極東に浮かぶ島国という、地理的事情が無性に浪漫を掻き立てるのか。ヨーロッパの天地に於いて日本国とは永いこと、半ば異界めくような興味と好奇の対象だった。
需要に応える格好で、近代以前、西洋人によって編まれた日本の事情を伝える書物は数多い。
『日本西教史』もそのうちの一部であったろう。
一六八九年、仏人ジャン・クラッセの編纂に成る。出版から二世紀隔てた一八七二年、元号にして明治五年。当時の駐仏公使たる鮫島尚信が本書の存在を認識し、内容に魅力を覚えたことが邦訳へと繋がった。
出逢いについてはパリの街を散歩中、たまたま寄った古本屋の一角でうず高く積み上げられてた塔の中から「発掘」したとか、顔見知りのフランス人から「こういうものを知ってるかね」と紹介してもらっただとか、奇譚的な面白味を宿すものから無味乾燥な報告文まで色々あるが、どれが真実かは絞り切れない。
確かなことは鮫島の働きかけにより、本書は太政官翻訳係の取り組むべき課題となって、明治十一年めでたく完成。上記の題を貼り付けられて出版されたことである。
いざ目を通すと、なるほど鮫島尚信が、草創期の明治人らが魅力を覚えた所以というのがよくわかる。
日本人の物に堪ふる事は実に感ずるに余あり。飢寒しても屈せぬ。勤務に倦まぬ。その他、都て困難に堪ふる美質を具備する。商事によりて、事を処するに、曾て粗暴、暴慢の挙動なく親切、懇情である。職工・農夫の如きすら、平常の交際に於ても温雅和平の態度で、欧州に於けるそれ等とは、全く反対してゐる。故に知らざる者は、彼等日本人は、皆宮中に於てでも教養されたかと思ふのである。
おいおい褒め殺しのつもりかよ、と。
警戒しつつもつい頬が熱を帯びてくるだろう。
(早川雪洲、自室にて)
日本人の、特に習練する所のものは武術である。男子十二歳、始めて剣を佩き、夜間睡眠の外、敢て腰間を脱せぬのである。その就褥中は、これを枕頭に安置し、睡眠中も武を忘れざるを期するのである。彼等の武器は剣・短剣・小銃・弓箭等である。その剣の精錬さは、欧州製の刀を両断すとも、毫も刀刃に疵痕を留めぬと云ふ。
想い出す、高橋是清と祖母の噺を。あのダルマさんが米国に渡る数日前、すなわち十四歳のころ。祖母は彼を部屋に呼び、短刀を渡し、
「これは祖母が心からの餞別です。これは決して人を
こう諭した後、念入りにも切腹の作法まで教えたという。
確か陸軍の幼年学校だか士官学校だか、あるいはその両方だったか、とまれそういう機関でも、ある時期まで腹の切り方――もちろん物理的な意味合いで――を教授していたそうである。
フランシス・マカラーが見たような戦慄すべき人間性ができあがるのも、この風土なら納得だ。
(陸軍士官学校)
主君が将軍の命か、若くは自己の為、居城・堡塁を築く際に当りて、家臣は自ら乞ひて、その建築材の下敷となる事がある。蓋し日本人は以為らく、人体を建築の下敷とするならば、その城塞は破壊せず、また諸種の災害を免るべしと信じてゐる。さてこの請の許さるゝや、その人は、自ら建築の基礎なる大石の下に、その身体を敷かれて死す。
なんだこれは、聖帝十字陵か何かか?
人柱やら追腹やらの風習がごっちゃになった所産だろうが。笑殺するに値する。
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