穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

※当ブログの記事には広告・プロモーションが含まれます

島帝国のニヒリスト


 露帝ニコライ一世は身を慎むこと珍奇なまでの君主であって、例えば彼が内殿で履いた上靴は、生涯一足きりだった。

 

 

Franz Krüger - Portrait of Emperor Nicholas I - WGA12289

Wikipediaより、ニコライ一世)

 


 むろん、時間の荒波により生地は痛むし穴も空く。しかしながら空くたびに、針と糸とを携えた皇后さまが駈けつけて、せっせとこれを繕った。


 そんなこんなで、東郷さんの障子のように滅多矢鱈と継ぎ当てされたその靴は、主人の没後も永く殿中に保持されて、遥か後世に向けてまで彼の徳を投射する触媒として機能した。これぞ王者の亀鑑なり、皆々仰ぎそうらえと、主にそんなニュアンスで。

 

「然り、亀鑑・・だ、いい手本だよ」


 節倹こそは権力者の自衛策、富豪が行う慈善事業と同様に、身を保つため不可欠なモノ――。


「そうした観点からいって、露帝ニコライ一世はまさに模範と呼ぶに足る」


 おそろしく乾いた理性の筆でそんな意見を述べたのは、毎度おなじみ福澤諭吉


 慶應義塾唯一の「先生」たるこの人は、何の容赦も感激も混じらせることなきままに、襤褸靴の価値を腑分けした。

 


和漢古今の名君賢相と称する人物にて節倹を重んぜざる者なく、人心の帰服するは単に此一点に在りと云ふも可なり。蓋し君主政治の国柄に於て、執政者の権力無限なるものは、却て自ら之を節してほしいままにせず、政治上の権威こそ盛なれども、肉体の快楽に至りては無責任の人民に及ばざること多し。君相たる者も中々以て苦るしきものなり、左まで羨むに足らざるものなりとの趣きを示して、国民の道徳心を刺衝すると同時に、其羨望の念を断絶せしめるの必要に出でたることならんのみ

 


 文中用いられている「羨望」の字は、そのまま「嫉妬」に変換しても可であろう。

 

 

Alexandra Fedorovna by C.Robertson (1840s, Hermitage) detail

Wikipediaより、ニコライ1世皇后、アレクサンドラ・フョードロヴナ)

 


 小人の妬心ほど恐るべきものはないのだと、たとえどんな大人物でもこの毒煙にまみれたが最後、五臓六腑は腐敗して、足腰立たなくなるのだと、そのあたりの機微につき、福澤諭吉は知りすぎるほど知っていたに違いない。


 実際問題、彼の掲げた帝室論は的を射ている。現代日本社会でも、いと貴き場所の方々が公に姿を現す場合、いの一番に話題になるのは装束のだ。ティアラがいくら、ドレスがいくら、新居の予算がいくらだの、愚にもつかない次元のことで立ち騒ぐ。


 結局のところ、大した差は無いのであろう。現代人と明治人とで、精神のツボ、勘所は共通だ。だから福澤の見抜いた習性、処世のコツも、多く通用し続ける。


 嘆けばいいのか、喜べばいいのか。


 あらゆるすべてに先例がある。この疑問すら先人たちが、とうの昔に悩み尽した代物なのだ。参照するに如くはない。


「現代文化人の精神能力は、最盛のギリシャ時代より遥かに低い」


 と、肩をすくめて嘯いたのは二十世紀黎明の、とある英国紳士であった。

 

 

(個人的アサクリシリーズ最高傑作)

 


「人類の精神能力の退化と進化とを説くは、一つの妄想である」


 これまた英人、チェンバレンの放った皮肉。


 いったいイギリス人というのは厭世主義に傾倒してすら悠々迫らざるというか、心の余裕の担保を忘れることがなく、「老熟」の印象、いよいよ募る。


 初代ボリングブルック子爵、ヘンリー・シンジョンに至ってはもう堪らない。


「世の中に生れて来るのもなかなか厄介だが、世の中を出ていくのもまた一層厄介であり、気が利かないことでもあるので、いっそ最初から生れて来ない方がマシだ」


 これだけ深刻なことを言いつつ、しかし同時に、どこか瓢げているような、爽やかさも含まれていて、よくよく練られた人格を背後に感ずるものである。


 なお、シンジョンは上の如き意見を呈しておきながら、自分はちゃっかり還暦越えて、七十三歳まで生きた。

 

 

1stViscountBolingbroke

Wikipediaより、ヘンリー・シンジョン)

 


 彼が主に活動したのは十八世紀。当時に於ける平均寿命を鑑みて、これは十分、長寿と呼べる。英国人とは、つまりこういう奴である。なんともはや天晴れな、世巧者どもではあるまいか。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ