1918年11月13日、西部戦線の片隅で一人のドイツ軍人が自殺した。
それも自己の掌握する部隊を率いて本国に帰還せよ、と命ぜられた直後の自殺であった。
遡ること2日前、フランス、コンピエーニュの森に於いて、ドイツは連合国との間に休戦協定を締結している。既に戦闘は終熄したのだ。生きて故郷に帰れるというのに、いったい何故――?
その疑念は、このゲオルグ・ブライトハウプトという29歳の若者が一ヶ月前、銃後に宛てて送った手紙を一読すればたちどころに氷解しよう。
私たちは一八七〇年に我が軍が申し分ない凱旋を行った土地からあまり遠くないところにゐるのですが、今はどうでせう、私たちの政府は国民と国軍とを売らうとしてゐるではありませんか?! 全く字義通り売らうとしてゐるのです。ほんとにどうしてくれたらいいかわからない心持で、まさに喧々囂々たる有様です。私たちの胸の中には怒りと恥と絶望とがこんがらがってゐます。今日はヒンデンブルクから軍へ対して、自分を信頼してくれるやうにとの達しがありました。彼は皇帝によって任命された政府を支持する義務があるので、講和に賛成するといふのです。もうなんにもいひたくありません。結局かれが裏切者たちへ対してどうすることもできないといふ極めて明瞭な証拠なんです。(『最後の手紙』302頁)
(Wikipediaより、休戦協定締結の絵画)
ゲオルグの手紙はこれ以降、
「いっそ部隊を率いてベルリンを襲い、すべての講和呼号者を逮捕・銃殺してやりたい」
とか、
「こんな馬鹿な目に遭うために、私たちの四年間はあったのか」
とか、どんどん過激さを増してゆき、ついにはとりとめもなくなってしまう。
文章というより溢出する極彩色の感情をそのまま塗りたくったといってよく、こんな代物がよくもまあ、特に検閲を受けもせず配達されたものではないかと妙な感心が湧くほどだ。
要するに彼は、あてつけに死んだ。
(ドイツ凱旋門)
ゲオルグに限らず、本国政府の講和ムードに失望し、身を引き裂かんばかりの悲嘆に暮れた前線兵士は数多い。
たとえばとある砲兵陣地の電信所に詰めていた、フリッツ・ホスフェルトなどはどうであろう。
電信兵としていろいろな会話を聴き取ることのできるのは大変興味のあることですが、勿論その内容については厳重な黙秘義務が課せられてあります。ベルリンに於ける出来事もこの上ない緊張を以って見まもってゐます。この頃は領袖と呼ばれるやうな人々も混へて議員の内の多数の者は、無節操な和議提出といふことを幾度も繰り返して論じてゐるやうですが、この冷静な思慮を失った和平熱こそは、有識者階級の意思の力の萎縮、否むしろ政治的大罪であって、結局そのためにひどい償ひをしなければならないのは私たちだといふことになるのです! 勿論中にはかふいふ風潮に警告を発してゐる正しい識者も見受けられますが、しかしかうした真面目な人々のいふことは少しも聞かれてゐないやうです。今やドイツ国民はベルリナー・ターゲブラット紙に拠る非良心的なユダヤ人共に穢され且つ腐らせられてゐます。(247頁)
これを書いているフリッツは、当節弱冠18歳。
「われわれは戦闘に勝ち、イギリス人は戦争に勝ってゐるのです。最後の決を与へるものは戦闘に於ける勝利ではなくて、何よりも先づ第一に国民の政治的成熟なのです」と総括したことといい、生きていたならさだめし優秀なナチス党員となったろう。
或いは極右テロ組織「コンスル」にでも参加して、ゲオルグが呼んだところの「裏切者」どもに血の報復を味わわせていたに違いない。
ナチがあまりに有名過ぎてこちらの組織はずいぶんマイナーなきらいがあるが、決して見逃していい存在ではないだろう。ヴェルサイユ条約にドイツ首席全権として調印したマティアス・エルツベルガーは、まさにその「罪」のために彼らの手で暗殺されたし、「近代ドイツの生んだ最も理想主義型の賢明なる政治家」ヴァルター・ラーテナウもまた然り。
戦後間もなく首相を務めたフィリップ・シャイデマンも標的にされ、あと一歩で同様の悲運に見舞われる寸前であった。
コンスルが1919年から1922年の短期間中に殺害した人数は、実に354名の多きに及ぶ。
その影響が少なかろう筈がない。
(Wikipediaより、マティアス・エルツベルガー)
驚くべきことにこの集団は、ヒトラーさえも敵視した。
彼らはナチスを「西洋デモクラシーの手先でありドイツ民族の敵」と批難し、我々こそ真の第三帝国と主張、突撃隊をはじめとした各組織に浸透し、総統の首を執拗に狙い続けるに至っては、狂犬も極まれりというべきだろう。
当時のドイツに渦巻いていた怨念は、想像の限界を遥かに上回って余りある。魔窟としかいいようがない、おそるべき狂奔の時代であった。
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