穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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浪漫の宝庫、埼玉県 ―陛下の乳母の日記帳―

 

 関ヶ原の戦勝に天下を掴んだ家康は、そののち思うところあり、氷川神社に神輿を奉納したという。


 直筆の願文を、そっと中に納めて、だ。

 

 

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(家康直筆、剣法伝授起請文)

 


 国家安泰を念ずる内容だったというが、真実ほんとうのところはわからない。


 ――みだりに開けば、目がつぶれる。


 人々は正気でそう信じ、権現様の霊威を前にただひたすらに恐れ入り、敢えて触れようとするものは、徳川三百年の全期を通してただの一人もなかったからだ。


 幕府瓦解後も、暫くの間はこの畏怖の心が生きていた。


 生きていたどころの騒ぎではない。


 ――もうよろしかろう。


 一つの史実として、家康がどんな文章を書いたか確かめようと。


 調査が認められたのは、明治・大正の御代も過ぎ、昭和に入ってからというから「信仰」の威力は凄まじい。当の徳川家康自身、この結果には驚いたのではなかろうか。

 

  

Front shrine of the Hikawa shrine

Wikipediaより、氷川神社) 

 


 仰々しい儀式を経て、開かずの扉が開かれる。


 しかし参集した人々は、盛大な肩透かしを喰らわされる憂き目に遭った。


 なかったのである。


 家康が納めたという願文は、神輿のどこをどう探しても影も形も見当たらなかった。


「おそらく維新の騒ぎに紛れ、誰か幕府の役人あたりがこっそり取り出してしまったのでしょう」


 そう語ったのは当時の宮司有賀忠義。


 東京日日新聞浦和支局長、北条清一の取材に対する答えであった。


 文化的には損失だろう。痛惜に堪えないといっていい。


 しかし「失われた古文書」というこのフレーズの、妖しいまでの魅力ときたらどうだろう。否が応にも気分が湧き立つ。浪漫を感じて仕方ない。夜寝る前の布団の中で耽る妄想、天井の隅の暗がりに手前勝手に描く絵図。その顔料として、これ以上相応しい素材があるか。

 


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(顔料を求める奴隷騎士の図)

 


 だいたい「氷川神社」と「家康」という、この取り合わせからしてなかなか乙なものではないか。氷川神社の祭神は、

 


 以上三柱。


 三貴神の一角という、喩えようもなく尊貴な生まれでありながら、その性情の荒々しさが災いし、高天原を追放された男に向かい、いま日ノ本に新しく覇道を敷いた武門の長がなにごとかを奉る。


 さても劇的な構図であった。


「失われた」ということが、却って想像の羽翼を伸ばす余地になる。ミロのヴィーナスやプラネット号と同じ原理だ。

 

 

Front approach of the Hikawa shrine

 (Wikipediaより、氷川神社表参道)

 


 埼玉県にはもうひとつ、無限の興味を掻き立てられる文書というのが存在している。


 すなわち「野口善子の日記帳」だ。


 この名を耳にしただけでピンと来る方もいるだろう。そう、昭和八年十二月二十三日にお生まれになった皇太子殿下――現在の上皇陛下の乳母を務めた女性である。


 以下、有賀忠義と同様に、やはり北条清一の記事から抜粋しよう。

 


 その時、かの女は婦人雑誌を読んでゐた。まあ、ようこそ、いらっしゃいませ――かの女とは、皇太子殿下の御乳人たりし野口善子さんである。
 ここは北埼玉郡幸手町野口節氏夫妻の住居応接間である。節君は、のれんの古い呉服屋の若旦那らしく、縞の着物に前垂を掛けてゐた。(中略)
「出仕する時には、お暇を利用して洋裁のお稽古、お琴のお稽古などもいたしたいと存じ、荷物にしてもアレもコレも持って上らうと存じたのですが、奉仕いたしますと心配でそれどころではございませんでした。出仕する前に県の方が、日記は毎日おつけなさいと申されたので、ずっとつけてをりましたが、今ではこれが私にとって、唯一の光栄ある記録となりました。時々にこの日記を出して読み返すとき、感激を覚へます。宅の子供がもう歩くやうになりましたので、畏れ多くはございますが、皇太子さまの御事どもが、特に思ひ出されます。昭和十年参内いたしました時、殿下に拝謁いたしまして、私といふものが御記憶のうちにあらせられ、お笑ひ遊ばしましたので、私は思はずしらず有難さに涙が出ました」(『武州このごろ記』62~64頁)

 

 

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(野口善子さん)

 


 本書が刊行されたのは昭和十年七月十日。


 その後、激動する時勢の中で、彼女の日記はどういう運命を辿ったのだろう。


 現存しているのであれば、一目だけでも拝んでみたいところだが。いや、この願いが叶わずとても、せめて焼夷弾の火にだけは焼かれないでいて欲しい。

 

 

  

 

 


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