修学旅行の行き先に、北海道が選ばれた。
七月五日から十五日まで、十泊十一日の日程だ。
大正七年、東京女子高等師範学校本科四年生二十九名たちのため、組まれたプログラムであった。
旅費は一人あたま二十円。現代の貨幣価値に換算して、ざっと八万円である。十泊もするには随分安いが、そこには勿論タネがある。
ざっくばらんに言うならば、ホテルに泊まらないからだ。
寝床はもっぱら、行く先々の女学校の寄宿舎に求めるという寸法である。
五日の午後六時半、上野駅から出発した彼女らは、
丸一日を延々移動に費やして、
七日、漸く試される大地へ上陸すると、その夜は小樽高等女学校の寄宿舎にて一泊し、
翌日からは札幌へ、同区の女子職業学校に二泊しながら附近を丹念に見てまわり、
更にお次はアイヌ集落を訪問すべく、白老へと足を運んで、
北海道の原風景に思いを馳せたら、登別温泉にゆったり浸かり、
汗に疲労を溶かして流せば、そろそろ再び本州へ舞い戻るべき頃合いだ。
(白老の長、クマサカ翁)
往路に於いてはただ通過した仙台市、しかし今度は宮城県立第一高等女学校の寄宿舎にて二泊して、政宗ゆかりの、この「東北の都」の味をたっぷり堪能する次第。
それが言うなら、旅行の締めくくりであった。あとはひたすら鉄道にて移動して、東京へと帰るのみ。十五日の午後六時半、上野駅着、全行程を完了である。
行く先々で、他校の寄宿舎にお邪魔するというこの遣り口は、当時に於いては割とポピュラーな方であり。東京女子高等師範学校自身また、他県からの来訪者を幾度か迎えているそうな。
持ちつ持たれつの関係性と言うべきか。それだから当時の修学旅行は他の学校の生徒との、交流会の側面も備えていたそうである。
(手芸講習会の景)
関係者の話によると、出発前に宮城の方から問い合わせがあったとか。
「ウチは普段、寮生の食事に麦飯を提供しているが、それでも構わないだろうか」
お客様でも特別扱いはしてやれぬ、御馳走は期待するなというわけだ。
折しも大正七年はシベリア出兵に関連し、米騒動の勃発したとしである。
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