語り手が笠間杲雄でなかったら、きっと私は信じなかった。
彼がポルトガル公使をやっていたころ、すなわち昭和十年前後。
日葡間の関係はしかし、ワインの銘柄ひとつをめぐって寒風骨刺すツンドラ地帯の陽気並みに冷え込みきっていたなどと――鵜呑みにするには、あまりに話が面白すぎるではないか。
肝心要のその銘柄は、もちろんポートワインであった。
(Wikipediaより、ポートワイン)
「ポルトガルの宝石」の聴こえも高いこの酒自体に関しては、笠間の説明はあっさりしていて、
葡萄酒であるが、むしろリキュールに近い強い酒で、世界でポルトガルの特産品になってゐる。
オポルトといふ此国の名港の周囲数百キロに特殊の種の葡萄を植ゑて、数百日の日光の直射を受けて見事な実が成る。出来た酒は酒蔵に置く事十五年にして初めて飲めるといふ高級の品が真正のポートワインである。(昭和十六年発行『甘味』4~5頁)
最低限、要点のみをかいつまんだ印象だ。
続けて曰く、舌に乗せると自然な甘さが口全体に広がって、その醍醐味はまったく言外の沙汰なりと。
発酵途中で77度のブランデーをぶち込むからこそ実現可能な特徴だった。
この処理により酵母の働きを中断せしめ、通常よりも多くの糖をワインの中に残させる。高い度数と自然な甘さが実現される。原理自体は単純なれど、いざ実践の段ともなれば浅からぬ技量が求められるに違いない。そうでなければ当時に於いて一瓶三四十円という、この高価さが説明できない。
数百年の伝統を持つポートワインは当のポルトガル人にとっても「誇り」そのものであるらしく。合衆国やオーストラリアが類似品を作り出し、商品名に「ポートワイン」を含ませて廉く売り捌きはじめた日には、そりゃもう怒髪天を衝く勢いで激昂憤慨したらしい。
だからこんな国策を、白昼堂々実現させる。
ポルトガルは此の酒が国体の清華でもあるやうに、如何なる国との条約にもポートワインの商品名を外国では一切使用せぬ約束をしなければ、通商条約を結ばぬことにしてゐる。(5頁)
ポートワインのブランド一つを守るためなら、極端な話、他の総ての貿易品を犠牲にしても厭わない。
もはや狂気すら見え隠れする彼らの姿勢に、流石に当たるべからざるものを感得したのか。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア等々、先進国家は悉くこの協定にサインして、「世界には今ではポルトガル以外のポートワインは全く消滅した」。
――ただ独り、大日本帝国を除いては。
(『Witcher 3』より、愛とワインの都トゥサン)
そう、わが国には明治四十年の昔から、「赤玉ポートワイン」なる度数の高い甘いワインが存在し、人気を博し続けてきた。これが日本人の想像以上に、本場オポルトのポルトガル人の神経をささくれ立たせていたらしい。
彼らは自分たちの強腰が、断じて虚勢にあらざることを証明せねばならなかった。
笠間杲雄は昭和十三年までポルトガル公使を務めたが、この間ついに「正式な通商条約が結べなかった」と慨嘆している。
自身の懸命な外交努力を容易く打ち消す赤玉・白玉の存在に対して、好意を抱けようはずもなく。
日本で最初に自称ポートワインを造った連中に、別に悪意のあったのでないことは彼等もよく知ってゐる。此の名は何の気なしに附けたので製造家の連中は、恐らく真正のポートワインを一滴も飲んだことのない人達であったに相違ない。併し結果から言ふと、日葡の国交を害してゐることになってゐる。(6頁)
などと、だいぶ辛辣なことを書いている。
更に竿頭一歩を進めて「公平に言ふと、何もポートの名を附けずとも、赤玉ワインとか白玉ワインとさへ云へば、今と少しも違はない商売上の効果はある筈で、恐らく間もなく改称するのであらう」と物語った笠間であったが、この展望が実現するのは実に三十年あまり先、戦後も久しい昭和四十八年に入ってからのことだった。
(Wikipediaより、赤玉ポートワインのポスター、大正十一年撮影)
――と、ここまで書いて、ふと思い直す気になった。
私は先にポートワインのブランドを守らんとするポルトガル人の執念を「狂気的」と表現したが、商標とは、文化とは、本来これぐらいの熱烈ぶりで擁護すべきモノではないか?
つまり、どこぞの半島人に起源を主張されまくり、文化を、歴史を、伝統を、盗用されて汚辱の限りを尽くされようと平気の平左と澄ましていられる現代日本国民こそが異常・異様の極みであって。
笠間杲雄が嫌というほど手古摺らされた、二十世紀ポルトガル人の態度こそ。文明国の国民としてあらまほしき姿なのではないのかと、そんな思考が湧いたのだ。
血圧が上がってきた。
ここから先はワインでも呑みつつ、じっくり考えさせてもらう。
地元で醸造されたのが、折よく手元に一本ある。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓