ほんの十秒視線を切った、もうそれだけで姿が見えなくなっている。
子供とは危なっかしさの塊だ。斯くいう
誤飲・誤食も、当然そこに含まれる。
(飛騨高山レトロミュージアムにて撮影)
幼児の心理は得体が知れない。彼らはなんでも、とりあえず口に入れたがる。色がキレイだったとか、形が面白かったとか、およそ理由とも呼べないような他愛もない理由で、だ。
──1926年、アメリカ独立150周年を記念してフィラデルフィアに
ご丁寧に摘出手術の記録だの、レントゲン写真だのまで添えて。当時洋行中だった、一高教授・石川光春理学士がその情景を目撃し、旅行記につけてくれている。
「貨幣や釦、ピンの色々、指輪、髪の毛のかたまり、大小の果物の種子やら小形の玩具、中には小さなセルロイドのキューピットやら、甚だしきは五分位の軍艦の玩具で、よくも斯んなものを嚥下したと思はれる位。…(中略)…こんな子供が成人すると天下を丸呑にしたり、書物を鵜呑にする。又人をも呑んでかゝり、甚だしきは家や地面まで飲んで了ふに違い無い」云々と、その筆遣いは軽やかで、日本人にともすれば不足しがちなユーモアを多量に有したものだった。
引用元の詳細を敢えて書かせてもらうなら、昭和三年発行の、『へゝのゝもへじ』からである。
林安繁『屑籠』同様、古本まつりの収穫物だ。
お値段ポッキリ八百円と、値段まで不思議に一致した。
なんの意味もない符号だが、それでも妙な嬉しさが沛然として胸に湧く。心というのはまったくわけがわからない。この不可解は、未だ私の中に居残る幼児性の証明だろうか。感性が若いと換言すれば、まだしも見栄えは良かろうが、さて。
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