フランスは難治の国なのか?
短命政権の連続に、しばしば暴徒と化す市民。
彼の地の政情不安については明治期既に名が高く、陸羯南の『日本』新聞社説にも、
――仏人は最も人心の急激なる所、近二十一年間に内閣の交迭せる、前後二十八回の多きに及ぶ。
このような一節が確認できる。
(『世界国尽』より、パリ)
要所要所で政治的に死に体となり、一歩まかり間違えば、欧州すべての禍乱の震源地にもなる。これはもう、フランスという国民国家につきまとう、ある種の宿痾といっていい。
一九三〇年代に至ってはその傾向がますます酷く、当時欧州各国を巡歴していた清澤洌に、
――世界の悲劇はフランスである。
と慨嘆せしめたほどだった。
左様、清澤。
『暗黒日記』の著者として、近現代史に興味を抱く者ならば、一度は聞いた名であろう。
その清澤が示すのである、
「政治の不安定は、パリの都につぐ仏国の一つの名物である。仏国に人民戦線政府が出来たのは、約二ヶ年以前であった。その二ヶ年の間に内閣が変はること五回である。しかしこれを必ずしも人民戦線の責任に帰してしまふのは公平ではない。その前の四ヶ年の間、
ほとんど非現実的なまでの数字、統計を、昭和十三年師走に著した、『現代世界通信』中で――。
「インドの山奥もフランス政界ほど危険ではない」というクレマンソーの箴言も、このへんに由来がありそうである。
ちなみに本書のページとページの間には、色褪せきった短冊が、身を慎むようにして独りひそかに挟まっていた。
「昭和十五年三月」
と読める。
一番最初の所有者の記念か何かであっただろうか。
本書に於いて清澤は、フランスが行き着く先として、「現在の政情不安が続く限り、極端にいへば英国の衛星の一つに堕」するであろうと悲観的に書いている。
的外れとは言い得ない。事実として彼の国の政治的脳死状態は、結局アドルフ・ヒトラーに、ナチス・ドイツに国土を蹂躙されるまで改善されずに持続した。
上が腐りきっていればこそ、鉤十字の軍勢はああまで華麗な電撃戦を成し遂げられたと言うべきか。
「ヒトラーを起したのは仏国であるとある人はいった。ことに一九三二年前後において仏国がドイツに再軍備要求を認めなかったことは、ドイツ人をして窮鼠却って猫を噛むの態度に出でしめた。ドイツ人はその譲歩が、却って相手の増長を来す以外の何物でもないことを心読せざるをえなかった」、――これまた『現代世界通信』中から。なかなか冴えた観察だ。
そういえば半月ほど以前にも、ニューカレドニアで、フランスの海外領土にて、先住民の暴動発生、マクロンが対応に追われていたが、あれは結局、どのように始末をつけたのだろう。
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