関ヶ原の戦勝に天下を掴んだ家康は、そののち思うところあり、氷川神社に神輿を奉納したという。
直筆の願文を、そっと中に納めて、だ。
(家康直筆、剣法伝授起請文)
国家安泰を念ずる内容だったというが、
――みだりに開けば、目がつぶれる。
人々は正気でそう信じ、権現様の霊威を前にただひたすらに恐れ入り、敢えて触れようとするものは、徳川三百年の全期を通してただの一人もなかったからだ。
幕府瓦解後も、暫くの間はこの畏怖の心が生きていた。
生きていたどころの騒ぎではない。
――もうよろしかろう。
一つの史実として、家康がどんな文章を書いたか確かめようと。
調査が認められたのは、明治・大正の御代も過ぎ、昭和に入ってからというから「信仰」の威力は凄まじい。当の徳川家康自身、この結果には驚いたのではなかろうか。
仰々しい儀式を経て、開かずの扉が開かれる。
しかし参集した人々は、盛大な肩透かしを喰らわされる憂き目に遭った。
なかったのである。
家康が納めたという願文は、神輿のどこをどう探しても影も形も見当たらなかった。
「おそらく維新の騒ぎに紛れ、誰か幕府の役人あたりがこっそり取り出してしまったのでしょう」
そう語ったのは当時の宮司、有賀忠義。
東京日日新聞浦和支局長、北条清一の取材に対する答えであった。
文化的には損失だろう。痛惜に堪えないといっていい。
しかし「失われた古文書」というこのフレーズの、妖しいまでの魅力ときたらどうだろう。否が応にも気分が湧き立つ。浪漫を感じて仕方ない。夜寝る前の布団の中で耽る妄想、天井の隅の暗がりに手前勝手に描く絵図。その顔料として、これ以上相応しい素材があるか。
(顔料を求める奴隷騎士の図)
だいたい「氷川神社」と「家康」という、この取り合わせからしてなかなか乙なものではないか。氷川神社の祭神は、
以上三柱。
三貴神の一角という、喩えようもなく尊貴な生まれでありながら、その性情の荒々しさが災いし、高天原を追放された男に向かい、いま日ノ本に新しく覇道を敷いた武門の長がなにごとかを奉る。
さても劇的な構図であった。
「失われた」ということが、却って想像の羽翼を伸ばす余地になる。ミロのヴィーナスやプラネット号と同じ原理だ。
埼玉県にはもうひとつ、無限の興味を掻き立てられる文書というのが存在している。
すなわち「野口善子の日記帳」だ。
この名を耳にしただけでピンと来る方もいるだろう。そう、昭和八年十二月二十三日にお生まれになった皇太子殿下――現在の上皇陛下の乳母を務めた女性である。
以下、有賀忠義と同様に、やはり北条清一の記事から抜粋しよう。
その時、かの女は婦人雑誌を読んでゐた。まあ、ようこそ、いらっしゃいませ――かの女とは、皇太子殿下の御乳人たりし野口善子さんである。
ここは北埼玉郡幸手町野口節氏夫妻の住居応接間である。節君は、のれんの古い呉服屋の若旦那らしく、縞の着物に前垂を掛けてゐた。(中略)
「出仕する時には、お暇を利用して洋裁のお稽古、お琴のお稽古などもいたしたいと存じ、荷物にしてもアレもコレも持って上らうと存じたのですが、奉仕いたしますと心配でそれどころではございませんでした。出仕する前に県の方が、日記は毎日おつけなさいと申されたので、ずっとつけてをりましたが、今ではこれが私にとって、唯一の光栄ある記録となりました。時々にこの日記を出して読み返すとき、感激を覚へます。宅の子供がもう歩くやうになりましたので、畏れ多くはございますが、皇太子さまの御事どもが、特に思ひ出されます。昭和十年参内いたしました時、殿下に拝謁いたしまして、私といふものが御記憶のうちにあらせられ、お笑ひ遊ばしましたので、私は思はずしらず有難さに涙が出ました」(『武州このごろ記』62~64頁)
(野口善子さん)
本書が刊行されたのは昭和十年七月十日。
その後、激動する時勢の中で、彼女の日記はどういう運命を辿ったのだろう。
現存しているのであれば、一目だけでも拝んでみたいところだが。いや、この願いが叶わずとても、せめて焼夷弾の火にだけは焼かれないでいて欲しい。
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