昭和五年発行、鶴見祐輔著、『自由人の旅日記』。
ここ数日来、いろいろとネタにさせていただいている古書である。
総ページ数、520頁。なかなかの厚さといっていい。読み応え十分な一冊だった。
就中、もっとも深く感銘を受けた箇所はどこかと訊かれれば、私は即座に、
人間の心を見抜く特別の力をそなへられたエドワード七世は、貧民窟を訪問するときにも、立派な装束をしてゆかれた。貴き王者が、貧しき人の上を忘れない、といふことを、彼等に知らすためである。貧民がいかにも王様らしいお姿を見て、随喜の涙を流した。彼等は王者は王者らしく、貴族は貴族らしかれと
英国王の威徳に触れた、この部分こそと答えよう。
掛け値なしに胴が慄えた。
そうだ、そうとも、これでこそと思わず叫んだものである。
私はよくフィクションの上に綴られる、「平民に扮して街に出てゆく王侯貴族」が嫌いであった。一種の定番なのであろうが、アレをやられると決まって胸がむかむかし、鼻持ちならない気分になった。
「気取らない、民衆に寄り添わんとする君主像」を演出したがっているのだろうが、大抵の場合あまりに過度で、逆にあざとく、嫌味なものと化している、と言うべきか。上が下に
気分の問題であるだけに、このあたりを整然と説くのは難しい。言葉にすればするほどに、本質から遠ざかってゆくような気さえする。
とどのつまりは、
――あれは嫌いだ。
と、捨て台詞を吐くしかないのではないか。
それでは逆に何が好きかと問われれば、まさにエドワード七世のように、王者然とした王者なりとこちらはハッキリ回答できる。
やんごとなき御方というのは、やんごとなく在り続けるため、換言すればその権威を保つため、力を尽くして欲しいのだ。そうであってこそ尊敬し甲斐も生まれよう。よく言われるところだが、「権力」と違って「権威」の方は絶対に一朝一夕では成立し得ないものなのだから。
鶴見祐輔、英国王に更に触れ、
或る外国人が、エドワード七世の陛下の戴冠式が、陛下の重患の為め延期せられた折、ロンドンについた。荷物を運んでくるホテルの
「王様が御病気だってね」
運搬夫はすぐはね返した。
「王様とわしたち貧乏人とは、病気になる暇なんかねーや」
そして、彼は、何等大声明をした様子もなく、荷物をガタンと床の上にほり出した。外客はその言葉を、無限の興味を以て幾度となく心の中に繰りかへした。そこに、倫敦児の心を読む明瞭な索引がある。(208~209頁)
「素晴らしい」以外の言葉が見付からぬ。
これこそまさに、立憲君主国家にとっての理想形ではなかろうか。
腹をたたいて「帝力何ぞ我にあらんや」などとほざいた支那人とはまるきり違う。流石は大英帝国と、読んでいて本当に爽快だった。
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