ここのところ幾日か、「其日庵」杉山茂丸について書こうとして、しかしそのたびにモニタの前で途方に暮れるというのを繰り返してきた。
貌が多すぎるのだ、この男には。
正しく「怪傑」の呼び名が相応しい。
その所為で、どこから手を着ければよいものやらと一向見通しが立たないのである。
こころみに、昭和十年七月十九日、七十二歳を
錚々たる顔ぶれである。
まず、このとき既に「最後の元勲」と化していた西園寺公望からの供花が棺のそばに飾られている。
黒龍会創始者、内田良平の花もある。ほとんど丁度二年後の、昭和十二年七月二十六日に同じく泉下へ旅立つ良平は、既にこの時、だいぶ病が重篤であり、とても葬儀に出席可能な体調ではなかったのだ。
やむなく、花を贈るにとどめた。
葬儀委員長を務めるのは頭山満。言わずと知れた玄洋社の総帥で、アジア主義者の巨頭である。
副委員長にはなんと現役の外務大臣である広田弘毅その人が就き、式が滞りなく進行するようまめまめしく手を焼いた。
列席者には福岡藩の最後の藩主、すなわち杉山・頭山・内田にとっての旧主筋たる黒田長成侯爵がいる。
「政界の長老」、山本達雄男爵もいる。
国家主義的思想団体「国本社」の設立者、アカの天敵、平沼騏一郎の顔もある。
その他にも数多くの政治家が、いちいち名を挙げるのも煩わしいほど、それこそ万遍なく出席している。
一方に目を転ずれば、陸海軍の大将連がいかめしく肩を並べている。
世界初の総合商社、三井物産の設立に大きく寄与した益田孝男爵以下、実業界の巨頭連が続いている。
(Wikipediaより、益田孝)
かつての三役力士をはじめとし、剣道柔道の有段者がその隆々たる体躯を喪服に包んで駈けつけている。
囲碁の本因坊の姿すらあり、まさしく
そのほか押し寄せた国士・志士の類は数知れず、中国人やインド人の姿すらちらほら散見されたのだから極まっていよう。
これほど盛大な葬儀というのはひょっとすると明治42年に国葬に付された伊藤公に匹敵するやもしれず、しかも棺の中で冷たくなっている男は、過去にただ一度も官職に就いたことがなく、頭山や内田のように右翼団体を主催した経験とてまた皆無なのだ。
そんな男が、何故にこのような光景を現出せしめ得たのであるか?
この疑問に対し正確な答えを返すには、天眼でも持っていなければ不可能とすら思えてしまう。
(増上寺)
古諺に曰く、人の評価は棺を蓋って初めて定まる。
迷路を解くにあたっても、出口から逆にたどった方が上手くいく。ならばと思ってとりあえず、彼の死後の光景から書いてみたが、なにやらますます謎が深まったように思えてならない。
政界の黒幕、フィクサーの呼び名は伊達にあらず。凄い漢がいたものだ。
いまのところは、それ以外に言い様がない。
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