大日本帝国憲法起草の衝に当たった四人の男。
伊藤博文、
井上毅、
伊東巳代治、
そして金子堅太郎。
彼らのうち二人までもが、昭和どころか大正の世を見るまでもなく死んでいる。
まず井上が、肺結核の悪化によって明治二十八年に。
次いで伊藤が、テロリストの凶弾を受け、同四十二年のハルビンで。
それぞれ三途の川を渡らざるを得なくなり、伊東と金子の二人ばかりが、ただ地上に残された。
(金子堅太郎)
最も長命したのは金子である。彼は昭和十六年、大東亜戦争が間近に迫り、加速度的に騒然さを増す世情の中で物故した。
享年、実に九十歳。憲法制定の内幕に関する四方山話は、専らこの金子の口から語られたという印象だ。たとえば昭和九年前後、とある講演会の席上で、彼はこんなことを言っている。
「この国に憲法を布くに当たって、最も御熱心であられた方は、伊藤さんでも大隈さんでもない。立憲政治実現のため明治大帝がお示しになられたひたむきぶりは、言葉にしようがないほどだ」
そう前置きして、金子は話す。
憲法制定の最終段階――枢密院での日々の記憶を。
(Wikipediaより、楊洲周延「枢密院会議之図」)
およそ三年がかりで作製された草案は、この機関で更にまた、半年以上の時日を費やし入念な審査を加えられる運びとなった。
当該作業は陛下のご臨席のもと遂行されて、例外は一度もなかったという。欠席どころか遅刻さえ、陛下は無縁であらせられた。
至尊に於いて既に然り。群臣たちに緩みがあろうはずもなく、みな必死の気迫をみなぎらせて事に当たったものだった。
金子さんは語を次いでいはれた。
「嘗て或る日のこと、侍従長のあわただしく入り来り、伊藤枢密院議長に私語するのである。議長は、何事かを直ちに陛下に内奏する。陛下は相変わらず泰然自若として玉座にあらせられる。而してそのまゝに議事は進行、やうやくにして議論終結、可否採決の上、陛下は
昭宮殿下とは、すなわち昭宮猷仁親王殿下を指しているに違いない。
明治大帝の第四皇子で、わずか一歳にして夭折を遂げた。
その日、明治二十一年十一月十二日。枢密院での審議期間と、なるほど確かに合致する。
我が子の死にも動ずることなく――少なくとも外面には漣ひとつ立たしめず――、己が任を全うなさるその御姿は、勢い古武士を連想せずにはいられぬものだ。具体的な名を挙げるなら、安藤直次その人を。
犬以上の忠実さで家康に仕えたあの男。三河武士という概念に手足をくっつけたような彼もまた、息子に先立たれる悲惨を経ている。大坂夏ノ陣の喧騒の中で、嫡子重能が戦死した。
その旨、前線から伝えられるや、直次はほとんど反射的に、
「何を驚くことやある」
報告者を怒鳴りつけていたという。
「侍が戦場で死ぬるのは当たり前のことではないか」
あるいは、麾下の部隊の動揺を防ぐためでもあったのだろうか。
やがて戦局の推移に伴い、遺体近くを通ったときも、この三河者は
「狗にでも喰わせておけ」
と吐き捨てたきり、収容の「し」の字も持ち出さなかった。戦闘が熄んでから、はじめて声を放って泣いた。
武士道の精華といっていい。
維新後、回天を遂げた志士たちは、年若い帝をして剛毅な気性を養わせんと、後宮制度を断然改革。女官を悉く解任し、これに代るに、島義勇の如き選り抜きの硬骨漢を以ってした。
――これ迄は女房奉書など言ひて諸大名へ出した数百年来の女権が只一日にて打消され、愉快極まりなし。
踊るような文体で記録したのは、薩摩の吉井友実である。
それからおよそ二十年。志士らの目論見、果たして狙い過たず、みごとに的を射、実を結んだといっていい。
あくまでも安藤直次の例に擬して考えるなら。――
明治大帝におかれては、帝国憲法の制定を、合戦以上の重大事として認識なされておられたのだろう。
その熱心の度合いに於いて最上位とした金子の言も、蓋し至当と言わねばなるまい。
(明治神宮)
我まつりごといかがあらむと
(御製)
明治四十五年七月三十日、大帝陛下崩御の日。二重橋で泣き崩れた人々の心に、漸く理解が追いついた。
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