故郷を遥か9000マイル。プラネット号と銘打たれたその船は、1907年以降およそ7年間余に亘って赤道付近の海洋調査に従事した。
船籍は、帝政ドイツのものである。
当時彼らがこの一帯に保有していた植民地――ドイツ領ニューギニア――経営の一環たる施策であった。
音響測深法いまだ無く。ワイヤーで錘鉛を吊り下げて底に着くまでの長さを測る、所謂錘測しか調査法がなかった以上、任務の長期化もやむを得ない流れであろう。ときにワイヤーを喪失する憂き目に遭いながらも、彼らは祖国のためによく働いた。それまで精々5000m程度の深度だろうと思われていた当域に、一躍8000mを超える大海溝が存在すると明らかにしたのも彼らであった。
今ではニューブリテン海溝の名で知られるその構造は、当時ノイボンメルン海溝と称されていたものであり、プラネット号が1908年7月4日、ブーゲンビル島西海岸から100㎞沖で深度8045mを計測したことに端を発する。
海洋地質学の発展に、プラネット号の貢献は蓋し大なりと言えるであろう。それだけに、その末路は不遇感のつきまとう、ひどく哀れなものだった。
第一次世界大戦の勃発時にも、この船は未だ南洋に錨を下ろしたままだったのだ。既に東洋最強の海軍を持つ大日本帝国が、ドイツに宣戦布告を行っている。このあたりはもう「平和の海」とは程遠いのだ。ふと気が付けばいつ襲われるかもわからない、超危険地帯に変貌していた。
――おれたちはどうなるんだ。
と、船員の誰しもが思っただろう。
結論から言ってしまうと、どうにもならなかったのである。
調査船に過ぎない悲しさ、速力に於いて甚だしく劣る以上、マクシミリアン・フォン・シュペー率いる東洋艦隊に合流するわけにもいかず。ヤップ島の港深くに身を潜め、祖国の勝利を祈る以外に何もできることがなかった。
(Wikipediaより、マクシミリアン・フォン・シュペー)
が、戦局はドイツにとって不利に傾き。
やがて青島要塞を陥落せしめた日本軍がミクロネシアのこの島嶼にも上陸する運びとなると、もはやこれまでと血涙を呑み、プラネット号はみずから沈没。未発表の膨大な資料諸共に、海の藻屑と化したのである。
ところがこれで終わらなかった。数奇な運命はまだ続く。
自沈からものの二年でこの船は、再び海上に
社長の岡田勢一は、後に「日本のサルベージ王」の異名を戴き、岸田内閣の運輸大臣すら務めた漢。プラネット号の引き揚げには彼自身先頭に立って指揮を執り、何ら遺漏なき仕事ぶりを発揮した。
それに関して、奇話がある。船倉を検めた職員が、無傷のミュンヘンビールの瓶を夥しく発見したのだ。
「役得じゃ」
一同、嬉々として栓を開け、中身を喉に流し込む。「よく冷えていてうまかった」と、後に座談の席上で岡田勢一は語ったものだ。
(Wikipediaより、岡田勢一)
が、奇蹟はこれで種切れであり。
散逸した資料の方は散逸したまま、ついぞ再び人間世界に
失われた記録――。
不謹慎な物言いになるが、なんと浪漫を掻き立てさせるフレーズだろう。
妄想の種とするにあたって、これほど好適な題材はない。
正直胸が高鳴っている。中二病が再発しそうだ。大学ノートに満載された黒歴史よ。舞台が海というのも素晴らしい。クトゥルフ神話と絡めれば、割合面白い話になるんじゃないか。『Bloodborne』をプレイしながら、ちょっと構想を練ってみようか。……
(ニューブリテン島)
プラネット号は修繕の後、第八真盛丸と名を変えて、原田商事の所有下となる。
名実ともに、生まれ変わったといっていい。
大東亜戦争勃発前後まで現役で航行していたというから、もともとの設計が、よほどしっかりしていたのだろう。
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