部) 

 


 話を、明治四十五年四月二十四日に戻す。憧れの帝都に立った大谷は、まず木賃宿に十五銭で床を取り、あとの五銭で焼きいもを買い、それできれいさっぱり一文無しの身になった。


 無為に過ごせば、明日からは夜露をしのぐ庇さえも借りれなくなる。


(なあに、ここは東京だ)


 人口集中する日本最大の消費都市。えり好みさえしなければ、仕事はいくらでも転がっているに違いない。


(幸い、身体だけは頑丈に出来とる)


 暫くは日雇い人夫でも何でもやって、他日の飛翔に備えるのみよ――。


 こういう場合、せめて気概だけでも現実をのんで・・・かからねば、それこそ死骸を路傍に晒す破目になる。


 誰に教えられることもなく、大谷はそのあたりの要諦を呑み込んでいた。

 


 六十日が過ぎた。

 


 幸い、大谷はまだ生きていた。


 生きているどころではない。木賃宿と日雇いの現場を往復する身でありながら、二十九円の貯金まで拵えることに成功していた。木賃宿が如何なる場所かを勘案すれば、これはなかなか驚異的な功績だ。

 

 

職人宿a

 (Wikipediaより、地方に残る木賃宿

 


木賃宿暮らし」を現代の語感に当て嵌めるなら、ネカフェ難民あたりが最も近いのではあるまいか。もっとも木賃宿に比べれば、ネットカフェなど金城湯池に等しかろうが。


 まず、木賃宿には間仕切りがない。宿泊客は大部屋に一人一畳程度で雑魚寝する。慣れぬうちは鼾が耳を聾すること甚だしいし、下手に寝相の悪い輩が隣に来れば、痣の一つや二つ程度覚悟しなければならないだろう。


 掃除も満足に行き届いているとはとても言えず、床は半ば腐ってきしみ、布団に入れば蚤や南京虫の大群がえたり・・・とばかりに食いついてくる。「黄泉にもかかる生き地獄のあるべきや」幸徳秋水あたりがおぞけをふるって評したそうだが、これはまったく的を射た表現といっていい。


 斯くの如き環境下に置かれた者が、徐々に餓鬼道の住民たるの様相を呈してゆくのは、まったく自然な成り行きだろう。


 木賃宿街に潜入した名ジャーナリスト、松崎天民ルポルタージュでこう書いた。

 


 富川町三千の労働者が、風呂に入るのは五日に一度位、理髪をするのは二月に一度、多くは年に四回位しか床屋の鏡を見ないと云ふ。(中略)毎日金を儲けても、食うと寝る方が大切なので、湯銭の二銭五厘もなかなか惜しく、理髪の十銭に至っては、容易に思ひ切りが付かねえので、多くは蓬頭乱髪の穢い姿、人間らしい根性が、段々薄くなるのも無理は無い。(昭和四年『明治大正実話全集 第十二巻』407頁)

 

 

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 松崎天民が目撃した中には十五年も木賃宿暮らしを続けている怪物まであったそうだが、むろん大谷米太郎は、そんなことで名を残したいとは思わない。


 人間は環境に染まるいきものだ。取り急ぎ此処から脱出せねば、折角の大望も萎んでゆくと直感していた。

 


 郷里を食いつめてごろごろしているような人夫達をみるにつけ「こういう絶望した人々、その日その日暮しの人々から一日も早く離れ、そうして一日も早く独立しなくてはならない」――木賃宿のほの暗い灯の下で私は毎日考えた。(昭和三十一年『財人随想 第二篇』112頁)

 


 さりとて二十九円では心もとない。堂々たる店舗を構え、商売をするにはとても足りない。まだ我慢していた方がいいような気もする。


(ええい、浅野総一郎とて最初は日本橋の袂で砂糖水を売って儲けたというではないか)


 郷里を同じゅうする偉大なる先駆者の事蹟を念じ、大谷は己を奮い立たせた。二十九円を資本もとでとし、甘酒の行商に身を転じた。


 思い切ったといっていい。己が弱気を蹴殺したのだ。


 甘酒屋を選んだのは、少壮時代農事の傍ら酒屋に奉公していたことがあり、その経験から製法をよく飲み込んでいたからである。

 


 それからというもの、正に商業の道を学ぶ苦難の連続だった。商売を変えること実に十六回、これは決して私が物にあきっぽいというのではない。商売の研究をしたかったからであり、世間学、人間学さらには金儲け学などの知識を広く持ちたかったからだ。(113頁)

 

 

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 よく「何かを始めるのに遅いということはない」といった意味の標語を見かけるが、大谷米太郎ほどこのフレーズを体現した男も珍しかろう。彼はついに夢を叶えた。この三十路越えの甘酒売りが、しかしその三十年後には「鉄鋼王」と称されて、日本の三大億万長者の一角を恣にする巨人にまでのし上がろうとは、いったい誰に予測できたか。


 同じ木賃宿の屋根の下で夜を過ごした誰一人とて、夢想だに出来なかったに相違ない。

 


 その後、高利貸に追いかけられたり、返品を食って品物が売れなくなったり、関東大震災で丸裸になるなど、文字通りの「七転八倒」の苦労があったが、人に好かれ、相手の気持を知り、その相手に心を合せて今日の実をむすんでいる。
 私の歩んできた人生について「幸運」の一語に流してしまう人もあろう。しかし幸運にめぐりあっても、平素の受け入れ体勢が出来ていなかったならば、すべて運は逃げてしまうのではないだろうか。むしろ幸運を自分の実力の中に抱き込むということ、さらに進んで運を打開し、運を引き寄せる力を養っておくことが必要なのだ。(115頁)

 

 

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 彼の興した大谷重工は後に大阪製鋼と合併し、合同製鐵として今日まで業界の第一線に立ち続けている。

 

 

明治大正見聞史 (中公文庫BIBLIO)

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