欧州大戦開幕の日をドイツのベルリンにて迎え、その境遇を活かして前古未曾有のこの大戦を側面から存分に眺めた男、鶴見三三の「その後」に触れる。
この男は、出世した。
彼が国際連盟保健委員会の本邦委員に就任したのは大正十三年の一月であり、それから三ヶ月後の四月には、公衆衛生国際事務局委員会の役員をも兼任するに至っている。
国際連盟保健委員会。
公衆衛生国際事務局委員会。
どちらも現在の世界保健機関――WHOの前身に当たる組織であった。
以後、細菌教授として名古屋医科大学に赴任する昭和十二年のその日まで、鶴見はこの二つの組織で事務仕事に従事している。
最初の四年間は、ずっとパリに駐在していた。
(パリの街)
滞在期間としてはこれが最長記録であって、其の後六度フランスに渡った鶴見だが、短ければ二ヶ月、長くとも八ヶ月で引き上げている。
収穫は大きかった。
或は仏国医学者に接触し或は仏国内或は国際医学会に出席し、或は新聞雑誌を通じて仏国に於ける医学の進歩を知得し又は医事衛生上施設の整備を見るの機会に恵まれた。(『明日の日本』144頁)
特にパスツール研究所の人々との交わりは深く、昭和八年の秋不幸にも、同研究所の所長と副所長とが相次いで死没した際には、
「ルー及カルメット両博士を追想し日仏医学親善を提唱す」
なる題名の小論文を発表、後の日仏医学論文交換発表会の実現に大きく寄与することとなる。
フランスに対する愛着も生まれた。
欧州大戦時の首相、「虎宰相」ジョルジュ・クレマンソーの自宅をそのまま使ったクレマンソー博物館を訪れてはその奥ゆかしい清貧な暮らしぶりに感動したりと、医学方面のみならず、文化や史学といった分野にも造詣を深めた形跡がある。
(Wikipediaより、クレマンソー)
それだけに、1935年の「人民戦線」誕生からなるフランス社会の猛烈なアカへの傾斜には、とてつもない衝撃を受けたようだ。
この「人民戦線」とは如何なるものか、鶴見自身の言葉を借りると、
両三年前より社会党と共産党は次第に近づき、五月に行はれた総選挙ではFront populaire即ち人民戦線を組織して勝利を得た。この勝利の原因は労働者の幸福とフランの切り下げを行はぬといふ旗印を掲げたことと、一方には独り労働者のみならず、一般国民が今日までの内閣の政策に不満を感じてゐた為めだが、裏面の消息を聞くと、モスクワから驚くべき金額をばらまいて買収した結果であると云はれてゐる。(163頁)
およそこのような具合になる。
まあ要するに、アカの親玉・ソビエト連邦のコミンテルンが指導の下、労働団体・人権団体・自称「進歩的文化人」等々、フランス国内に点在する左派勢力を糾合したモノとでも考えておけばそれでよかろう。
なんともはや、聞くだに香ばしくてたまらなくなる組織ではないか。
不穏分子の
先づルノーの自動車工場にストライキが起った。その言ひ分は勿論労働時間の短縮と賃金の値上げであった。最初は資本家対労働者間に普通に見る同盟罷業のやうであったが、話がなかなか纏まらず、押し問答をしてゐるうちに、貨物自動車運輸業者に飛び火がしたかと思ふと、田舎の方では瓦斯会社でもストライキを始めた。のみならずフランスの各地方に伝播し、又国境を越えてアントワープでも船荷役の人夫にまで波及した。(164頁)
補足しておくと、アントワープはベルギー国アントウェルペン州の州都で、同国最大の都市である。1920年には、夏季オリンピックも開催された。
このオリンピックで男子テニスの熊谷一弥が銀メダルを獲得している、――日本人のスポーツ選手が史上初めて獲得したオリンピックメダルであった。
大きな百貨店ルーヴル、ブランタン及ガレリー、ラファイエットの売子にも伝染して営業が出来なくなった。それからカフェーやレストランのガルソン(給仕人)も之に加はるだらうといふ噂があり、さうなったら、われわれ外国人にも直接の影響が及んで来る、のみならずその内メトロ(地下鉄)バスさては汽車の運転も中止するだらうとさへデマが飛んでゐた。(164~165頁)
順調に都市機能が麻痺しつつある。
革命の実績は伊達ではない。フランスはまったく、民衆運動が盛んな土地だ。
その所為だろう、1875年に第三共和国が成立して以降、この人民戦線内閣が成立するまで実に101回も内閣が交代している。
たった61年間に、101回の交代だ。
平均寿命は、せいぜい七ヶ月程度に過ぎない。
眩暈を起こしたくなる数字であろう。
鶴見はこれを、「行き過ぎた個人主義の弊害」と評した。
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