この人についてもう少しばかり掘り下げてみたい。
私はこれまで彼の著作に何冊か触れ、しかもその都度、得るところ甚だ大であった。半世紀以上も前に著された本であるというのに、その知識は鮮度を保ち、みずみずしい驚きを与えてくれた。
戦前に於ける名ジャーナリストを五人挙げろと言われたら、私は即座に米田実と杉村楚人冠に指を屈することだろう。
まあ、要するに好きなのである。ファンなのである。
そんな米田実の名前が歴史にすっかり埋没し――なにせ、Wikipediaに項目すら見当たらない――、思い出す者も稀というこの現状は痛惜に堪えぬものがある。
そうした想いが、私にこの稿を綴らせた。
米田実が呱々の声を上げたのは、明治十一年十二月十一日、福岡県久留米市の一角に於いてのことだった。
家は、士族の血統である。
旧幕時代は侍として久留米藩有馬家に仕えていたものであり、特に祖父は藩中でも名うての漢学者として聞こえていた男であった。
幼少時代、米田実の教育は、主にこの祖父が担ったという。
なんといっても、大事な大事な長男だ。ナマクラでは先祖の霊に申し訳が立たない。時代を切り拓くに十分な、日本刀の凄味を具えせしめる必要がある。
そうした発想のもと薫育された米田実は十にならぬ以前から四書五経を読みこなし、十三四のころに至ると読解能力では祖父に並び、読むだけではなく漢詩まで上手に作るようになっていた。
天稟の才としかいいようがない。
この言語学に対する理解の早さは、後に英語に対しても遺憾なく発揮されることとなる。
そんな米田が小学校の教育過程でいまさら躓くわけもなく。至極順当に卒業し、そのまま明善中学校へ歩みを進めた。
蹉跌はむしろ、外部から来た。
父親が商売に失敗したのだ。
米田実の父親は、どうも息子ほど才はじけた骨柄ではなかったらしい。明治維新後、禄を失い途方に暮れた数多の士族と同様に、やがて慣れぬ商売に手を出してはみたものの、失敗に失敗を重ね、むしろ何もせずただ寝てでも居た方が損が少なかったような
典型的な「士族の商法」の姿であろう。
そうした小失敗の積み重ねが、ついに限界点を超えてしまった。家の貧窮、覆うべくもなくなって、学費を賄う余裕すらなく、折角入学した中学校も早々と退学する破目に陥った。
(なんということだ)
後にアメリカへ留学する際、
生れて男子となる何の天幸ぞ
酔生夢死我が恥づる所
奮然また試む萬里の行
人生の快事死を畏れず
時維れ黄菊芳を吐くの節
愛す汝霜に
我又千辛を嘗め盡すの後
乾坤留めんと欲す不朽の名
このような詩を詠んだことからもわかる通り、米田実は極めて強烈な野心家である。
上昇志向の持ち主、と言い換えてもよい。健康的な功名心に、骨の髄まで燃えていた。
――幸い、おれには学問がある。
自分の才幹が衆を圧したものであるということも、小学校の教育課程で十分に確認済みである。
どう見ても期待を託すに足る器だった。
将来的にはこの方面をいよいよ研磨させてゆき、世間に風穴をあけてくれよう――。
そんな大望を密かに抱いていただけあって、中学退学の一件はよほど米田を打ちのめしたらしい。輝かしき己の未来が、目の前で閉じてゆく実感をもった。
後に残るは暗黒である。
このままでは辺境――といえば久留米市民は怒るであろうが――の土に埋もれて、小晏をむさぼるだけの人生に甘んじなければならない。
(こんな馬鹿な話があるか)
まったく冗談ではないだろう。米田は飛躍を決意した。弱冠15歳の身空にして、単身東都に遊学しようと決めたのである。
そのための費用は、祖父の漢籍を売っ払うことで工面した。この点、漢学者で、しかも老齢に達していながら、祖父は物分かりのいい男であった。孫の頼みに、ただ黙々と応じてくれた。
が、それでもまだ足りそうにない。直線距離にして886kmを埋めるには、僅か過ぎる額だった。
(えい、ままよ。路銀が尽きれば歩けばよいわ)
這ってでも東京に出てやるという気概であった。
ここまで行くと、執念に近い。
実際米田のこの初旅は一日に十四里を歩くということもあり、疲れ果てた我が身を休める宿泊施設も木賃宿がせいぜいで、まず惨憺たる旅路といえた。
ときには木賃宿の代金すら惜しがって、そこらの辻堂に潜り込みもしたらしい。
むろん、無断侵入だった。あるときなどそれが祟って、村人に賊の類と誤解され、棒で追われるという悲惨事まで舐めている。
この時期の百姓の気性など、荒いものだ。下手をすれば頭をかち割られてもおかしくないし、米田自身その恐怖は感じただろう。
「我又千辛を嘗め盡すの後」という下りは、一見使い古された表現のようだが、この男の口から出る場合、ひどく生々しい重量をもって読み手に襲いかかって来る。
(Wikipediaより、観音像が祭られた辻堂)
――やがて念願の東京の土を踏んだとき。米田の懐はものの見事にすっからかんで、びた一文の余りさえもなかったという。
この点、後の大谷米太郎よりひどい。
後にホテルニューオータニを建てたあの人物も話にならぬ貧窮の中から決死の覚悟で上京してきた手合いだが、それにしたって二十銭は残っていた。その二十銭で宿もとれたし、焼き芋を買って喰うこともできた。
米田実には、それすらできない。
このままでは街路に座り込んで物乞いでもせねばならなくなろう。幸い、同郷のとある先輩が、新橋に腰を据えていると出立前に聞いている。何はともあれ、そこを当ってみることにした。
「ほう、久留米からはるばる?」
果たして彼はまだそこにいた。何事につけ移り変わりの激しい都会で、これは幸運といっていい。
某を相手に、米田は語った。上京の目的、及び事情を懇々と――。
「それは、お前さん、よくぞまあ。……」
話の進みに従って某もまた興奮し、ついには一声叫ぶなり絶句してしまったほどという。
彼はその感動を、さっそく行動化することにした。
当時としては大金にあたる三円を、惜し気もなくこの「小僧」に貸し与えてのけたのである。
更には東京に於ける生活上の諸注意を、こまごまと講義して聞かせてやった。
このとき受けた好意というのが、米田にとってついに一生の記憶となった。
不幸にもこの先輩は早逝したが、米田は受けた恩義を厚く謝し、香華を絶やすことがなかったという。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓