昨今のフランスでも「黄色いベスト運動」なる政府への抗議活動が進行中で、催涙弾や火炎瓶が飛び交う光景が内外に多大な衝撃を与えたものだが、それでも三色旗を掲げているぶん、彼らはまだ
なにしろ約八十余年前、鶴見三三が目撃した人民戦線のデモに於いては、三色旗より赤旗の方が遥かに多用されたのだから。
ルノーやシトロエンの自動車工場では全部共産党員に占領されて屋根の上高く赤旗が掲げられ、職工は第三インターナショナルの歌を高唱してゐる有様だ。(中略)市中の各所で共産主義者の会合が頻々として行はれ、民衆は赤旗をふり、第三インターナショナルの歌を得意気に高唱するのみならず、噂によると大統領官邸の前でさへも之を歌ってゐたとの話である。(『明日の日本』165頁)
鶴見三三が人民戦線の背後にコミンテルンの跳梁を感得するのも無理はなかろう。
実際問題、共産主義者の浸透力は人間の想像力の限界をいとも容易く超えてくる。
日本に於いてはゾルゲ事件がいい例だし――こともあろうに内閣総理大臣のブレーンが、ソビエト連邦のスパイであった――、フランクリン・ルーズベルト政権内にも数多くのアカの手先が巣食っていたのは今日び半ば常識だ。
有名どころを挙げるなら、ダンカン・リーが最適だろう。
CIAの前身組織、
「公正で正確な情報源」として信頼の厚かったOSSでさえ
他所に至っては、何をかいわんや。
財務省、国務省、農務省、予算局、外国経済局、戦争情報局、戦時生産委員会、FBIに至るまで――あらゆる場所に彼らはいた。
戦慄の時代といっていい。
当時を生きた具眼者たちが「コミンテルン」という単語にどれほどの脅威を感じていたか。鶴見三三の文章からは、その一端が窺える。
「フランスは今や共産主義者の天下となった。否モスクワの支配下に置かれたかの観を呈する」まるで世界の終わりが来たかのような書きぶりであり、「学問にせよ芸術にせよ、十八、九世紀以来世界をリードし来り、思想的にも常に先駆を為し来りたる国が、今更第二のソ連の如き印象を与へ、現にかくの如き行動を目の前に視せつけらるることは、仏国の権威上実に嘆かはしく又遺憾に堪えない」と、忸怩たる思いを遠慮なしにぶちまけている。
(赤の広場)
もし彼が、フランスに対してここまでの敬意を抱懐しているこの男が、1968年5月のパリに居合わせたなら――マオイズムの旋風が吹きすさび、『毛沢東語録』が飛ぶように売れ、どの書店からも姿を消すほど流行し、学生という学生があの醜悪な小著を聖書と崇めて行進する、所謂「五月危機」のあの情景を目の当たりにしたならば、あまりのことに卒倒していたやもしれぬ。
これは悪夢だ、本末転倒にもほどがある。栄誉あるフランス国民が、第二のソ連では飽き足らず、今度は第二の支那になろうとするのか、冗談も休み休み言え――と。
なにしろ鶴見は、信じていたのだ。赤旗下のフランスを目の当たりにしてなお、こんなものは一過性の現象であり、いつか必ず常態に復する日が来ると。
フランス人の国民性は、決して共産主義とは相容れぬ。アカの種子が定着することは断じてないと、そう信奉し、信じる以上にかくあれかしと祈っていたのだ。
そんな鶴見にとって無名戦士の墓にまつわるエピソードは、天を覆う暗雲から差し込んだ、一条の光に他ならなかった。
人民戦線の連中が揃って無名戦士の墓にお参りをしやうとした処が、アンシャン・コンバッタン即ち世界大戦参加兵士一同が反対して之を拒絶した。その言ひ分が面白い。それは既に赤化して愛国心なき者共が、祖国愛の為めに名誉の戦死を遂げた凱旋門にあるお墓に、お詣りをする必要はないといふ趣旨からであった。フランス人の血は未だ腐敗して居らない。(171頁)
一文字づつが、「痛快だ」と声を大にして叫んでいるかのような文章である。
日本に於いては靖国神社、アメリカならばアーリントン墓地。無名戦士の墓とは、そういうものだと考えておいて差し支えない。
英霊たちが永遠に憩うこの墓所は、エトワール凱旋門の下に今も在る。
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